第11話 退職金は、誰の老後ですか
第11話 退職金は、誰の老後ですか
浩司の退職金が振り込まれてから一か月後、千鶴は銀行の記帳台で通帳を開いた。毎月二十五万円を入れていた生活口座へ、今月は十二万五千円しか振り込まれていない。窓口の脇には青紫色の紫陽花が飾られ、濡れた傘と床用洗剤の匂いが混じっていた。
千鶴は生成りのブラウスに薄紫色のカーディガンを重ね、山吹色の布鞄を肩へ掛けていた。鞄から家計簿を出し、固定資産税、火災保険、電気、ガス、水道、食費、日用品費を足した。浩司が旅行へ出ても、家を維持する費用まで半分になるわけではなかった。
「十二万五千円……」
千鶴は数字の横へ赤い線を引いた。通帳をもう一度記帳機へ入れたが、金額が増えるはずもない。同じ頁へ取引なしと印字され、機械から乾いた音を立てて戻ってきた。
銀行を出たあと、千鶴は商店街の魚屋へ寄った。発泡スチロールの箱には鯵、鰆、蛍烏賊が砕いた氷の上へ並び、潮と生姜醤油の匂いが店先まで流れている。隣の八百屋には青梅の籠が積まれ、葉のついた赤蕪が一束だけ残っていた。
「奥さん、今日は鯵がいいよ。一尾百五十円」
魚屋の主人が、銀色の鯵を二尾持ち上げた。千鶴は財布の小銭を確かめ、一尾だけを頼んだ。半身を塩焼きにし、残りは翌朝のなめろうにすれば、二食分になる。
「今日は一尾でいいのかい」
「夫が生活費を半分にしましたから」
「卒婚すると、鯵まで半分になるのか」
「魚屋さんの鯵は一尾のままです。私が買う数だけ減りました」
魚屋の主人は声を上げて笑い、鯵を新聞紙で二重に包んだ。千鶴も口元を緩めたが、山吹色の鞄へ通帳をしまう手には力が入った。八百屋では、糠床へ入れる青梅を一個だけ買った。
自宅へ戻ると、玄関には宅配便の不在票が三枚入っていた。差出人は腕時計を扱う百貨店、バイク用品店、旅行会社である。浩司は北陸から帰ったあとも、房総へ出かけ、翌月には北海道旅行を予約していた。
居間の椅子には、新しい黒い革のジャケットが掛かっている。内ポケットには十七万八千円と印字されたレシートが残っていた。革と防水剤の匂いが、背もたれへ掛けた千鶴の布巾にまで移っていた。
夕方、浩司が帰宅した。黒いポロシャツの胸にはバイクメーカーの紋章が入り、左腕には銀色の腕時計が光っている。手には大型バイクの契約書を持ち、頬には教習所で日に焼けた跡が残っていた。
「見ろ。いいだろう」
浩司は腕を伸ばし、時計の文字盤を千鶴へ見せた。小さな針と数字がいくつも並び、縁には青い光が入っている。千鶴は鯵の骨を抜いていた手を止め、指先を布巾で拭いた。
「いくらしたの?」
「いきなり値段を聞くなよ。似合うかどうかを先に言え」
「時計に詳しくありません」
「八十二万円だ」
「八十二万円?」
「定年記念だ。三十五年働いた男が、これくらいのものを買っても罰は当たらない」
「その契約書は?」
「ハーレーだ。免許が取れるまで店で預かってもらう」
「いくらですか」
「諸費用を入れて三百四十万円くらいだ。今日は手付金を五十万円払った」
浩司は契約書を食卓へ置いた。千鶴が夕食のために拭いたばかりのテーブルへ、靴墨のついた鍵束も投げ出した。契約書には、納車前に残金を支払う予定が記されていた。
「今月の生活費が、半分しか入っていませんでした」
千鶴は通帳を浩司の前へ置いた。浩司は金額を一度見ただけで、腕時計の留め金を指先で磨いた。台所では鯵を焼く脂の匂いが立ち、魚焼きグリルから細い煙が出ていた。
「俺がほとんど家にいないんだから、十二万五千円で足りるだろう」
「固定資産税も保険料も半分にはなりません。電気、水道、ガスの基本料金も同じです」
「食費は一人分だ」
「あなたが帰るたび、刺身と酒を用意するよう言われています」
「夫が帰ってくるんだから、それくらい普通だろう」
「その普通は、今月から別料金です」
