第3話 卒婚した妻は、夫の荷造りをしない
第3話 卒婚した妻は、夫の荷造りをしない
翌朝、千鶴が目を覚ますと、二階から引き出しを乱暴に開け閉めする音が聞こえていた。庭へ面した障子は朝日で白く透け、軒下では昨日取り込み忘れた浩司の靴下が風に揺れている。台所の窓際では、再生大根の葉が一晩で指の幅ほど伸びていた。
千鶴は深い赤色のカーディガンを羽織り、薬缶を火にかけた。いつもなら浩司のためにコーヒーを用意するが、今日は自分の紅茶だけをいれた。ポットへ茶葉を一人分入れ、ミルクを少し温めると、甘い香りが昨夜の焼き魚の匂いを押し流した。
「おい、旅行鞄の鍵はどこだ」
階段の上から浩司の声が落ちてきた。千鶴は答えず、昨夜の筍ご飯を冷蔵庫から出した。昼には出汁を注いで雑炊にしようと思い、保存容器の蓋へ日付を書いた。
「聞こえているだろう。赤い旅行鞄の鍵だよ」
浩司は紺色のパジャマ姿で階段を下りてきた。髪は片側だけつぶれ、裸足の右足には、切った爪の欠片が一つついている。手には旅行鞄から外した古い名札を持っていた。
「鞄の内側に、小さなポケットがあるでしょう。赤い紐の先に鍵がついています」
「見たけど、なかったぞ」
「もう一度、よく見てください」
「お前が出せば一分で済むだろう」
千鶴は白地に赤い椿を描いたカップへ、紅茶を注いだ。結婚前に自分で買ったものだったが、浩司が「派手で落ち着かない」と言ったため、食器棚の奥へしまっていた。角砂糖を一つ入れて銀色の匙でかき混ぜると、小さな音が台所へ響いた。
「そのカップ、うちにあったのか」
浩司は向かいの椅子へ座り、椿の絵を見た。千鶴は温めたミルクを注ぎ、表面にできた薄い膜を匙で沈めた。三十五年前に買ったカップは、縁の金色が少し剝げているだけで、ひび一つなかった。
「結婚する前から持っていたものです」
「見たことがないな」
「あなたは、赤いものは落ち着かないと言いましたから」
「そんな昔のことまで覚えているのか。朝から面倒な話をするなよ」
浩司は冷蔵庫を開け、棚を上から下まで眺めた。目の前には卵もハムも昨夜の筍ご飯もあるのに、何も取り出さなかった。冷気が足元へ流れ、窓ガラスに残っていた曇りが少しずつ消えていった。
「俺のコーヒーは?」
「棚にインスタントコーヒーがあります。お湯も沸いています」
「朝飯は、何を作るんだ」
「私は甘い卵焼きを作ります」
「朝から甘い卵焼きなんて食べられるか。俺は目玉焼きでいい」
「フライパンは、コンロの下です」
浩司は冷蔵庫の扉を勢いよく閉めた。中で瓶がぶつかり、乾いた音を立てた。千鶴は紅茶を一口飲み、甘さが舌へWithoutの奥へ広がるのを待った。
「朝飯くらい、今までどおり作ればいいだろう」
「卒婚したのでしょう」
「だからといって、飯まで別にする必要はない。夫婦でなくなるわけではないんだぞ」
「あなたは夫を休むのに、私は妻を続けるのですか」
「また、その話か」
浩司は自分でインスタントコーヒーをいれた。粉を多く入れすぎたらしく、一口飲むと眉をしかめ、湯を足した。濡れた匙を砂糖壺へ入れたため、白い砂糖が匙の周りへ固まってついた。
「今日から北陸へ行くからな」
浩司は固まった砂糖を指で落とした。こぼれた粒はテーブルの上へ散らばったが、布巾を取ろうとはしなかった。千鶴は赤い椿のカップを持ったまま、壁のカレンダーを見た。
「バイクでは行けませんものね」
「大型免許を取る前に、電車で下見をするんだ。金沢に二泊して、富山、それから新潟へ行く。気が向いたら山形まで足を延ばす」
「いつ帰るの?」
「決めていない。自由な旅なんだから、帰る日まで決める必要はないだろう」
「宿は予約したの?」
「それを、これからお前に頼もうと思っていた。金沢駅の近くで、温泉があって、朝食つき。一泊一万円以下のところを探してくれ」
「私は教習所を調べます」
「そんなものは帰ってからでいい。俺は今日出るんだぞ」
浩司は立ち上がり、二階へ戻った。階段を上る途中で、パジャマの裾をかかとで踏み、手すりへ肩をぶつけた。痛そうに舌打ちしたあと、また引き出しを開け閉めする音が始まった。
千鶴は卵を二つ割り、砂糖を小さじ二杯入れた。浩司が甘い卵焼きを食べないため、三十五年間、朝食にも弁当にも砂糖を使わなかった。菜箸で白身を切るように混ぜると、卵液の黄色に白い粒が浮かんだ。
「このシャツを洗って、乾燥機にかけてくれ」
