おまけ 米袋の小さな畑
おまけ 米袋の小さな畑
房総への小旅行から一か月が過ぎた三月の朝、千鶴は庭へ大きな米袋を二つ運び出した。生成りの割烹着の下には深い赤色のセーターを着て、黒いパンツの裾を古い靴下の中へ入れている。庭の隅では木瓜の赤い花が開き、湿った土と、昨夜の雨を含んだ枯れ葉の匂いがした。
米袋は、浩司が近所の米屋からもらってきたものだった。表には大きな黒い文字で「新潟県産こしひかり」と印刷され、底には折り目に沿って白い米粒が二粒残っている。千鶴が拾って掌へ載せると、浩司は紺色の作業着の膝を払いながら、物置から錐を持ってきた。
「二粒だけ炊くのか」
「まさか。雀にあげます」
「庭へ撒いたら、糞も落としていくぞ」
「お米だけいただいて、何も返すなとは言えないでしょう」
「鳥にまで律儀だな」
千鶴が米粒を庭石の上へ置くと、塀の上にいた雀が首を左右へ動かした。すぐには下りてこず、二人が離れるのを待っているらしい。浩司は米袋の底を広げ、錐の先を当てたが、どのくらい穴を開ければよいのか分からず、千鶴の顔を見た。
「穴は何個だ」
「底に十個くらい。横にも少し開けてください」
「大きさは?」
「水が抜けて、土がこぼれないくらいです」
「それが何ミリなのかを聞いている」
「私も米袋で育てるのは初めてです。錐の太さで開けてみましょう」
「ずいぶん大ざっぱだな」
「私はもともと、少し変わったことへ凝る女ですから」
浩司の手が止まった。以前なら、冗談だと笑って続きを促したかもしれない。今日は錐を置き、袋の底についた土を親指でこすってから、千鶴の赤いセーターを見た。
「その言い方をされると、まだ腹の奥が痛む」
「言われた私より、言ったあなたのほうが痛むの?」
「比べているわけじゃない」
「では、穴を開けてください。今日は大根のほうが先です」
「分かった。十個だな」
浩司は米袋の底へ一つずつ穴を開けた。三つ目までは同じ間隔だったが、四つ目が少し外へずれ、最後の二つは袋の印刷された稲穂へ重なった。千鶴は定規を持ってきていなかったため、直さずにそのまま使うことにした。
玄関脇には、園芸店で買った培養土と赤玉土の袋が置いてあった。浩司が二袋とも持とうとしたので、千鶴は赤玉土の小さい袋を自分で抱えた。袋の角が割烹着へ当たり、茶色い土の筋が一本ついたが、千鶴は払わずに米袋の前まで運んだ。
「腰を痛めますよ」
「これくらい持てる」
「先月、花畑で立ち上がるときに声を出していたでしょう」
「あれは革のパンツが動きにくかったんだ」
「今日は作業着ですから、声を出したら腰ですね」
「いちいち覚えているな」
「家族の体調を記録するのが、長年の習慣でしたから」
「俺の腰は自分で記録する。千鶴はそっちを持て」
二人は米袋の底へ鉢底石を入れ、その上から培養土と赤玉土を交互に加えた。浩司が袋を持ち、千鶴が移植ごてで混ぜると、乾いた土の粉が舞い、二人の袖へ薄く積もった。通りの向こうから焼き魚の匂いが流れてきて、千鶴は朝食の鯵の開きをグリルへ入れたままだったことを思い出した。
「火は消したかしら」
「俺が消した。皿へも載せた」
「大根おろしは?」
「自分でおろした。指までおろしそうになった」
「指は食べられませんよ」
「分かっている。だから途中でやめた」
「では、お昼に残りをおろします」
「俺の分までやらなくていい。今度は厚いところを持つ」
土を半分ほど入れたところで、千鶴は台所の窓辺から再生大根を持ってきた。白い皿の中では、大根の頭から十センチほどの葉が伸び、中心にはさらに薄い緑色の芽が重なっている。細い根が何本も水の中へ広がり、皿の底には交換し忘れた水のぬめりが少し残っていた。
「これを本当に植えるのか」
「根が出ましたから」
「大根一本になるのか?」
「元どおりの大根にはならないかもしれません。葉を食べられれば十分です」
「ずいぶん小さな収穫だな」
「あなたが昨日、味噌汁へ入れた分葱も、最初は小さな根でした」
「あれは便利だ。切ってもまた伸びる」
「便利だから育てるの?」
「それもある。緑があると、味噌汁が少しまともに見える」
千鶴は大根の根が折れないよう、土へ小さなくぼみを作った。浩司が大根を持とうとしたが、葉の部分をつかみかけたため、千鶴は手の位置を直させた。二人の指へ黒い土がつき、大根の白い切り口にも小さな粒が残った。
「根元を持って。葉を引っ張らないでください」
「これでいいか」
「もう少し下です。そう、そこを支えて」
「人形振りの後見より注文が多いな」
「お七の後見は、踊り手の身体を知っていなければできません。大根の植え替えより難しいですよ」
「大根なら、俺にも支えられる」
「ええ。勝手に動かさなければ」