「夫婦の間で、料金を取るのか」
「では、ご自分で用意してください」
浩司は通帳を閉じ、千鶴へ押し返した。千鶴は家計簿を開き、今月の支出を見せた。青じそ、パセリ、バジル、分葱は庭で育て、にんにくスプラウト、再生ニンジン、再生大根は窓際で水耕栽培している。
「庭の葉っぱは、お前の趣味だろう。家計に入れるなよ」
「食卓へ出した分は、食費を抑えています」
「そんなもの、いくらにもならない」
「少しずつ抑えたから、住宅ローンも教育費も介護費用も払えました」
「昔から、お前は細かすぎるんだ」
「家計は、細かい数字の合計です」
浩司は冷蔵庫から缶ビールを出した。扉には、千鶴が普通二輪の教習相談日を書いた紙が磁石で留められている。浩司は紙の端を折り曲げ、缶の栓を開けた。
「退職金は二千四百万円ある。細かいことで騒ぐな」
「その退職金から、今後の生活費を出すのですか」
「俺の老後の金だ」
「では、私の老後は?」
「お前にも貯金があるだろう。年金だってある」
「私は六十歳です。老齢年金は、原則として六十五歳からです」
「六十歳からもらう方法があるだろう」
「繰上げ受給をすれば、その分は一生減額されます」
「五年早くもらうんだから、少しくらい減るのは仕方ない」
「あなたが時計とバイクを買うために、私の年金を一生減らすのですか」
「そんな言い方をするな。生活費が足りないと言うから、方法を教えただけだ」
浩司はビールを一口飲み、契約書についた水滴を袖で拭いた。八十二万円の時計は、一秒ずつ正確に針を進めている。千鶴は焼けた鯵を取り出し、自分の皿へ半身だけ載せた。
「年金を受け取るまでの五年間は、貯金を使えばいい」
「私の貯金は、私の老後資金です」
「俺の退職金だって、俺の老後資金だ」
「老後資金を、時計とバイクと旅行へ使っているのはあなたです」
「これは三十五年働いた褒美だ」
「では、私の三十五年分の褒美はどこにありますか」
「お前は会社で働いていないだろう」
千鶴は鯵の残りを保存容器へ入れた。透明な蓋へ翌朝と書き、冷蔵庫の自分の棚へ置いた。浩司の前には、皿も箸も用意しなかった。
「私は結婚前、働いていました」
「昔の話だ」
「あなたの転勤に合わせて退職しました。子どもが生まれ、双方の親の介護が続き、再就職できませんでした」
「専業主婦でいることを、俺が強制したわけではない」
「転勤先で保育園が見つからなかったとき、仕事を続けるために単身赴任をお願いしました」
「新婚で単身赴任なんて、普通ではないだろう」
「義父の介護が始まったとき、週三日の仕事を探しました」
「父さんを一人にできなかったんだから、仕方がない」
「では、私はいつ働けばよかったのですか」
「今から働けばいい。まだ六十歳だろう」
千鶴はそれ以上答えず、冷めた味噌汁を自分の椀へよそった。わかめは鍋の底へ沈み、豆腐の角も崩れている。浩司は返事を待ったが、千鶴は鯵の身を青じそで包み、ゆっくり食べた。
翌日、千鶴は年金事務所へ向かった。紺色のブラウスに薄灰色のジャケットを着て、山吹色の鞄へ年金の通知と家計簿を入れている。待合室の壁には、年金の繰上げと繰下げを説明する大きな表が貼られていた。
「六十五歳から受け取れる見込額は、こちらです」
担当者は画面を確認し、印刷した資料を千鶴へ渡した。結婚前に厚生年金へ加入していた期間、浩司の扶養へ入った時期、途中で短く働いたパートの記録が並んでいる。千鶴は眼鏡をかけ、月額の数字を指でなぞった。
「これでは、一人で家賃を払うのは難しいですね」
「住居費を含めた生活全体を、資産と一緒に考える必要があります」
「離婚した場合、年金分割をすれば半分になりますか」
「ご主人の年金そのものを、単純に半分受け取る制度ではありません。婚姻期間中の厚生年金の標準報酬記録を、定められた範囲で分割します」
「分割後の見込額も分かりますか」
