おまけのおまけ 茶色い食卓と淡い桃色のヤリス
おまけのおまけ 茶色い食卓と淡い桃色のヤリス
浩司が料理教室へ通い始めて、三か月が過ぎた。最初は大根の厚さもそろえられず、里芋をむけば食べられる部分が半分になっていたのに、最近では包丁を研ぐ音まで様になっている。土曜日の夕方、千鶴が買い物袋を提げて帰ると、台所には味噌と生姜の匂いが満ち、紺色のエプロンを着けた浩司が鍋の火加減を見ていた。
「今日はサバの味噌煮だ。厚揚げも大根と一緒に煮た。味噌汁は豆腐と油揚げだから、千鶴は何もしなくていいぞ」
浩司は得意そうに鍋の蓋を取り、照りの出たサバを見せた。身は崩れておらず、煮汁には針生姜が浮かんでいる。千鶴は買ってきた小松菜とトマトを冷蔵庫へ入れ、流しの横に置かれた自分の包丁を布巾で拭いた。
「ずいぶん上手になったのね。厚揚げには隠し包丁まで入っているし、サバの皮にも切り込みがある」
「先生に教わった。味を染み込ませるには、煮る時間を長くするだけじゃ駄目なんだそうだ。料理も理屈が分かると面白いな」
浩司は小鉢へ厚揚げを盛り、最後に木の芽を一枚のせた。千鶴が長いあいだ使ってきた菜箸も、花模様の小鉢も、どこに何があるのか浩司はすっかり覚えていた。食卓には白いご飯、サバの味噌煮、厚揚げと大根の煮物、豆腐と油揚げの味噌汁が並び、千鶴の手を借りなくても夕食は完成していた。
「食べよう。サバが冷める」
浩司が椅子を引いたが、千鶴は座らなかった。食卓を見回し、冷蔵庫を開け、小松菜の袋に触れてから再び閉めた。どの皿からも湯気が上がっているのに、千鶴はエプロンを外し、淡い灰色のカーディガンを羽織った。
「少し出てくるわ」
「今からか。夕飯はどうする」
「帰ったらいただきます。先に食べていて」
玄関の鍵を取る音が、いつもより大きく響いた。浩司はお玉を持ったまま、閉まったドアを見ていた。追い掛けようとして一歩動いたものの、味噌汁の鍋が吹きこぼれ、慌てて火を止めた。
駐車場には、淡いピンクのヤリスが街灯の下で光っていた。千鶴は運転席へ座ると、買ったばかりの眼鏡を掛け、シートベルトを強く引いた。エンジンをかけてもすぐには動かず、両手でハンドルを握ったまま、フロントガラスの向こうにあるアパートの窓をにらんだ。
「何もしなくていい、ですって。三十五年間、一度も言わなかったくせに」
ヤリスは住宅街を抜け、環状線へ向かった。料金所を通過して首都高速へ入ると、左右の防音壁が後ろへ流れ、ラジオから古い歌謡曲が聞こえてきた。助手席には誰もおらず、千鶴が買った小松菜の袋だけが、曲がるたびにかさりと音を立てた。
高層ビルの灯りが近づき、やがて遠ざかっていった。淡いピンクの車体は、トラックと黒い乗用車の間を制限速度で走り、急ぐ車には道を譲った。千鶴は乱暴な運転をする代わりに、頭の中で浩司へ言いたい言葉を一つずつ並べた。
「料理ができるようになったくらいで、偉そうにしないで。木の芽を一枚のせたからって、三十五年分の食事を作った顔をしないで。それから、私の包丁を勝手に研がないで」
口に出すと、最後の一言だけが妙に小さくなった。包丁は刃こぼれが直され、新聞紙に当てるだけですっと切れるほど研がれていた。浩司は千鶴の道具を捨てたのでも、料理をするなと言ったのでもなく、ただ自分の食べるものを自分で作れるようになっただけだった。
