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第10話 三十五年分の「ちゃんと」

第10話 三十五年分の「ちゃんと」


 法律相談の予約を入れた翌朝、千鶴は押し入れの下段から段ボール箱を引き出した。外側には黒い油性ペンで「家計簿」と書かれ、角には子どもが幼いころ貼った星形のシールが残っている。箱を動かすと、長年積もった埃と防虫剤の匂いが畳の上へ広がった。


 千鶴は深い赤色のセーターに黒いパンツをはき、髪を山吹色の布でまとめていた。窓の外では春の雨が細く降り、庭の青じそが濡れた土へ小さな葉を広げている。白い植木鉢のパセリには雨粒が並び、軒下の分葱だけが風に合わせて左右へ揺れていた。


「朝から、何をやっているんだ」


 浩司が階段を下りてきた。灰色のスウェットの首元は少し伸び、片方の靴下がかかとまで下がっている。千鶴は返事をせず、段ボール箱の蓋を開けた。


 中には、三十五冊の家計簿が年代順に並んでいた。最初の一冊は表紙の花柄が薄れ、開くと古い紙と醤油の匂いがした。いちばん新しい家計簿には、先月買った蕪と鯛の値段まで書かれている。


「そんな古い家計簿を、まだ取っていたのか」


 浩司は一冊を抜き、ぱらぱらとめくった。昭和の終わりごろの頁には、家賃、電気代、浩司の小遣い、千鶴の日本舞踊の月謝が並んでいる。月謝の欄は三か月目で線が引かれ、その下から住宅積立という項目が増えていた。


「捨てるつもりで出したのではありません」


「では、何に使うんだ」


「相談窓口へ持っていきます」


「離婚の話か」


「ええ。財産分与と年金分割について、説明を受けます」


「本気だったのか」


 浩司は家計簿を閉じ、元の場所へ戻さず畳の上へ置いた。背表紙を下にしたため、古い糸が引っ張られて表紙が少し開いた。千鶴は向きを直し、柔らかな布で埃を拭いた。


「俺は卒婚と言ったんだ。離婚するとは言っていない」


「何度も伺いました」


「だったら、どうして離婚になる」


「あなたは夫としての責任から自由になりたい。けれど私には、妻として家を守り、食事を作り、あなたの帰りを待つように言いました」


「それが何で離婚につながるんだ。生活費は渡すと言っただろう」


「半分に減らすとも言いました」


「俺が留守なら、食費も光熱費も減るじゃないか」


「あなたの郵便物を管理し、庭を手入れし、帰宅すると言われたら食事と風呂を用意する料金は、どこに含まれていますか」


 浩司は口を開けたまま、千鶴を見た。台所では、前夜に浸しておいた昆布がボウルの中で広がっている。冷蔵庫のモーターが止まると、春の雨が雨樋を流れる音が聞こえた。


「夫婦の間で、いちいち料金なんか取るのか」


「お金を取りたいのではありません。あなたが何を私へ残し、何から自分だけ自由になろうとしているのか、確かめているのです」


「家にいられるんだから、お前にも得があるだろう」


「この家は共有名義です」


「住宅ローンを払ったのは俺だ」


「頭金には、私が結婚前に貯めた三百万円を入れました。住宅ローンを払う間、私は子どもを育て、あなたの両親を介護しました」


「また、昔のことを持ち出すのか」


「三十五年間の婚姻について相談するのです。昔のことを出さずに、何を話せばいいのですか」


 千鶴は押し入れから二つ目の箱を出した。そこには義父母と実母の介護記録、病院の領収書、介護保険の書類が入っていた。輪ゴムは茶色く劣化し、触れると細かく切れて畳へ落ちた。


 義父の記録は、廊下で転倒する半年前から始まっている。千鶴は義父の右足が上がりにくくなったことに気づき、廊下の敷居へ薄い板を入れ、段差を緩やかにした。夜間に歩くときのため、足元灯も自分で買った。