浩司が衣類を抱えて台所へ戻ってきた。洗っていないワイシャツを、洗濯機の前へ次々に落とした。襟元から整髪料と汗の混じった匂いが上がり、床には細かな糸屑が落ちた。
「今日出るのでしょう。今からでは間に合いません」
「乾燥機を使えば間に合うだろう」
「自分で洗濯してください」
「使い方が分からない」
「洗濯機の蓋に、説明が書いてあります」
「知っている人間がやったほうが早いだろう。三日分でいいから頼む」
千鶴は卵液をフライパンへ流した。柔らかな音とともに、砂糖の焦げる甘い匂いが立った。庭から切った分葱を散らし、黄色と緑の層をゆっくり巻いた。
「卒婚した相手の旅行準備は、私の仕事ではありません」
浩司は笑いかけたが、千鶴が菜箸を動かしたまま自分を見ないことに気づき、口元を引き締めた。これまで千鶴が洗濯を断ったのは、出産で入院したときと、母の葬儀から帰った夜だけだった。その二度とも浩司は、着替えの下着がないと病院や葬儀場へ電話してきた。
「冗談はやめろ。俺が困るだろう」
「自由に暮らすのでしょう。洗濯をするのも、宿を選ぶのも、自由の一部です」
「俺は家事をするために退職したんじゃない」
「私も、あなたの家事をするために六十歳になったのではありません」
浩司は衣類を拾い、寝室へ持っていった。千鶴は卵焼きを巻き終え、まな板の上で六つに切った。切り口から湯気が上がり、焦げた砂糖の匂いが鼻へ届いた。
「下着の新しいものは、どこにある」
二階から浩司の声がした。千鶴は実家の料理屋で使っていた厚削りの鰹節を鍋へ入れ、濃い出汁を取った。浩司は香りが強すぎると言うが、千鶴は口へ含んだとき、鰹の味がはっきり残る吸い物を好んでいた。
「箪笥の二段目です」
「古いものしかないぞ」
「新しいものを使って、古くなったのでしょう」
「何枚持っていけばいい」
「旅行の日数は、ご自分で決めてください」
「靴下は?」
「箪笥か洗濯籠です」
「同じものが見つからない」
「よく見てください」
浩司は片方ずつ違う靴下を持って下りてきた。片方は黒、もう片方は紺で、長さも厚さも違っている。千鶴は目を向けたが、組み合わせを直さなかった。
「充電器はどこだ」
「昨日、寝室で使っていたでしょう」
「常備薬は何日分持っていけばいい」
「帰る日を決めていないのは、あなたです」
「保険証くらい出してくれ。旅先で何かあったら困る」
「居間の棚の二段目、青いファイルです」
浩司は棚へ向かい、中の書類を床へ引き出した。自動車保険の証書、固定資産税の通知、古い年賀状が次々に畳へ落ちた。青いファイルを見つけると、散らばったものを拾わず、保険証だけを抜き取った。
「ほら、やっぱりお前に聞けばすぐ分かる。旅行先で病院へ行くことになっても、これがあれば何とかなる」
「お薬手帳も必要です」
「それはどこだ」
「ご自分で探してください」
「一つ教えたなら、最後まで教えればいいだろう」
浩司は声を荒らげ、床の書類を足で脇へ寄せた。千鶴は濃い出汁を椀へ注ぎ、手毬麩と庭の分葱を浮かべた。湯気が眼鏡を白く曇らせたため、外して赤い椿のカップの横へ置いた。
「いつから、そんなに意地の悪い女になったんだ」
「昨日からです」
「三十五年も夫婦をしてきたのに、俺が退職した途端にこれか」
「三十五年夫婦をしてきたから、昨日まで続けたのです」
千鶴は食器棚の下から、古い大学ノートを取り出した。花柄の表紙には料理の油染みがあり、四つの角は丸く擦れている。妙が幼稚園のころに貼った兎のシールは、片方の耳が剝がれかけていた。
「何だ、それは」
「家事ノートです」
「そんなものをつけていたのか」
「最初は、あなたの出張のために作りました」
千鶴が頁を開くと、浩司が三十代だったころの出張予定が並んでいた。替えのシャツ、下着、靴下、髭剃り、整髪料、名刺、折り畳み傘、充電器、常備薬。白いシャツのボタンを前夜に確認することまで、赤い字で書かれている。
頁を進めると、礼服を虫干しする日、車検、保険の更新、親戚の命日が続いた。義父の通院日、義母の薬の残量、子どもたちの予防接種も、一冊の中へ書き加えられている。介護が重なった時期の頁には、冷めた珈琲の輪染みと、眠気で曲がった文字が残っていた。
「ここに持ち物が書いてあるなら、最初から渡せばいいだろう」
浩司はノートへ手を伸ばした。千鶴は閉じて胸元へ引き寄せた。表紙から古い紙と台所の油が混じった匂いがした。
「これは、私が忘れないために作ったノートです。あなたの旅行案内ではありません」
