第4話 普通に生活できない女
第4話 普通に生活できない女
浩司が北陸へ出発した翌日、千鶴は二階の押し入れを開けた。旅行鞄を出すために浩司が中のものをかき回し、客用の座布団と夏掛けが畳の上へ落ちたままになっていた。窓の外では風に揺れた木瓜の赤い花が、ときどきガラスへ影を落としていた。
千鶴は生成りのブラウスに、古い藍色のもんぺをはいていた。埃を吸わないよう白い手拭いで髪を包み、押し入れの上段から毛布を一枚ずつ下ろした。毛布の間から去年の防虫剤が転がり、畳の縁で止まった。
「これは、まだ使えそうね」
独り言を口にしながら、千鶴は防虫剤を小皿へ載せた。以前なら浩司に「何でも取っておくから片づかない」と言われるところだった。けれど新しい防虫剤は値上がりしており、匂いが残っているものを捨てる必要はなかった。
押し入れの奥には、桐の箱が三つ重なっていた。いちばん上の箱には、浩司の冬用の丹前が入っている。二番目は子どもたちが小さかったころの七五三の着物で、いちばん下には布で包まれた黒い箱があった。
千鶴は膝をつき、両手で黒い箱を引き出した。長く動かしていなかったため、箱の底が押し入れの板へ張りつき、乾いた音を立てた。蓋の上には白い埃が積もり、千鶴の指の跡が三本ついた。
「まだ、ここにあったのね」
箱の中には、日本髪の鬘が入っていた。丸髷に結われた黒髪は薄紙に覆われ、鼈甲色の簪が横へ添えられている。鬢付け油の匂いはほとんど消えていたが、顔を近づけると、甘く重い香りがかすかに残っていた。
さらに奥から、紅色の引き着を出した。裾には金糸と銀糸で鶴が刺繍され、松の枝には緑、梅の花には白と薄桃色の糸が使われている。千鶴が若いころ、日本舞踊をしていた知人から譫り受けたものだった。
引き着の袖を広げると、畳の上が急に明るくなった。千鶴は刺繍された鶴の背を、指の腹でゆっくり撫でた。固く盛り上がった金糸に触れると、三十五年前の正月に嗅いだ、出汁と鬢付け油の匂いが戻ってきた。
結婚して初めての大晦日、千鶴は朝から黒豆を煮ていた。実家の料理屋では大鍋で作ったが、新居にあるのは、母が持たせてくれた両手鍋一つだった。鉄釘を布へ包んで入れ、豆が踊らないよう弱火にし、皺が寄らないよう何度も煮汁を確かめた。
昼過ぎ、浩司が障子を開けて台所へ顔を出した。灰色のセーターに黒いズボンをはき、片手には競馬新聞を持っている。千鶴は栗を裏ごししていたため、額へ細い髪が何本も張りついていた。
「明日、部下を三人連れてくるから」
浩司は年末の天気でも知らせるように言った。千鶴の手が、裏ごし器の上で止まった。鍋では昆布巻きが煮え、甘辛い醤油の匂いが湯気と一緒に天井へ上っていた。
「三人って、何時ごろ?」
「昼前かな。初詣の帰りに寄る」
「お食事は?」
「正月なんだから、おせちがあるだろう。大したものはいらないよ」
「お酒は飲むの?」
「そりゃ飲むさ。俺の部下なんだから、粗末なものは出すなよ」
浩司は冷蔵庫から瓶ビールを一本取り出した。千鶴が正月用に買ったものだったが、止める前に栓を抜いている。泡が瓶の口からあふれ、浩司は台所の布巾で拭いた。
「その布巾は、出汁をこすのに使うのよ」
「洗えば同じだろう。細かいことを言うな」
浩司はビールを持って居間へ戻った。テレビから競馬中継の音が聞こえ、やがて大きな歓声が上がった。千鶴は濡れた布巾を洗い直し、鍋から出汁を取り直した。
重箱へ詰める予定だったのは、黒豆、栗きんとん、紅白なます、伊達巻、昆布巻き、煮しめだけだった。三人分増えるなら、海老の艶煮も足したほうがいい。酒を出すなら、蒲鉾と酢の物だけではなく、口取りも必要になる。