「この足元灯、覚えていますか」


 千鶴が領収書を見せると、浩司は首を傾げた。義父が夜中に便所へ行くため何度も廊下を通り、そのたびに灯りがついた。浩司も同じ家にいたが、誰がつけた灯りかを考えたことはなかった。


「親父が自分で買ったんじゃないのか」


「私が買いました」


「言ってくれれば、金くらい出した」


「家計から出しました」


「なら、俺の給料から出たんだろう」


「買いに行き、取りつけ、電池が切れる前に交換したのは誰ですか」


「そのくらい、介護をしていれば普通だろう」


「ええ。普通に暮らせるように、私がしていました」


 義母の薬の記録には、朝、昼、夕、就寝前と色の違う線が引かれていた。薬が一週間分になると病院へ電話し、浩司の休日と重ならない日に受診予約を取った。浩司は休日にゴルフや競馬へ行くことが多く、義母を病院へ連れていったのは、ほとんど千鶴だった。


「母さんの病院には、俺も行っただろう」


「退院の日に一度、最期の日に一度です」


「仕事があったんだ」


「ええ。ですから私は、あなたへ来てほしいとは言いませんでした」


「それを今になって責めるのか」


「責めているのではありません。記録を確認しています」


 千鶴は、義母が亡くなった年の家事ノートを開いた。葬儀社、寺、親戚への連絡、香典返し、役所の手続きが、日付ごとに細かく書かれている。頁の隅には「浩司、黒い靴下を用意」と赤い字で書かれていた。


「葬式の日の靴下まで、書いていたのか」


「あなたが紺色の靴下を履こうとしたからです」


「黒に近い紺だっただろう」


「伯父さまに注意される前に、私が替えました」


「そんなこと、誰も覚えていない」


「何も起きなかったからです」


 千鶴は次の家計簿を取り出した。長女の妙が三歳、長男の航平が生まれた年のものである。保育園代、おむつ、粉ミルク、予防接種の日付が、眠気で曲がった文字で書かれていた。


 冬のある夜、妙と航平が同時に熱を出した。千鶴も朝から身体が熱く、台所で湯を沸かすだけで膝が震えた。それでも枕元へ二人分の保険証、診察券、着替え、タオルを用意した。


「浩司さん、妙が三十九度あるの。航平も八度を超えたわ」


 若い浩司は布団から顔を上げ、目覚まし時計を見た。翌朝には早い会議があり、休めないと言った。千鶴は子どもの額へ濡れた手拭いを置きながら、自分の体温計を脇から抜いた。


「お前は何度だ」


「三十八度二分」


「では、早く寝たほうがいい」


「二人とも吐いたから、洗濯物があるの」


「朝にすればいいだろう」


「着替えが足りなくなるのよ」


「俺は明日も仕事なんだ。夜中に洗濯機を回すなら、扉を閉めてくれ」


 浩司は布団へ戻り、頭まで毛布をかぶった。千鶴は解熱剤を半分に割って飲み、吐いた寝間着と敷布を浴室で下洗いした。洗剤と胃液の匂いが混じり、冷たい水に触れた指先は白くなった。


 夜明け前には洗濯物を室内へ干し、子どもたちの体温をもう一度測った。朝になると千鶴の熱は下がっておらず、味噌汁の味が分からなかった。それでも浩司の弁当へ卵焼きと冷凍の唐揚げを詰めた。


