第2話 夫の知らない私
第2話 夫の知らない私
翌朝、浩司は九時を過ぎても起きてこなかった。千鶴は昨夜ベランダへ残した靴下を取り込み、冷たく湿ったままの二足を洗濯籠へ入れたが、洗濯機の蓋は開けなかった。台所では昨夜の筍ご飯を小鍋へ移し、出汁を注いで卵を落とした。
鍋から立つ湯気には、筍と三つ葉の匂いが混じっていた。千鶴は一人分だけを茶碗へよそい、夫の嫌いな七味唐辛子を多めに振った。庭の隅では、鉢植えの青じそがまだ小さな双葉を開き、冬を越した分葱の先に朝露が残っていた。
「私も、私のやりたいことを探していいのよね」
声に出すと、筍雑炊を運ぶ手が止まった。浩司は自分だけが自由になる話をしていたが、千鶴に自由になるなとは言わなかった。言わなかったのではなく、千鶴にも望みがあると考えもしなかったのだろう。
雑炊を食べ終えた千鶴は、茶碗を水につけた。いつもなら浩司が起きるまで味噌汁を温め、目玉焼きを作れるよう卵を常温へ戻しておく。しかし今日は、食パンとインスタントコーヒーをテーブルへ置いただけで、冷蔵庫に「筍ご飯あり」と書いた付箋を貼った。
寝室から大きないびきが聞こえていた。浩司は脱いだ靴下を布団の脇へ丸め、昨日の大型バイクのパンフレットを枕元へ置いている。表紙の銀色の車体に朝日が反射し、開けたままの頁には、革の上着を着た男女が海岸沿いを走る写真が載っていた。
「私には、寒いとか疲れたとか言われたくないのよね」
千鶴は布団の端から落ちかけていたパンフレットを拾った。写真の女性は、男性の背中へ両腕を回している。千鶴はその頁を閉じ、浩司の脱いだ靴下の横へ戻した。
箪笥から紺色のパンツと生成りのシャツを出し、山吹色の薄いスカーフを首へ巻いた。水色ではない服で外へ出ることに慣れず、姿見の前で一度スカーフを外した。しかし、畳んで引き出しへ戻しかけたところで、もう一度首へ巻き直した。
玄関の靴箱の上には、浩司が会社からもらった花束が置いてあった。赤い薔薇はまだ開いていなかったが、桃色の百合は一晩で花びらを広げ、黄色い花粉を玄関マットへ落としていた。千鶴は花粉をティッシュで取り、古い運動靴を履いた。
自転車の籠には、念のため薄手の手袋と水筒を入れた。サドルを押すと後輪の空気が少し減っていたため、物置から空気入れを出した。三十回押したところで腕が重くなり、ヒラメをすり鉢ですった正月のことを思い出した。
「まだ、これくらいで息が上がっていては駄目ね」
誰に聞かせるでもなく言い、自転車へまたがった。桜は五分咲きで、住宅街の植木鉢にはパンジーとチューリップが並んでいる。角の家の白い犬が今日も門扉の隙間から鼻を出していたので、千鶴は速度を落として挨拶した。
「おはよう。あなたは、いつもちゃんと見送ってくれるのね」
犬は一度だけ尻尾を振り、すぐ植木鉢の匂いを嗅ぎ始めた。千鶴は笑ってペダルを踏み、商店街を抜けた。焼き鳥屋はまだ準備中だったが、昨日のたれと炭の匂いが歩道まで残っていた。
千鶴が向かったのは、練馬にあるハーレーダビッドソンを扱う店だった。黒と橙色を基調にした看板が見えると、胸の奥で数を数えた。ここへ来るのは、今日が初めてではなかった。
子どもたちが独立し、義母の介護が少し落ち着いたころから、千鶴は買い物の帰りに何度もこの店を訪れていた。免許はなく、バイクを買えるような余裕もなかった。それでも店頭の車体を眺め、店主が迷惑そうにしなければ、エンジンやシートについて尋ねた。
最初は月に一度だった。次第に二週間に一度になり、季節のよい日は自転車で前を通るたびに立ち寄った。浩司には図書館へ行ったと話していたが、実際に図書館へ寄ることもあったため、嘘をついている意識は薄かった。
店の前には、黒い車体が二台並んでいた。磨かれたタンクには春の日差しと千鶴の山吹色のスカーフが映っている。千鶴が自転車を止めると、店の奥から白髪交じりの店主が顔を出した。