「情報提供を請求し、条件を置いて試算することができます」
「六十歳から繰り上げた場合は?」
「受給額が減額され、その減額は生涯続きます。今後の生活を含めて慎重にお考えください」
千鶴は説明を小さなノートへ書き取った。数字を間違えないよう読み返し、分からない言葉には丸をつけた。介護中に薬の名前や医師の説明を記録したときと、同じ手の動きだった。
「記録を取るのがお上手ですね」
「忘れると、家族が困りましたから」
「今回は、ご自分が困らないために残してください」
「はい。そのつもりです」
年金事務所を出たあと、千鶴は区の生活相談窓口へも立ち寄った。一人暮らしになった場合の家賃、最低生活費、医療費について確認したかった。相談室の机には計算機と紙の箱ティッシュが置かれ、窓際には葉の先が茶色くなった観葉植物があった。
「一人暮らしの目安として、こちらの試算では月十二万九千四百五十円と出ました」
相談員は、生活扶助、特例加算、住宅扶助を分けて紙へ書いた。生活扶助などが七万五千七百五十円、住宅扶助の上限が五万三千七百円である。ただし、実際の金額は家賃、収入、資産、世帯の事情によって個別に決まると説明した。
「この中に、病院の費用も含まれているのですか」
「医療扶助は別です。生活保護が決定し、必要と認められた保険診療については、原則として医療扶助で対応します」
「では、年金がこれより少なくても、そこから医療費を払うのですね」
「年金で暮らす場合は、加入する医療保険の保険料や窓口負担も考える必要があります。ただし、収入が最低生活費を下回るからといって、必ず生活保護を受けられるわけではありません」
「財産分与で預金を受け取った場合は?」
「利用できる資産があれば、まず生活に活用できるかを確認します。持ち家や預貯金を含め、個別の判断になります」
千鶴は計算機を借り、分割後の年金見込額から家賃、光熱費、保険料、医療費、食費を順番に引いた。最後に表示された数字は、毎月の暮らしを支えるには細すぎた。家を売って財産分与を受けても、その金を少しずつ取り崩す生活になる。
「離婚すれば安心できると思っていました」
「離婚するかどうかと、離婚後に生活できるかどうかは、分けて考えたほうがいいでしょう」
「自由になるにも、家賃がかかるのですね」
「残念ながら、電気代も二世帯分になります」
相談員が少し笑うと、千鶴も計算機を見ながら笑った。離婚届を出せば、すべてがきれいに解決するわけではない。浩司と千鶴が別々に家を借りれば、同じ屋根を二つ用意する費用が必要になる。
次に予約していた弁護士は、自宅の登記事項証明書、退職金の明細、預貯金、年金の資料を確認した。自宅は夫婦の共有名義で、千鶴が結婚前の預金から出した三百万円の記録も家計簿に残っている。退職金についても、婚姻期間中に形成された財産として検討する余地があると説明された。
「離婚すれば、夫の退職金を半分もらい、年金も半分になると思っていました」
「財産分与も年金分割も、すべてが機械的に半分になるわけではありません。個別の財産と婚姻期間、形成の経緯を確認します」
「家を売れば、二人とも家賃が必要になります」
「ご主人が奥様の持分を買い取る方法もありますが、その場合、ご主人の退職金が大きく減る可能性があります」
「私が夫の持分を買うことはできません」
「離婚を急がず、当面は同居しながら生活を分ける方法もあります」
「離婚しない卒婚ですか」
「法律上の名前ではありませんが、お二人が納得できる生活上の取り決めを作ることはできます。ただし、口約束で終わらせず、費用負担や財産管理を具体的にしてください」
千鶴は新しい頁を開いた。自宅の維持費、生活費、退職金の管理、食事、洗濯、通院、旅行中の連絡、将来の離婚再検討。これまで家族の予定を書いてきた字で、今度は自分を守るための条件を書いた。