「今日の弁当、冷凍食品か」


 浩司は蓋を開けて中を確認した。千鶴は台所の壁へ片手をつき、倒れないよう足へ力を入れた。味噌汁は火にかけたまま煮立ち、わかめが鍋の縁へ張りついていた。


「今日は、ごめんなさい」


「別にいいけど、会社の連中に見られると手抜きだと思われるぞ」


「明日は、ちゃんと作るわ」


 千鶴はその言葉を、家事ノートの余白へ書いた。「明日はちゃんとする」と書き、翌朝もいつもどおり起きた。子どもたちの熱が下がるまで、自分の体温を測ることはなかった。


 現在の居間で、千鶴はその頁を浩司へ見せた。弁当のおかずと子どもの体温が、同じ欄に書かれている。水で濡れた指で触ったのか、インクが一部にじんでいた。


「こんなことまで覚えているのか」


「記録があるからです」


「俺だって、仕事を休めなかったんだ」


「休めないあなたの代わりに、私が倒れないようにしました」


「主婦なら、子どもの看病をするのは当然だろう」


「ええ。あなたが普通に会社へ行けるように、当然のこととして私が引き受けました」


 千鶴はさらに記録を並べた。妙の入学、航平の受験、義父の転倒、義母の入院、自分の母の通院。家族に何かが起こるたび、千鶴は必要なものを事前に用意し、誰かが困る前に手を動かしていた。


 実母の介護が始まったころ、千鶴は午前中に病院へ通い、午後四時には家へ戻った。浩司の夕食を六時半に出すためだった。病院から駅まで急いで歩き、電車の中で献立を決め、商店街が閉まる前に買い物をした。


 母の病室には、小さな梅の枝が飾られていた。花屋が売れ残った枝を病院へ届けたもので、白い花が二輪だけ開いていた。母はベッドの上で、千鶴が持ってきた林檎を一口食べた。


「千鶴、もう来なくていいよ」


 母は林檎を噛まず、口の中へ残したまま言った。千鶴は小さく切りすぎたと思い、次の一切れをさらに薄くした。病室には消毒薬と、昼食に出た煮魚の匂いが残っていた。


「どうして、そんなことを言うの」


「毎日来たら、お前の家のことができないだろう」


「午後には帰っています」


「婿さんのご飯を作るんだろう」


「ええ。でも、間に合っています」


「私のために、お前まで家で叱られることはないよ」


「叱られていません」


 千鶴は林檎を皿へ戻した。母は目を閉じ、白い布団の上へ両手を置いた。点滴の管が手首から伸び、透明な液が一定の速さで落ちていた。


「千鶴は、何でもちゃんとしようとするからね」


「ちゃんとできています」


「お前がちゃんとしているうちは、周りは何もしなくなるよ」


「何を言っているの。林檎、もう一切れ食べて」


「今日は、もういいよ。早く帰りなさい」


 千鶴は病室を出て、駅まで歩いた。ホームへ着くと、乗るはずだった電車まで四分あった。トイレの個室へ入り、蓋を閉めた便座へ座った。


 鞄から白いハンカチを出し、口元へ押し当てた。声が外へ漏れないよう、三分だけそこにいた。鏡の前で目の周りを冷たい水で洗い、四分後の電車へ乗った。


 帰宅したのは午後四時五十分だった。大根を半月切りにし、鶏肉と一緒に煮ていると、指へ力が入らず、包丁の刃がまな板へ斜めに当たった。浩司が帰る六時半には、煮物、ほうれん草の胡麻和え、豆腐の味噌汁が食卓へ並んだ。


「今日は味が薄いな」


 浩司は鶏肉と大根を食べ、醤油差しへ手を伸ばした。千鶴は味見をしたが、舌へ味が届かなかった。病院でもらった母の洗濯物は、玄関の袋へ入れたままだった。


「ごめんなさい。明日は、ちゃんと作ります」


「お前、疲れているんじゃないか」


「大丈夫です」


「倒れられると俺が困るから、無理はするなよ」


「ええ」


 浩司は、千鶴へ休むよう言ったつもりだった。しかし夕食を作らなくていいとも、母の病院へ代わりに行くとも言わなかった。千鶴は食器を洗い終えてから、玄関の袋を持って洗濯機へ向かった。