「おや、自転車の奥さん。今日はずいぶん早いですね」
店主は手に持っていた布で指先の油を拭いた。作業場からは金属とオイルの匂いが流れ、奥のラジオでは朝の交通情報が小さく鳴っていた。千鶴は自転車の鍵を二度引いて確かめ、店の入口へ立った。
「奥さんではありますけれど、自転車の奥さんという呼び方は、そろそろ卒業したいと思いまして」
「とうとう買いますか」
「いいえ。買うお金はありません」
店主は声を上げて笑った。千鶴も笑い、自分の言葉が思ったより明るく店内へ響いたことに驚いた。カウンターには飲みかけの缶コーヒーと、醤油の染みがついた海苔弁当の蓋が置かれていた。
「相変わらず正直だなあ。では今日は、何を見に来たんです」
「大型自動二輪の免許を取りたいんです。免許は何も持っていません。原付にも乗ったことがありません」
店主の笑いが止まった。千鶴の顔から靴まで確かめるように見たあと、店の壁に並んだ車体へ目を向けた。千鶴もつられて、いちばん手前の黒いバイクを見た。
「本気ですか」
「本気かどうか確かめるために来ました。無理なら、何が無理なのかを教えてください」
「年齢を聞いても?」
「六十歳です」
「大型は車体が重い。起こせなければ話にならないし、足つきや握力も確認しないといけない。いきなり大型を教えてくれる教習所も少ないですよ」
「では、普通二輪からなら可能でしょうか」
店主は千鶴をもう一度見た。千鶴は日本舞踊で師匠の前へ座ったときのように、背筋を伸ばした。できないと言われる前に諦めれば、浩司の言う退屈な女へ戻ってしまう気がした。
「普通二輪のマニュアルを取って、それから大型へ進む方法なら現実的です。合宿なら早いが、免許なしから大型までとなると二週間以上かかる場合もある。費用も三十万円前後、条件によってはもっと見ておいたほうがいい」
「普通二輪を取ったあとなら、大型は五泊六日ほどの合宿もあると読みました。料金は十一万円から十六万円くらい。ただ、年齢制限を設けているところがありますよね」
「そこまで調べていたんですか」
「何度もこちらへ来て、眺めていただけではありません」
店主は顎を撫で、カウンターの下から教習所の案内を何冊か取り出した。走行中の若い男性が表紙を飾るものもあれば、中高年向けの講習を載せているものもあった。千鶴は椅子へ座り、持参した眼鏡をかけた。
「まずは近くの教習所で、相談と適性確認を受けてください。自転車に乗れても、クラッチ操作は別物だ。足や腰に不安があるなら、隠さず話すこと」
「転んだら、すぐ失格でしょうか」
「転ばない人なんていませんよ。起こし方を覚えるんです。ただし、無茶をする人には私は勧めません」
「私は、無茶がしたいのではありません。できるかどうか、自分で確かめたいんです」
店主は一枚の紙へ、三つの教習所の名前と電話番号を書いた。字は大きく、数字の七には斜めの線が入っている。千鶴は紙を半分に折ろうとしたが、折り目で番号が読みにくくなると思い、鞄から家計簿用の透明な袋を取り出して入れた。
「しかし、どうして急に大型なんです。何年も見に来て、一度も免許を取るとは言わなかったでしょう」
「夫が昨日、定年退職しました」
「それは、おめでとうございます」
「夫も大型バイクを買い、自由に旅をすると言いました。私は家に残り、帰ってきた夫のために、お風呂と食事を用意するそうです」
店主は何か言いかけて、缶コーヒーを持ち上げた。すでに空だったらしく、傾けても一滴も出なかった。気まずそうに缶を振り、作業台の端へ戻した。
「それで、対抗して免許を?」
「違います。夫のパンフレットを見て、思い出したんです。私も、ずっと乗ってみたかったことを」