「俺のことばかり書いてあるじゃないか」
「あなたが忘れても困らないように、私が覚えていたのです」
「別に、俺が頼んだわけではない」
「ええ。頼まれたことはありません」
千鶴はノートをテーブルへ置き、浩司の顔を見た。いつもなら、この顔が曇る前に必要なものを差し出していた。今朝は窓から入った風で頁がめくれても、手を伸ばさなかった。
「私は、あなたが頼む前に用意してきました。だから、あなたは自分が何も頼んでいないと思っているのです」
「勝手にしたことを、恩に着せるなよ」
「分かりました。これからは勝手にしません」
浩司は口を閉じ、旅行鞄へ視線を移した。鞄の隙間から、冬用の肌着とワイシャツの袖が垂れている。窓の外では、白い雪柳の細い枝へ雀が二羽とまり、互いの羽をくちばしでつついていた。
十時半を過ぎると、浩司は衣類を畳まず、旅行鞄へ押し込み始めた。半袖のシャツの上へ厚手のセーターを載せ、下着の隙間へ髭剃りを入れた。充電器は見つかったが、コードを束ねなかったため、何度も衣類へ絡んだ。
「宿だけでも予約してくれ。金沢駅の近くで、温泉があって、朝食つき。一泊一万円以下だ」
「今からその条件で探すのですか」
「お前はパソコンが使えるだろう」
「私は教習所を調べます」
「そんなものは、帰ってから一緒に探してやる」
「一人で探せます」
「免許も持っていない女が、いきなり大型バイクなんて無理に決まっている」
「無理かどうかは、教習所の方に相談します」
浩司は旅行鞄の蓋を閉めようとしたが、ワイシャツの袖が留め金へ挟まった。引き抜こうとしてボタンを一つ飛ばし、白いボタンが畳の上を転がった。千鶴の足元で止まったが、彼女は拾わなかった。
「こんなときくらい、手伝えよ」
「そのシャツの予備ボタンは、内側の裾についています」
「知っているなら、つけてくれればいいだろう」
「裁縫箱は、テレビ台の下です」
「針に糸を通せない」
「眼鏡をかけてください」
十一時前、浩司は膨らんだ旅行鞄を引いて玄関へ向かった。春物のジャケットの下には厚いセーターを着込み、額には汗が浮かんでいる。靴下は結局、黒と紺のままだった。
「駅まで荷物を持って送ってくれ」
「私は出かける支度があります」
「こんな重い鞄を一人で引いて歩けと言うのか」
「タクシーを呼んではどうですか」
「駅まで千円以上かかる。もったいないだろう」
「自由には、お金がかかります」
浩司は鼻を鳴らし、自分でタクシー会社へ電話した。迎車料金がかかると知って千鶴を睨んだが、電話を切塛ることはできなかった。玄関の花瓶では、退職祝いにもらった百合が大きく開き、黄色い花粉を白い靴箱へ落としていた。
「三日か四日で連絡する。帰る日には、刺身と酒くらい用意しておけよ」
「卒婚した相手の帰宅祝いはしません」
「お前は、冗談が通じないな」
「三十五年間、冗談だと思うことにしてきました」
タクシーの警笛が外で短く鳴った。浩司は旅行鞄を持ち上げようとしたが、重すぎて片側しか上がらなかった。仕方なく車輪を使い、門の段差へ何度もぶつけながら外へ出ていった。
玄関の扉が閉まると、千鶴は居間へ戻った。床には浩司が落とした書類、片方だけの靴下、外れた白いボタンが残っている。テーブルの上には、家事ノートが開いたままになっていた。
二階の寝室へ行くと、浩司が毎朝飲む血圧の薬が、机の上へ置かれていた。隣にはお薬手帳もあり、充電器のあった場所だけ、埃の上へ四角い跡がついている。千鶴は薬袋へ手を伸ばしたが、持ち上げずに指を離した。
「取りに戻ればいいわ」
固定電話から携帯電話へ連絡すれば、まだ新幹線に乗る前に間に合う。けれど浩司は、保険証の場所しか尋ねず、毎朝飲んでいる薬を確認しなかった。千鶴は窓を少し開け、布団に残った整髪料の匂いを外へ逃がした。
台所へ戻り、甘い卵焼きを皿へ盛った。鰹節を多く使った吸い物には、庭から切った分葱をもう一つまみ浮かべた。冷めかけていた汁を温め直すと、鰹の香りが台所いっぱいに広がった。
卵焼きを一切れ食べると、砂糖の焦げたところが舌に触れた。浩司なら「菓子みたいだ」と箸を置く味だったが、千鶴は昔からこの甘さが好きだった。濃い出汁の吸い物を口へ含むと、温かさが喉から胸へゆっくり下りていった。
向かいの椅子には誰も座っていなかった。浩司が落としたパン屑が一つ、椅子の下に残っている。千鶴はすぐには拾わず、教習所の案内を開いて、相談予約の電話番号をゆっくり押した。