 現在の千鶴は、母の介護記録を閉じた。最後の頁には葬儀の日付と、役所へ死亡届を出した時刻が記されている。その下には、浩司の翌日の朝食について「パン、卵、コーヒー」と書かれていた。


「母が亡くなった翌朝まで、あなたの朝食を考えていたのね」


「何も作らなくていいと言っただろう」


「あなたは、台所にパンがあるから自分で食べると言いました」


「同じことじゃないか」


「同じではありません。でも、当時の私は、同じだと思うことにしました」


 浩司は畳に並んだ記録を見回した。三十五冊の家計簿、家事ノート、介護記録、領収書、病院の予約票。妻が何もせず家にいたと思っていた年月が、紙の束になって部屋を埋めていた。


「これを全部、弁護士に見せるのか」


「全部は必要ないと思います。財産分与に関係するものを選んでもらいます」


「介護の記録まで持っていって、俺を悪者にするつもりか」


「記録には、私がしたことしか書かれていません」


「俺だって、何もしていなかったわけじゃない」


「何をしましたか」


「働いて、金を入れた」


「ええ。それは家計簿に書いてあります」


「父親として、夫として、家族を養った」


「それも否定していません」


「なら、どうして俺ばかり責められなければならない」


 浩司の声が大きくなり、庭にいた雀が飛び立った。雨はいつの間にかやみ、濡れた木瓜の花が窓から差す光を反射している。千鶴は記録を投げつけることも、声を張り上げることもしなかった。


「あなたが働いたことも、家族を養ったことも、本当です」


「そうだろう」


「私が家族の生活を整えたことも、本当です」


「だから、それは主婦なら普通のことだ」


「その普通を、あなたは退屈だったと言いました」


 浩司は口を閉じた。食卓の上には、千鶴が貯めた旅行費の封筒が置かれている。角の擦れた封筒には「退職後の旅行」と書かれ、四万八千円が入っていた。


「私は、あなたと小旅行へ行きたかったのです。子育てが終わり、親の介護が終わり、あなたの仕事が終わる日を待っていました」


「日帰り旅行なら行ってもいいと言っただろう」


「私が望んだのは、埋め合わせではありません」


「では、何をすれば満足するんだ」


「私と一緒に行きたいと思ってほしかったのです」


「そんなことまで、言葉にしなければならないのか」


「私の望みは、言葉にしても聞いていただけませんでした」


 千鶴は房総の旅行パンフレットを封筒へ戻した。菜の花畑を走る列車の写真は、何度も開いたため、中央に白い折り目がついている。浩司はその写真を一度見たが、手を伸ばさなかった。


「お前が勝手に我慢したことまで、俺の責任にするな」


「ええ。私が自分で選んだこともあります」


「だったら――」


「ですから、これからは自分で選びます」


 千鶴は浩司の言葉を、初めて途中で止めた。自分が我慢したことをすべて夫の責任にすれば、これからの人生まで夫へ預けることになる。三十五年前に日本舞踊をやめたのも、近所の奥さんから家庭料理を習ったのも、夫の両親を介護したのも、最後に手を動かしたのは千鶴自身だった。


「私は、あなたに言われるたび、ちゃんとした妻になろうとしました。普通に生活できないと言われれば芸事をやめ、家庭料理が作れないと言われれば、近所の奥さんに頭を下げました」


「それで、料理が作れるようになったんだから、悪いことではないだろう」


「ええ。学んだことは、私の力になりました」


「では、何が不満なんだ」


「あなたは、その力が最初から家に備わっていたと思っていました」


 千鶴は三十五冊の家計簿へ手を置いた。料理を失敗した日も、家計が足りなかった月も、子どもの熱が下がらなかった夜も、その中には残っている。何も起きなかった家庭ではなかった。


 何かが起きるたび、千鶴が家の中で処理した。足りない金額を別の費目から補い、薬が切れる前に受診し、洗濯物がなくなる前に夜中でも洗った。家族が翌朝いつもどおり起きられるよう、乱れたものを日の出までに戻していた。


