第1話 お前との三十五年は退屈だった
第1話 お前との三十五年は退屈だった
三月最後の金曜日、千鶴は朝から昆布を水につけていた。浩司の定年退職祝いに茶碗蒸しを作るためで、冷蔵庫には前日に商店街で買った鯛と、皮つきの筍が入っている。台所の窓際では、豆苗の切り株から伸びた二度目の葉が、薄曇りの光へ向かって斜めに傾いていた。
鯛には粗塩を振り、少し休ませてから水分を拭いた。尾びれと胸びれに化粧塩をつけ、焦げないようアルミ箔を巻く。浩司は皮が破れていると縁起が悪いと言うので、千鶴は魚焼きグリルの前から離れず、火加減を三度変えた。
「お父さん、六時半には帰ると言っていたわよね」
返事をする者はいなかったが、千鶴は声に出して確認した。テーブルの端には、朝に取り込んだ浩司の白いハンカチが二枚置かれている。退職する日まで皺のあるものを持たせたくなくてアイロンをかけたが、一枚の角に薄い染みが残り、そこだけもう一度洗った。
筍ご飯には油揚げを細く刻んで入れた。千鶴は木の芽を買おうとして値札を見たが、小さな一パックが三百九十八円だったので手を引っ込めた。庭の山椒にはまだ柔らかな芽が二枚しか出ておらず、それを摘んでしまうのも惜しく、代わりに三つ葉を短く切った。
玄関の花瓶には、黄色いフリージアと白い小菊を生けた。退職祝いなら胡蝶蘭のほうが立派だろうが、浩司は香りの強い花を嫌う。千鶴はフリージアを一本抜いて台所の小瓶へ移し、玄関には白い小菊を多めに残した。
六時四十分に鍵の回る音がした。千鶴は水色のカーディガンの裾を伸ばし、足早に玄関へ向かった。浩司は紺色のスーツに銀色のネクタイを締め、片手に花束、もう片方の手に紙袋を提げていた。
「お帰りなさい。三十五年間、お疲れさまでした」
千鶴がスリッパを揃えると、浩司は花束を渡した。赤い薔薇と桃色の百合がセロハンに包まれ、会社名の入った札が挿してある。百合の香りが広がると、浩司はすぐに鼻を動かした。
「会社でもらった。匂いがきついから、寝室には置くなよ」
「ええ、台所に置きます。お風呂にする? 先にご飯にする?」
「先に飯でいい。話もある」
浩司は靴下のまま廊下を歩き、ネクタイを緩めながら居間へ入った。脱いだ上着を椅子の背へ掛けたため、千鶴は形が崩れないようハンガーへ移した。ポケットから定期入れが落ち、長年使われて角の白くなった革が畳の上を滑った。
「今日で、その定期もいらなくなるのね」
千鶴が拾って渡すと、浩司は手の中で裏返した。毎朝七時十二分の電車に乗り、夜は早くても八時過ぎに帰る生活だった。千鶴はその時刻から逆算して米を研ぎ、味噌汁へ味噌を溶き、焼き魚を火にかけてきた。
「まあな。もう満員電車にも、頭の固い上司にも、何も分からない若い連中にも会わなくていい」
「明日から、ゆっくり眠れるわね」
「いや、寝て過ごすつもりはない。やりたいことが山ほどあるんだ」
千鶴は鯛を楕円形の皿へ移した。茶碗蒸しの蓋を開けると、出汁と柚子の香りが湯気に混じった。冷蔵庫から冷酒を出し、浩司の猪口へ注いでから、自分には温かいほうじ茶をいれた。
浩司は鯛を見て満足そうに頷いた。筍ご飯、菜の花の辛子和え、蛤の吸い物も並び、食卓の中央には小さな苺のショートケーキが置かれている。ろうそくは六十五本も立てられないので、数字の六と五を一本ずつ買ってあった。
「ずいぶん作ったな。二人しかいないのに、食べ切れるのか」
「明日は鯛茶漬けにします。筍ご飯は一膳ずつ冷凍できるし、茶碗蒸しは妙たちが来たら出そうと思って四つ作りました」
「妙たちは来ないぞ。俺から断った」
千鶴は茶碗蒸しの蓋を持ったまま、浩司を見た。娘の妙は孫と一緒に、日曜日に改めて退職祝いをすると言っていた。冷蔵庫には孫の好きなプリンを作るため、牛乳と卵が多めに買ってある。