「私は、離婚しなければ自由になれないと思っていました」
「結婚を続けることと、ご主人の世話を無制限に引き受けることは、同じではありません」
「六十五歳になったら、もう一度計算してもいいのですね」
「もちろんです。年金の実額、残った資産、住居の状況を見て、改めて判断できます」
弁護士事務所を出ると、雨がやんでいた。歩道の紫陽花は水を含み、青い花の重さで塀の外へ傾いている。千鶴は図書館へ寄り、以前参加できなかった読書会の申込書を一枚取った。
三年前、千鶴は同じ読書会へ申し込んだ。子どもたちは独立し、双方の親の介護も終わっていた。ようやく自分の時間ができると思い、紺色のワンピースと薄桃色のスカーフまで用意した。
「来月から、図書館の読書会へ行ってもいいかしら」
その日の食卓には、鯖の味噌煮、きんぴらごぼう、豆腐とわかめの味噌汁が並んでいた。浩司は鯖の小骨を皿の端へよけながら、健康診断の結果を千鶴へ差し出した。血圧、腹囲、血糖値の欄に印がついていた。
「好きにすればいい。それより、医者から塩分と酒を減らして歩けと言われた」
「家でも血圧を測りましょうか」
「面倒だから、お前が時間を決めてくれ」
「散歩は?」
「一人では続かない。お前も一緒に歩けばいい」
翌朝から、千鶴は浩司の血圧を記録した。味噌汁の出汁を強くして味噌を減らし、漬物は一切れだけにした。鶏肉の皮を外し、野菜を増やし、毎晩のビールも小さな缶へ替えた。
毎朝六時には、浩司と近所の公園まで歩いた。冬の道には霜柱が立ち、白い息が街灯の光へ混じった。千鶴は右膝に違和感があったが、浩司が一人では続けないため歩幅を合わせた。
読書会の初日、千鶴は課題図書を鞄へ入れ、出かける支度をした。紺色のワンピースへ薄桃色のスカーフを合わせ、久しぶりに口紅も塗った。玄関では、浩司が散歩用の靴を履いて待っていた。
「今日は、昼の散歩へ行く日だろう」
「朝も歩いたでしょう」
「一日八千歩と言われた。まだ四千歩しか歩いていない」
「一人で行ってきて。私は読書会があります」
「俺一人では、すぐ帰ってしまう」
「でも、今日は――」
「読書会は来月もあるだろう。俺の健康は待ってくれないぞ」
千鶴は紺色のワンピースを脱ぎ、古いパンツへ着替えた。薄桃色のスカーフを箪笥へ戻し、口紅をティッシュで拭いた。課題図書は食卓の端へ置き、そのまま返却期限を迎えた。
三か月後、浩司の数値は改善した。医師は検査結果を見て、よく努力しましたねと褒めた。千鶴も診察室へ入り、食事と散歩の記録を膝へ載せていた。
「酒も減らしましたし、毎日歩きました。私は自制心がありますから」
浩司は胸を張って答えた。医師は頷き、今後も続けるよう助言した。誰が塩分を計算し、毎朝起こし、一緒に歩いたのかは尋ねなかった。
現在の千鶴は、図書館の窓口へ申込書を出した。三年前と同じ司書が、眼鏡を少し上げてから千鶴を見た。カウンターの花瓶には、青紫色の紫陽花が一輪挿してあった。
「以前も、申し込まれましたよね」
「はい。何度も本を借りたのに、読まないまま返しました」
「今度の課題図書は、少し厚いですよ」
「読み終わらなければ、読み終わらなかった話をします」
「それでいいんです。読書会は試験ではありませんから」
千鶴は課題図書を借り、帰りの電車で最初の頁を開いた。三駅分しか読めなかったが、鞄へしまう前に栞を挟んだ。誰かの診察券や薬の袋ではなく、自分の本だけが鞄に入っていた。
帰宅すると、浩司は食卓で退職金の明細を見ていた。腕時計、バイクの手付金、旅行、革のジャケット、教習所の費用が、赤い字で書き込まれている。二千四百万円あった退職金は、一か月余りで五百万円近く減っていた。
「弁護士は、何と言っていた」
「離婚すれば、二人とも今より住居費が増えます。年金分割をしても、私の年金だけでは、家賃と医療費を含む生活を支えるのは難しいそうです」