「あなたが退屈できたのは、私が毎日を退屈なまま守ったからです」


 浩司は三十五冊の家計簿を見た。どの表紙にも千鶴の文字があり、同じ月日が一日も抜けずに続いている。家族が何事もなく暮らした年月を、浩司は自分の働きだけでできたものだと思っていた。


「俺は、そんな意味で退屈と言ったんじゃない」


「では、どんな意味ですか」


「刺激がなかったというか、毎日同じだったというか……お前には、やりたいことがないように見えたんだ」


「日本舞踊も琴もピアノも、民謡も長唄も常磐津も清元も鳴り物も好きでした」


「それは聞いた」


「ヒラメから蒲鉾を作ることも、鯛の蕪蒸しを作ることも好きでした。ハーレーを見るために、自転車で何度も練馬のお店へ通いました」


「どうして、俺に言わなかったんだ」


「言ったものもあります」


「覚えていない」


「ええ。あなたは覚えていません」


 千鶴は日本舞踊の扇子を開いた。金地に描かれた藤の花が、春の光を反射した。浩司はそれを見ながら、何も言わなかった。


「あなたが知らないことを、私が持っていなかったことにはしないでください」


「今から、やればいいだろう。俺は止めない」


「許可を求めているのではありません」


「だったら、好きにしろ」


「そうします」


 千鶴は扇子を閉じ、法律相談へ持っていく書類を山吹色の鞄へ入れた。預金通帳、自宅の登記事項証明書、年金の記録、退職金の明細。浩司が食卓へ置いた退職金二千四百万円の明細も、写しを取ってあった。


「退職金まで分けるつもりか」


「婚姻期間中に形成された財産について、専門家へ相談します」


「俺が会社で働いて得た金だ」


「私は、その会社へ毎日通える生活を作りました」


「家事と仕事を同じにするな」


「同じではありません。どちらも必要だったと申し上げています」


 法律相談では、自宅の売却、財産分与、年金分割について説明を受けた。千鶴が結婚前の預金から出した三百万円の記録も、古い家計簿に残っていた。相談員は書類を一枚ずつ確認し、今後必要になるものへ付箋を貼った。


「奥様は、離婚を決めていらっしゃいますか」


 相談員は紺色のスーツを着た五十代ほどの女性だった。机にはパソコンと六法、冷めた緑茶が置かれている。千鶴は山吹色の鞄を膝へ載せ、持ち手を両手で握った。


「まだ、怖いです」


「何が一番怖いですか」


「夫がいなくなることではありません。三十五年間してきたことが、全部間違いだったと思うことです」


「離婚を選んでも、三十五年間が間違いになるわけではありません」


「そうでしょうか」


「お子さんを育て、ご家族を介護し、暮らしを守ったことは残ります。ただ、これからも同じ役割を続けるかどうかは、別の問題です」


 相談員は、年金分割の資料を千鶴の前へ置いた。千鶴は眼鏡をかけ、数字を一つずつ確認した。分からない言葉には鉛筆で丸をつけ、説明を受けるたびに小さなノートへ書き込んだ。