千鶴は黒い車体の前へ歩いた。低い位置にあるシート、太いタイヤ、銀色のエンジンを順番に眺めた。細かな部品の名前は分からなくても、磨かれた金属の中に自分の顔が小さく映っていることは分かった。
「夫は、私には趣味がないと言いました。でも私は、日本舞踊も琴もピアノも好きでした。民謡も長唄も常磐津も清元も鳴り物も習いました。お月謝だけで、小さなバイクが何台か買えたかもしれません」
「それは、ずいぶん多趣味だ」
「ええ。家計を預かるようになってから、お月謝の恐ろしさを知りました」
二人で笑うと、作業場にいた若い店員が顔を出した。何の話か分からないまま笑い、すぐに工具を持って奥へ戻っていく。店主は千鶴へ薄いカタログを一冊渡した。
「免許が取れたとしても、最初から大きくて重いものを選ぶ必要はない。自分の身体に合うものを探せばいいんです」
「ハーレーに乗らなくても?」
「うちの店で、それを聞きますか」
店主は眉を上げてから、また笑った。千鶴はカタログを胸元へ抱え、山吹色のスカーフを結び直した。店を出ると、午前の風が首筋へ入り、油の匂いが少しずつ薄れていった。
帰り道、千鶴は自転車を漕がずに押して歩いた。公園の桜は朝より開いたように見え、花壇では紫色のムスカリが土から頭を出している。ベンチでは、小さな子どもが母親の作ったおにぎりを両手で握り、海苔を頬に貼りつけていた。
千鶴は自動販売機で温かいミルクティーを買った。浩司は甘い飲み物を嫌うため、家では無糖の紅茶ばかり飲んでいる。缶を開けると、砂糖とミルクの匂いが立ち、舌の上に甘さが残った。
「私も、私のやりたいことを探していいのよね」
今度は疑問ではなく、確かめるように口にした。免許を取れるかどうかは、まだ分からない。けれど、できない理由を浩司に決めてもらう必要はなかった。
昼を少し過ぎて帰宅すると、浩司はパジャマのまま居間に座っていた。テーブルにはインスタントコーヒーの粉がこぼれ、封を切った食パンの袋が開いたままになっている。流しには浩司が使ったカップと、千鶴が朝に水へつけた茶碗が重ねて置かれていた。
「どこへ行っていたんだ。起きたら誰もいないし、味噌汁もなかったぞ」
「付箋に、筍ご飯があると書いたでしょう」
「朝から冷たい飯を食べろというのか」
「電子レンジがあります。あなたも今日から自由なのでしょう」
浩司は口を曲げ、千鶴の手にあるカタログを見た。表紙には黒い大型バイクが載っている。千鶴が透明な袋から教習所の一覧を取り出すと、浩司は鼻で笑った。
「俺のパンフレットを見て、バイク屋へ行ったのか。お前まで乗るつもりかよ」
「ええ。まず普通二輪の免許から相談します」
「お前が? バイクに?」
「おかしいですか」
浩司は大きな声で笑った。千鶴が重い車体を支えられるはずがない、今まで車の免許さえ取らなかった女が何を言っているのかと、膝を叩いた。千鶴は笑い終わるのを待ちながら、玄関から持ってきた百合の花粉をティッシュで拭いた。
「趣味一つない女では、退屈なのでしょう」
「だからって、俺のまねをすることはないだろう」
「あなたのまねではありません。私は何年も前から、あのお店へ通っていました」
「何年も?」
「ええ。自転車で何度も。店主さんは、私を『自転車の奥さん』と覚えていました」
浩司の口から笑いが消えた。千鶴が買い物と図書館にしか行かず、家の中で自分の帰りを待っていたと思っていた顔だった。千鶴はカタログを食卓の端へ置き、流しから自分の茶碗だけを取り出した。
「昼飯は?」
「冷蔵庫に鯛と筍ご飯があります」
「温めてくれないのか」
「私はこれから、教習所を調べます」
千鶴は台所の窓を少し開けた。鉢のミントを指で撫でると、青い香りが指先に移った。居間では浩司が何度もカタログをめくり、初めて見る妻の時間を確かめようとしていた。