千鶴は買い物籠を持ち、商店街へ走った。魚屋の店先には鰤、鯛、数の子が並び、砕いた氷の上から潮の匂いが立っている。伊達巻と蒲鉾はほとんど売り切れ、残っていた紅白蒲鉾には、普段なら買わない値段がついていた。
「奥さん、蒲鉾ならこれが最後だよ」
魚屋の主人が、紅色の板蒲鉾を持ち上げた。千鶴は値札を見て財布の中を確かめた。正月用の食費として浩司から渡された金額では、酒と海老を買えば足りなくなる。
「ヒラメは、まだありますか」
「天然ものが一枚あるけど、どうするの。刺身にする?」
「蒸して、すってみます。蒲鉾にできますよね」
「そりゃ、あんたの実家なら作るだろうけど、家でやるのかい」
「やってみます。形が悪くても、切れば分かりませんから」
魚屋の主人は笑い、少し小ぶりのヒラメを選んでくれた。頭と内臓を落としながら、骨は吸い物の出汁に使えると別の袋へ入れた。千鶴は海老とヒラメを籠へ収め、八百屋で金柑と花蓮根用の蓮根を買った。
帰宅すると、浩司は炬燵で眠っていた。競馬新聞は顔の上に載り、飲み終えたビール瓶が畳の上へ転がっている。石油ストーブの上の薬缶は空になり、底から焦げた金属の匂いがしていた。
「浩司さん、薬缶が空よ。危ないでしょう」
千鶴は火を弱め、薬缶へ水を足した。浩司は新聞をずらして目を開けたが、起き上がらなかった。卓上には剝きかけの蜜柑が一つあり、乾いた皮が花のように反っていた。
「買えたのか」
「海老とヒラメを買いました。蒲鉾は作ります」
「蒲鉾を?」
「ヒラメを蒸して、身をすって作るの。実家では何度も手伝ったから、大丈夫だと思う」
「また面倒なことをするなあ。普通のものを買ってくればいいのに」
「売り切れていたの。それに、作ったほうが安いわ」
「失敗して、明日出すものがないなんてことにするなよ」
浩司は蜜柑を一房食べ、再び新聞を顔へ載せた。千鶴は返事をせず、台所へ戻った。窓の外では日が傾き、隣家の南天の実が、冬の光を受けて赤く光っていた。
ヒラメを蒸し器へ入れると、やがて白い湯気と魚の匂いが台所に満ちた。身が熱いうちに皮を外し、指先で骨を一本ずつ探した。細い骨が指へ刺さり、右手の人差し指に小さな血の玉ができた。
千鶴は流水で指を洗い、絆創膏を巻いてから作業を続けた。白身を布巾で包んで余分な水分を取り、すり鉢へ移した。最初は身の形が残っていたが、すりこ木を回すたび、白い塊が少しずつ滑らかになっていった。
「まだ起きているのか」
夜の十一時を過ぎたころ、浩司が台所へ来た。茶色い寝間着に着替え、歯を磨いたばかりなのか、薄荷の匂いがした。千鶴はすりこ木を握ったまま、壁の時計を見た。
「もう少し。まだ身の粒が残っているの」
「そんなに手間をかけても、部下は蒲鉾なんか見ていないぞ」
「誰が見ているかではなくて、お客様に出すものだから」
「お前の実家の店とは違うんだ。適当でいいんだよ」
「粗末なものを出すなと言ったでしょう」
「細かいなあ。俺は先に寝るから、明日はちゃんと起こせよ」
浩司は欠伸をしながら寝室へ戻った。千鶴は塩、砂糖、卵白を順番に加え、すりこ木を回した。腕が重くなるたびに左右の手を替え、滑らかになった身を板の上へ盛り、濡らした包丁で山形に整えた。
蒲鉾を蒸し器へ入れたころ、除夜の鐘が遠くで鳴り始めた。一つ、二つと数えていたが、二十を過ぎるころには分からなくなった。窓ガラスは湯気で曇り、外に咲いている山茶花は、赤い色だけがぼんやり見えていた。
「できた」
蒸し器の蓋を開けると、白い蒲鉾が湯気の中に現れた。表面を指で押すと、きちんと弾力が返ってきた。端を薄く切って口へ入れると、ヒラメの味とほんの少し強めの塩気が舌に残った。
元日の朝、千鶴は二時間ほど眠ってから起きた。髪をまとめ、襟足へ白粉を塗り、譲られた日本髪の鬘をかぶった。鬢付け油の甘い匂いが鼻へ届き、重みが額と首にかかった。