「どうして断ったの? 日曜日なら航平もオンラインで参加できると言っていたでしょう」
「家族で退職を祝うような年でもないだろう。それに、先に話しておきたいことがある」
浩司は紙袋から一枚の明細と、光沢のあるパンフレットを取り出した。明細には退職金二千四百万円の入金額が印字されている。パンフレットの表紙では、革のジャケットを着た男性が、銀色の大型バイクで海沿いの道を走っていた。
「バイク、買うの?」
千鶴はパンフレットの角についた指紋を見た。浩司は若いころ中型免許を取ったが、結婚後は一度も乗っていない。駐車場には十二年目の小型車があり、来月は車検を控えていた。
「大型免許から取り直す。教習所にはもう仮予約を入れた」
「でも、六十五歳から大型バイクは危なくない? 反射神経だって若いころとは違うし、まず健康診断の結果を先生に見せて――」
「だから、お前はつまらないんだ」
浩司は鯛の頬の身を箸で取り、口へ入れた。千鶴の指が、膝の上でカーディガンの裾をつまんだ。庭から吹き込んだ風で、台所の小瓶に移したフリージアがかすかに揺れた。
「心配して言っているのよ」
「心配、節約、健康、予定。お前と話していると、いつもその四つだ。俺は今日まで三十五年も働いたんだぞ。これからくらい、自分の好きなように生きても罰は当たらない」
「好きなようにって、バイクに乗ること?」
「全国を回る。北海道から九州まで、行きたいところへ行くんだ。ホテルに泊まってもいいし、気に入った土地があれば一か月くらい部屋を借りてもいい」
浩司の声は、旅行番組を見ているときより弾んでいた。千鶴は菜の花の辛子和えを自分の小皿へ取ったが、噛む前から舌の奥に苦みが広がった。蛤の吸い物は蓋を開けたままになり、澄んでいた表面に薄い膜が張り始めている。
「私は、どうするの?」
「お前はここにいればいい。家のこともあるし、庭の草木も放っておけないだろう」
「一緒に行こうとは思わないの?」
「お前、バイクの後ろに乗りたいのか」
「バイクでなくてもいいでしょう。電車だって、観光バスだってあるわ」
「そういう話ではないんだ。俺は一人で自由に動きたい。お前に寒いだの、疲れただの、今日は何を食べるだのと言われながら旅をしたくない」
千鶴は、言い返そうとして口を閉じた。浩司との旅行では、寒いと言ったことも、疲れたと言ったこともほとんどない。京都で靴擦れを起こしたときも、浩司が予定した寺をすべて回り、ホテルへ戻ってから血のついた靴下を洗面台で洗った。
「それは、離婚したいということ?」
「離婚とは言っていない。卒婚だよ。今はそういう夫婦も多いらしい」
浩司は酒を注ぎ足し、退職金の明細を指先で叩いた。顔には、自分が新しい言葉を教えてやったときの表情が浮かんでいる。千鶴は炊飯器の保温ランプが点灯したままだと気づいたが、立ち上がらなかった。
「卒婚したら、私は何をすればいいの?」
「今までどおり暮らせばいい。俺が旅に出ている間、この家を守ってくれ。郵便物もあるし、車や庭のこともある。俺が帰ると連絡したら、風呂と飯くらい用意してもらわないと困る」
「あなたは夫を休むけれど、私は妻を続けるのね」
「そう難しく考えるな。お前だって俺の顔色を見なくて済む。好きなテレビを見て、友達と茶でも飲めばいいだろう」
千鶴は猪口の横へ置かれた菜の花を見た。浩司は辛子が強いものを嫌うため、今日はいつもの半分しか入れていない。千鶴は鼻へ抜けるほど辛い和え物が好きだったが、自分一人のために別の味を作ったことはなかった。
「自由にはなりたい。でも、帰る家は必要だ。お前はここで、俺の帰りを待っていてくれ」