「こんなときまで、ノートを作るのですね」


 相談員が言うと、千鶴は自分の手元を見た。家族の通院でも、子どもの学校でも、必ず記録を取ってきた。今回は、初めて自分の生活を守るための記録だった。


「忘れたら困りますから」


「ご主人のためではなく、ご自分のために使ってください」


「はい」


 帰宅すると、浩司は食卓に座っていた。昼に食べたカップ麺の容器がそのまま残り、汁の表面には白い脂が固まっている。千鶴は窓を開け、麺と調味油の匂いを外へ逃がした。


「どうだった」


「自宅の売却、財産分与、年金分割について、手順を教わりました」


「本当に、この家を売るつもりか」


「一人では維持できません。あなたが買い取るなら、その方法もあります」


「俺に自分の家を買えと言うのか」


「私の持分を買い取るという意味です」


「ここは俺が帰る家だぞ」


「私が三十五年間暮らした家でもあります」


「旅行から帰る場所がなくなるじゃないか」


「別の場所を、ご自分で用意してください」


 浩司はカップ麺の容器を押し潰した。残っていた汁が縁からこぼれ、新聞の上へ広がった。千鶴は布巾を取らず、台所の窓際に並んだ再生野菜へ水を足した。


「俺は自由になりたかっただけだ」


「ええ」


「離婚して、家まで失いたかったわけではない」


「ええ」


「お前には、この家で待っていてほしかった」


「それが、あなたの卒婚ですね」


「何が悪いんだ。生活費も渡すし、帰ったら土産だって買ってくる。お前も好きなことをすればいい」


「私は、いつ帰るか分からないあなたのために待機するのですね」


「夫婦なら、それくらいするだろう」


「私は、もうしません」


 千鶴は離婚協議書の下書きを食卓へ置いた。すぐ署名を求めるものではなく、専門家を交えて話し合うための案だった。自宅、預貯金、退職金、年金分割について、確認すべき項目が並んでいる。


「お前は、本当に俺を捨てるのか」


「あなたが先に、私との三十五年を退屈だったと捨てました」


「言葉のあやだ。そこまで大げさに受け取るな」


「タクシーで平凡な女と笑ったことも、お正月に普通に生活できない女と言ったことも、言葉のあやでしたね」


「昔の冗談だろう」


「あなたには一度の冗談でも、私には三十五年分の宿題でした」


 千鶴は離婚協議書を浩司の前へ押し出した。浩司はすぐには触れず、油の浮いたカップ麺の容器を見た。昨日までなら、妻が片づけてくれるまでそこに置いておけばよかった。


 話し合いには、三か月かかった。浩司は何度も離婚を拒み、日帰り旅行へ行く、家事を少し手伝う、千鶴の踊りも認めると条件を出した。千鶴はそのたびに、許可や埋め合わせではなく、自分の生活を選びたいと答えた。


 自宅は売却することになり、残った金額は持分と婚姻中の形成財産を考慮して分けられた。退職金についても専門家を交えて財産分与を決め、年金分割の手続きをした。浩司は駅から少し離れた賃貸住宅を借り、千鶴は地域活動センターと図書館に近い、小さな庭のある家へ移った。


 引っ越しの日、千鶴は三十五冊の家計簿を全部持っていかなかった。住宅購入、介護、子育てに関わる五冊と、最初の一冊だけを残した。ほかの家計簿は、必要な頁を写してから古紙回収へ出した。


「本当に捨てるのか」


 浩司は紐でまとめられた家計簿を見た。新居へ運ぶ段ボール箱には、赤い椿のカップ、日本舞踊の扇子、母が縫った稽古着が入っている。日本髪の鬘と引き着も、専門の店で手入れをしてもらってから運ぶことにした。


「記録がなくても、私がしたことはなくなりません」


「俺との生活も?」


「なくなりません。楽しかったこともありました」


「それなら、やり直せないか」


「やり直すのではなく、あなたも自分の暮らしを始めてください」


「バイクの免許は取るのか」


「まず普通二輪の教習からです。まだ身体がついていくか分かりません」


「無理なら、やめるのか」


「ええ。でも、あなたに無理だと言われたからではなく、自分で確かめて決めます」


 新しい家には、六畳の部屋と小さな台所、三畳ほどの庭があった。千鶴は青じそ、パセリ、バジル、分葱を庭へ植えた。台所の窓際にはミント、にんにくスプラウト、再生ニンジン、再生大根を並べた。