紅色の引き着には、鶴と松竹梅が刺繍されていた。千鶴は裾を引きずらないよう腰紐で少し持ち上げ、白い足袋を履いた。鏡に映る姿を見ると、日本舞踊の発表会を待っていた少女のころを思い出した。
「ずいぶん大げさな格好だな」
浩司は新しい紺色のセーターを着て、鏡越しに千鶴を見た。胸元には、千鶴が選んだ臙脂色のネクタイを締めている。客が来るまで外すなと言ったのは浩司だった。
「初めて部下の方がいらっしゃるから。お正月らしくていいでしょう」
「転んで料理をひっくり返すなよ」
「裾の扱いには慣れています」
「踊りの発表会とは違うんだからな」
十一時を過ぎると、部下三人が酒や菓子折りを持ってやって来た。玄関に並んだ革靴から、冷たい外気と靴墨の匂いが上がった。千鶴が正座して挨拶すると、いちばん若い部下が目を丸くした。
「奥さん、日本人形みたいですね」
「本当だ。お正月から、こんなきれいな格好の奥さんに迎えてもらえるなんて、課長がうらやましいですよ」
「ありがとうございます。重たい鬘なので、夕方には首が動かなくなるかもしれませんけれど」
千鶴が笑うと、部下たちも笑った。客間には黒豆の甘い匂いと、海老を煮た醤油の香りが漂っている。重箱の蓋を開けると、三人が一斉に身を乗り出した。
「これは、全部奥さんが作ったんですか」
「はい。お口に合うといいのですが」
「料亭のお正月みたいだ。課長、毎年こんなものを食べているんですか」
「結婚して最初のお正月なので、今年だけかもしれません」
千鶴は燗をつけた銚子を持ち、部下の猪口へ酒を注いだ。引き着の袖が膳へ触れないよう、左手で袖口を押さえる。徹夜ですりこ木を握った右腕は、銚子を持つだけでも細かく震えた。
「この蒲鉾、魚の味が濃いですね。どこのものですか」
一人が白い蒲鉾を箸で持ち上げた。切り口には、小さな空気の穴が一つだけ残っている。千鶴はそこが気になったが、部下はもう一切れ取った。
「ヒラメを蒸して、身をすって作りました」
「蒲鉾まで手作りですか」
「実家が料理屋でしたので、作り方だけは知っていました。家のすり鉢が小さくて、少し時間がかかりましたけれど」
「課長、すごい奥さんじゃないですか。料理もできて、日本舞踊もされるんでしょう」
部下たちの視線が浩司へ集まった。千鶴も銚子を両手で持ち、夫の顔を見た。浩司は赤くなった顔で猪口を掲げ、照れたように口元を緩めた。
「いやあ、この人、普通に生活できない女でしてね。こういう変わったことばかり凝るんですよ」
一人の部下が持っていた箸を止めた。別の部下は笑おうとして、猪口へ口をつけた。若い部下だけが千鶴と浩司の顔を交互に見ていた。
「でも、これだけのおせちを作れるなんて、普通以上ですよ」
「だから困るんだよ。蒲鉾を魚から作るくらいなら、普段の飯を普通に作ってくれればいいんだ。着物だって、家の中で裾を引きずっていたら掃除もできないだろう」
「今日はお正月ですから」
千鶴は笑いながら答えた。銚子を持つ指へ力を入れすぎ、白い関節が浮いている。鬘の簪がこめかみに当たり、脈を打つたびに細い痛みが走った。
「奥さん、お酒をいただけますか」
若い部下が空の猪口を差し出した。千鶴は返事をして酒を注ぎ、銚子の口を畳へ向けないよう静かに戻した。重箱の蒲鉾はよく減っていたが、自分では一切れも食べなかった。
客が帰ったのは、夕方近くだった。玄関には泥のついた足跡が残り、客間の灰皿には吸い殻が山になっていた。千鶴は鬘と引き着をつけたまま膳を下げ、冷めた煮しめを一つずつ保存容器へ移した。
「うまくいったな。部下も喜んでいた」
浩司は炬燵へ入り、残った日本酒を自分の猪口へ注いだ。千鶴は返事をせず、指先についた醤油を布巾で拭いた。作った蒲鉾は二切れだけ残り、片方は端が少し欠けていた。