浩司は大根を土の中央へ置き、千鶴が周囲へ土を寄せた。少し曲がっていたが、植え直せば根を傷めそうなので、そのままにした。浩司は正面から眺め、袋の印刷に対して斜めだと言ったが、千鶴は大根は文字を読まないと答えた。
もう一つの米袋には、再生ニンジンを三つ植えた。橙色の切り口から、細かな葉が扇のように伸びている。一つだけ根が短かったため、千鶴は無理に深く埋めず、周りの土を指で押さえた。
「こっちはニンジンになるのか」
「葉を育てます。柔らかいうちなら、刻んでかき揚げや胡麻和えにできます」
「ニンジンの葉は食べたことがあったか」
「あなたには出していません。苦いと言うと思ったから」
「食べる前から決めたのか」
「三十五年間の献立ノートに、あなたが残したものを書いてあります」
「今度、少しだけ入れてくれ」
「育ったら、自分で摘んでください」
「調理は?」
「一緒に作るなら教えます」
「かき揚げは難しくないか」
「油へ入れたあと、箸で何度も触らないことです。あなたは待てずに崩すでしょうね」
「まだ作ってもいないのに決めるな」
「では、育つまでに待つ練習をしてください」
二人は如雨露で水を運んだ。浩司が勢いよく注ぐと土がくぼみ、再生ニンジンの一つが横へ傾いた。千鶴はすぐに手を出さず、浩司が水を止めて、指で土を戻すところまで見ていた。
「最初に、ゆっくりと言ってくれればよかっただろう」
「聞きましたか?」
「聞いていない」
「では、次から先に尋ねてください」
「どうやって水をやればいい」
「葉ではなく、根元へ少しずつ。土が水を吸うのを見てから、次を注ぎます」
「これくらいか」
「ええ。今度は上手です」
浩司は同じ速さで残りの水を注いだ。米袋の底に開けた穴から、濁った水が細い筋になって流れ、庭の土へ染み込んだ。木瓜の枝から落ちた赤い花びらが一枚、その水へ貼りついた。
作業を終えると、二人は縁側へ腰を下ろした。千鶴は朝の残りのミルクティーを温め直し、浩司には急須でほうじ茶をいれた。皿には魚屋でもらった小さな飴と、前日に読書会の帰りに買った桜餅が二つ載っていた。
「米袋では、見栄えがしないな」
浩司は桜餅の葉を半分だけ剝がし、庭の二つの袋を眺めた。千鶴は塩気のある葉ごと一口食べ、ミルクティーを飲んだ。カップの縁には薄い膜ができ、指にはまだ土が爪の間へ残っていた。
「立派な植木鉢を買いますか」
「いや。これで育つなら、これでいい」
「けちくさいと思わないの?」
「食べ終えた野菜を、もう一度育てるんだろう」
「ええ」
「捨てる必要がないものを、捨てなかっただけだ」
千鶴は桜餅を持ったまま、浩司を見た。浩司は視線を米袋へ向けたまま、湯呑みの縁を親指で拭いている。庭では、植え替えたばかりの大根の葉が春の風に揺れ、傾いたニンジンも土の上で形を保っていた。
「浩司さん」
「何だ」
「水やりは、交代にしましょう」
「今日は俺がやったから、明日は千鶴だな」
「今日のは植えつけの水です。交代は明日からです」
「では、明日は俺か」
「ええ。土が乾いていなければ、あげなくていいですよ」
「毎日ではないのか」
「必要かどうか、自分で見てください」
「大根に聞けば分かるのか」
「土を触れば分かります」
浩司は縁側から立ち、もう一度米袋の前へしゃがんだ。人差し指を土へ少し入れ、湿っていることを確かめると、作業着の膝へ丸い泥の跡がついた。千鶴は注意せず、桜餅の残りを食べた。
「まだ水はいらないな」
「植えたばかりですから」
「明日の朝、また見る」
「旅行へ出る日はどうしますか」
「出かける前に見る。必要ならやる」
「私へ頼まないの?」
「二人で植えたんだから、俺の分でもあるだろう」
千鶴は空になった皿を膝へ載せ、米袋の小さな畑を見た。きれいに同じ間隔ではなく、大根は少し斜めで、ニンジンの一つは土から橙色の頭を出している。それでも二人は植え直さず、明日の様子を見ることにした。
塀の上にいた雀が庭石へ下り、朝から残っていた米粒を一粒くわえた。もう一粒を探して木瓜の根元を跳ねると、土の中から小さな虫が出てきた。浩司は追い払わず、空になった湯呑みを自分で盆へ戻した。
「大根の葉が増えたら、何を作る」
「まずはお味噌汁です」
「二人分か」
「二人とも食べたい日なら」
「では、その日は俺が味噌を入れる」
「煮立たせないでくださいね」
「もう四回も失敗した。五回目は大丈夫だ」
「五回目も失敗したら?」
「六回目を作る」
千鶴は盆を持って立ち上がり、浩司は桜餅の葉が残った皿を重ねた。台所へ戻る前に二人で米袋を振り返ると、再生大根の葉が、三月の風を受けて細かく揺れていた。根が残っていた野菜は、今度は二人が水をやる庭で、新しい葉を伸ばそうとしていた。