浩司は機嫌よく酒を飲み、鯛の皮を皿の端へよけた。言いにくいことをうまく説明できたと思っているらしく、肩の力まで抜けている。食器棚の上の時計が七時半を告げ、千鶴が毎週見ている料理番組が隣の部屋で始まった。
「それに、正直に言うとな」
浩司は箸を置き、千鶴をまっすぐ見た。千鶴は背もたれへ寄りかからず、両手を膝の上で重ねた。水色のカーディガンの袖口には、茶碗蒸しを蒸すときについた小さな水染みがあった。
「お前との三十五年は、退屈だった。趣味一つない女と、残りの人生まで同じように過ごしたくない」
「趣味一つない女」
「悪く取るなよ。お前は真面目だし、家のことはちゃんとやる。でも、話題がないんだ。俺が何か始めようとすると、金や健康の心配ばかりする。お前自身には、これがしたいというものが何もないだろう」
窓の外で、物干し竿のハンガーが一度だけ鳴った。朝に洗った浩司の靴下が一足、まだベランダに残っている。千鶴は夕方の冷たい風に当てたままだったことを思い出したが、それでも立たなかった。
三十五年前、二人で乗ったタクシーの匂いがよみがえった。雨に濡れた座席と古い煙草、暖房の風に混じった浩司の整髪料の匂いである。千鶴は薄い水色のワンピースを着て、桃色のハンドバッグを膝に載せていた。
「きれいな奥さんですね。旦那さん、うらやましいなあ」
信号待ちで、運転手がバックミラーを見ながら言った。千鶴はバッグの持ち手を握り、隣の浩司を見た。浩司の好きな水色を選び、派手だと言われた長い髪を肩まで切ったばかりだった。
「いやあ、平凡ですよ。どこにでもいる女です」
浩司は照れたように笑った。運転手も声を立てて笑い、信号が青になると前を向いた。千鶴は自分も笑わなければ場が悪くなると思い、口元だけを持ち上げた。
あのころの千鶴は、深い赤や山吹色の服が好きだった。日本舞踊の稽古で着た、藤の花を染めた紫の着物も好きだった。けれど浩司が「女は水色くらいがおとなしくていい」と言ってから、箪笥の中には水色と薄い灰色が増えていった。
食べ物も同じだった。浩司の好きな鯵の塩焼き、肉じゃが、冷ややっこを覚え、浩司が嫌う香辛料や酸味を減らした。献立を考えるとき、最初に浮かぶのは自分の舌ではなく、浩司が箸をつけるかどうかだった。
「あなたは、私が何色を好きだったか知っていますか」
千鶴が尋ねると、浩司は口元へ運びかけた猪口を止めた。質問の意味が分からないらしく、退職金の明細と千鶴の顔を交互に見る。少し考えたあと、水色のカーディガンを指さした。
「水色だろう。昔から、そういう色ばかり着ているじゃないか」
「そうね。あなたが好きな色だから」
「俺が?」
「あなたは覚えていないのね」
千鶴は立ち上がり、保存容器を食器棚から取り出した。鯛の身を骨から外し、筍ご飯を一膳ずつ分け、まだ温かい茶碗蒸しには蓋をした。プラスチックの蓋を押すたび、ぱちん、ぱちんと小さな音がした。
「おい、まだ食べている」
「食べる分は残してあります。日曜日に妙たちは来ないのでしょう。傷む前にしまいます」
「卒婚の話をしているんだぞ。もう少し真面目に聞いたらどうだ」
「三十五年間、真面目に聞いてきました」
千鶴は冷蔵庫の中を整え、浩司のビールを奥へ移した。手前には、明日食べる鯛と筍ご飯を置く。孫のために買った卵を見てから、日曜日には自分のために固めのプリンを焼こうと決めた。
「分かりました。明日から、卒婚を始めましょう」
「そうか。お前なら理解してくれると思っていたよ」
浩司は満足そうに笑い、冷めた蛤の吸い物へ口をつけた。家も妻も今までどおりそこにあり、自分だけが自由になれると信じている顔だった。千鶴はその顔を見ながら、ベランダに残した靴下を、今夜は取り込まなくてもいいと思った。