「私、恥ずかしいことをした?」
「何の話だ」
「普通に生活できない女だと、皆さんの前で言ったでしょう」
「冗談だよ。あれくらい言ったほうが場が盛り上がるんだ」
「皆さん、笑っていなかったわ」
「お前は冗談が通じないな。それに、大げさなのは本当だろう。これからは、もっと普通の奥さんになってくれればいい」
浩司は蒲鉾を一切れつまみ、醤油をつけずに食べた。手作りだと知る前と同じように噛み、酒で流し込んだ。千鶴は最後の一切れを小皿へ移したが、食欲がないとは言わず、明日の朝に食べると言って冷蔵庫へ入れた。
翌朝、千鶴は鬘を外し、乱れた髪を櫛でとかした。引き着の裾には酒が一滴飛び、金糸の鶴の羽が濡れている。固く絞った布で叩き、陰干ししてから、薄紙へ丁寧に包んだ。
「来年も、あの格好をするのか」
浩司は炬燵で雑煮を食べながら尋ねた。餅を二つ入れた椀には、昨日の蒲鉾の端と三つ葉が浮いている。千鶴は鬘の簪を外し、一本ずつ布で拭いた。
「もう、しません」
「そうか。そのほうがいい。普通が一番だからな」
「ええ。普通に生活できるようにします」
千鶴は鬘を黒い箱へ戻し、引き着を畳んだ。日本舞踊の稽古で使った扇子も、琴の爪を入れた小箱も、その下へ一緒にしまった。押し入れのいちばん奥へ箱を入れると、浩司の丹前と客用布団を前へ積み、外から見えないようにした。
それから千鶴は、目立つことをやめていった。季節の料理を作るより、浩司が毎日食べられる献立を優先した。袖の長い着物では家事がしにくいと言われ、正月にも割烹着と地味なセーターを着るようになった。
日本舞踊の稽古を休み、琴を弾く時間を減らし、長唄の譜面を開かなくなった。家事を途中で止めて稽古へ行けば、浩司の夕食が遅れる。自分の好きなことを一つやめるたび、家の中は浩司の言う普通へ近づいた。
三十五年後、千鶴は畳の上へ広げた引き着を見ていた。窓から入る春の光が、鶴の金糸へ細く反射している。黒い鬘の髪は箱の中で形を保ち、もう一度かぶられる日を待っていたように見えた。
机の上で固定電話が鳴った。北陸へ出かけた浩司からだろうと思ったが、千鶴はすぐには取らなかった。三度目の呼び出し音が鳴ってから受話器を上げると、駅の構内放送と人の話し声が聞こえた。
「千鶴か。薬が入っていないぞ」
浩司は挨拶もせずに言った。千鶴は受話器を肩へ挟まず、右手だけで持った。左手は引き着に刺繍された鶴の羽へ置いたままだった。
「机の上にありました」
「どうして連絡しなかった」
「私は昨日、薬を確認するよう申し上げました」
「送ってくれ。金沢の宿は、これからメールで知らせる」
「病院へ電話して、旅先でどうすればいいか相談してください」
「お前がいつもの病院へ聞けば早いだろう」
「自分の薬です。自分で尋ねてください」
「俺が倒れたらどうするんだ」
「倒れないように、ご自分で管理してください。自由に暮らすと決めたのでしょう」
浩司は受話器の向こうで何か言ったが、駅の放送にかき消された。千鶴は返事を待たず、病院の電話番号が書かれた診察券の場所だけを教えた。電話を切ると、受話器の下から小さな埃が一つ転がり落ちた。
千鶴は引き着の鶴を、もう一度撫でた。あの正月、銚子を持った右腕の重さも、鬘の簪がこめかみに当たった感触も、まだ身体のどこかに残っている。浩司だけが、何も覚えていなかった。
「あなたには一度の冗談でも、私には三十五年分の宿題だったのよ」
千鶴は引き着を箱へ戻さなかった。防虫剤を新しい薄紙へ包み、衣桁の代わりに室内用の物干しへ掛けた。窓を少し開けると、木瓜の花を揺らした風が入り、古い鬢付け油の匂いと春の土の匂いが、部屋の中でゆっくり混ざった。