 地域活動センターでは、介護経験者の話を記録する手伝いを始めた。薬の名前、通院日、緊急連絡先、家族ができることとできないことを、一冊にまとめる。千鶴が作った「暮らしの帳面」は、誰か一人が全部を覚えなくても生活が止まらないように作られていた。


「千鶴さん、ご自分の予定も書いてくださいね」


 職員の芙美が帳面を見ながら言った。千鶴の予定欄には、普通二輪の教習、邦楽サークル、日本舞踊の動画を見る日が書かれている。金曜日の午後だけは何も書かず、空白にしてあった。


「この空白は、書き忘れですか」


「いいえ。何もしないための予定です」


「ずいぶんぜいたくな予定ですね」


「三十五年分ですから」


 二人は笑い、昼休みに庭で採れたバジルを載せたトーストを食べた。千鶴はトマトとチーズを載せ、胡椒を多めに振った。浩司が嫌う香りの強いバジルは、焼くと台所いっぱいに匂った。


 最初の正月、千鶴は一人分の小さなおせちを作った。黒豆、栗きんとん、菊花かぶ、そしてヒラメを蒸してすった蒲鉾である。全部を完璧にそろえず、自分が作りたいものだけを重箱へ詰めた。


 深い赤色の羽織を着て、赤い椿の器へ雑煮を盛った。蒲鉾は少し形が崩れ、切り口に小さな穴ができている。それでも千鶴は端の一切れを隠さず、いちばん上へ載せた。


「おばあちゃん、これも作ったの?」


 遊びに来た孫が蒲鉾を箸で持ち上げた。妙は台所の窓際を見て、再生大根の葉を指で触った。水を替えたばかりの小皿には、冬の日が反射していた。


「ヒラメを蒸して、すって作ったのよ」


「買ったほうが早くない?」


「早いわね」


「では、どうして作ったの?」


「私が作りたかったから」


 孫は蒲鉾を一口食べ、もう一切れ取った。千鶴は誰の皿が空になっているかをすぐには確認せず、自分の雑煮を食べた。出汁は濃く、餅は少し焦げ、柚子の香りが鼻へ抜けた。


 窓際の再生大根から、新しい葉が伸びていた。食べ終え、切り落とされ、捨てられるはずだった根である。千鶴は小皿の水が減っていることに気づいたが、食事の途中で立ち上がらなかった。


「お母さん、水を足さなくていいの?」


 妙が尋ねると、千鶴は雑煮の餅をゆっくり飲み込んだ。これまでなら、気づいた瞬間に席を立っていた。誰かが困る前に、自分が動くことが習慣になっていた。


「食べ終わってからで大丈夫よ」


 千鶴は箸を置かず、もう一口食べた。庭では青じそもバジルも冬を越せず、土の上には枯れた茎が残っている。それでも分葱は冷たい土から細い葉を伸ばし、台所の再生大根も、朝の光へ向かって育っていた。


 三十五年間、千鶴は家族の「ちゃんと」を守った。それは間違いではなかった。ただ、これからは自分だけが全部をちゃんとしなくてもいい。


 食卓の隅には、教習所の予定表と、日本舞踊の扇子が置かれていた。午後には『櫓のお七』の動画を見て、妙に後見のまねをしてもらう約束をしている。明日は何も予定を入れず、昼まで眠ってもよかった。


「お母さん、今は退屈?」


 妙が笑いながら尋ねた。千鶴は重箱から形の崩れた蒲鉾を取り、自分の皿へ載せた。誰かが選んだ残りではなく、自分が食べたい一切れだった。


「いいえ。でも、退屈な日があってもいいと思っているの」


「どうして?」


「もう、誰かのために事件を片づけ続けなくていいからよ」


 千鶴は食事を終えてから、再生大根の小皿へ水を足した。透明な水の中で白い根が揺れ、中心から出た緑の葉が窓へ向かって開いている。千鶴はその葉へ触れず、自分のためにいれた甘い紅茶を、温かいうちに飲んだ。


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