「だから、離婚しなければいい」
「当面は離婚しません」
浩司の口元が緩んだ。千鶴が怒った末に、自分のもとへ戻ると考えたらしい。腕時計の文字盤を袖で磨き、退職金の明細を閉じた。
「やっと現実が分かったか。夫婦は助け合うものだ」
「ええ。ですから、条件を決めます」
「条件?」
「自宅の維持費と老後資金は、二人で守ります。食事、洗濯、通院、旅行の準備は、それぞれ自分でします」
「それでは、一緒に暮らす意味がないだろう」
「二人分の家賃を払わずに済みます」
「それだけか」
「今のあなたと婚姻を続ける、いちばん大きな理由です」
千鶴は弁護士と整理した生活上の取り決め案を食卓へ置いた。固定資産税、火災保険、修繕費、光熱費の基本部分は共同で負担する。退職金から一定額を老後と医療、住宅修繕のために確保し、それを超える趣味の支出は互いの自由資金から出す。
「俺の退職金の使い道を、お前が決めるのか」
「すべてではありません。二人の老後を支える部分を、先に確保します」
「俺が稼いだ金だ」
「私は、年金を受け取るまで五年あります。その間の生活費も必要です」
「生活費を渡せば、今までどおり家事をするんだろうな」
「生活費は、家事代ではありません」
「では、誰が飯を作る」
「食べる人です」
浩司は口を曲げ、取り決め案をめくった。妻が旅行中の連絡係にならないこと、帰宅日の食事や風呂を要求しないこと、互いの部屋へ無断で入らないことまで書かれている。最後には、千鶴が六十五歳になった時点で、離婚と自宅処分を再検討するとあった。
「五年後に離婚するのか」
「五年後に、もう一度数字を見ます」
「夫婦なのに、数字ばかりだな」
「数字を見なかった結果が、八十二万円の時計です」
浩司は反射的に時計を袖で隠した。千鶴はそれ以上説明せず、冷蔵庫の中を整理した。上段の右側へ青い箱、左側へ赤い箱を置き、それぞれ名前を書いた。
「何だ、この箱は」
「青が浩司さん、赤が私です」
「卵は?」
「六個ずつ分けました」
「調味料まで分けるのか」
「醤油や味噌は共同で使います。減ったら交互に買います」
「ずいぶん水臭いな」
「卒婚を希望なさったでしょう」
千鶴は赤い箱へ鯵のなめろうと、庭から摘んだバジルを入れた。浩司の青い箱には、本人が買ったハム、納豆、缶ビールが入っている。八十二万円の時計は卵を焼かないが、台所にはフライパンも油もあった。
「今夜は、何を食べるんだ」
「私は鯵のなめろうです」
「俺は?」
「青い箱に、納豆があります」
「納豆だけか」
「卵も六個あります」
「また卵か」
「高級時計を眺めながら食べれば、豪華に見えるかもしれません」
浩司は何か言い返そうとしたが、自分の腕時計を見て口を閉じた。千鶴はなめろうをご飯へ載せ、青じその葉で包んで食べた。魚の脂、味噌、生姜、分葱の香りが口いっぱいに広がった。
食後、千鶴は読書会の申込書を家事ノートへ挟んだ。家族の予定とは違う青いペンで、第二土曜日の午後二時を囲んだ。その日は浩司の通院日だったが、診察券も保険証も、お薬手帳も本人へ任せることにした。
「その日は、俺の病院だぞ」
「カレンダーに書いてあります」
「一緒に来ないのか」
「私は読書会へ行きます」
「医者の話を覚えられない」
「ノートを持っていけばいいでしょう」
「書くのは苦手だ」
「三十五年分、練習する必要はありません。一頁目から始めてください」
浩司は食卓に置かれた新しいノートを見た。表紙には、千鶴が「浩司・通院記録」と書いている。最初の頁には病院の電話番号だけが記され、その下は白いまま残されていた。
千鶴は図書館から借りた本を開いた。窓際では再生大根の葉が伸び、庭から入る風にバジルの香りが混じっている。同じ家に夫はいたが、千鶴はもう、その帰りを待つためには暮らしていなかった。