湾岸線へ入ると、窓の向こうに黒い水面と港の照明が見えた。倉庫の赤い警告灯が規則正しく点滅し、前を走る車の尾灯が長く連なっている。千鶴はハンドルを握り直し、自分が踊りを習い、小説を書き、庭へ鉢を並べ始めた頃の浩司の顔を思い出した。
「あなたも、こうだったの」
浩司は、何か始めようとする千鶴へ「今さら」と言った。千鶴はその言葉を、妻を見下す夫の勝手な一言だと思っていた。もちろん、それは千鶴の三十五年を小さく扱う言葉だったが、その奥には、自分だけが取り残されることを恐れて足元を踏ん張る男がいたのかもしれなかった。
大黒パーキングエリアへ入ると、千鶴は自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。ベンチには座らず、ヤリスの運転席へ戻り、両手で缶を包んだ。サバの味噌煮も厚揚げの煮物も茶色く、豆腐と油揚げの味噌汁まで並べれば、食卓の色はほとんど同じだった。
「小松菜のおひたしを添えればいいのよ。トマトのだし煮でもいい。料理を取られたなんて考えている暇があるなら、自分の一皿を作ればいいじゃない」
缶コーヒーを一口飲むと、舌に残った甘さが少しくどかった。千鶴は空き缶を回収箱へ入れ、再びシートベルトを締めた。淡いピンクのヤリスは、来た時よりもゆっくりと駐車枠を出た。
千鶴が帰宅すると、時計は九時を回っていた。食卓の料理にはラップが掛けられ、浩司はテレビもつけずに椅子へ座っていた。玄関を開けた千鶴の顔を見ると、立ち上がりかけて膝をテーブルへぶつけた。
「どこまで行っていたんだ。電話くらい持っていけ」
「首都高を一周してきたわ。大黒で缶コーヒーも飲んだ」
「そんな顔で運転したのか」
「どんな顔よ」
「俺を殴る代わりに、ハンドルを握ってきたような顔だ」
千鶴は返事をせず、買い物袋からトマトを二つ取り出した。鍋に湯を沸かし、表面へ浅く十字の切り込みを入れる。熱湯へ沈めた皮がめくれると冷水へ移し、指先で赤い皮をするりとむいた。
「俺が料理を作ったのが、そんなに気に入らなかったのか」
浩司は流しから少し離れた場所に立った。以前なら「作れと言ったり、作ったら怒ったり、勝手なものだ」と続けただろうが、その夜は口を閉じていた。千鶴はだしを入れた小鍋へ薄口醤油とみりんを少し加え、湯むきしたトマトを静かに沈めた。
「料理が上手になったことは、いいことよ。あなたが自分の食事を作れるようになれば、私がいなくても困らない。それなのに、使われなかった包丁を見たら、手を置く場所がなくなったの」
「俺は、お前の場所を取るつもりなんかない」
「分かっているわ。だから、余計に始末が悪かったのよ」
千鶴は小松菜を洗い、沸騰した湯へ茎から入れた。鮮やかな緑に変わったところで引き上げ、冷水に取り、水気を絞って三センチに切る。浩司は隣へ立ち、すり鉢と白ごまを棚から出した。
「踊りを始めたお前を見ていた時、俺も手を置く場所がなかった。庭のことも、小説のことも、俺が知らない話をしているお前を見るたび、家の中から俺の椅子だけなくなるような気がした」
「それで、趣味一つない退屈な妻と言ったの」
「ああ。お前を座らせれば、俺の椅子が戻ってくると思った。随分みっともないやり方だった」
浩司はすり鉢でごまをすった。香ばしい匂いが台所に広がり、千鶴は砂糖と醤油を少し加えた。二人の肘が一度ぶつかったが、どちらも相手を押しのけなかった。
「あなたの気持ちは、少し分かったわ。でも、分かったからといって、あの言葉がなかったことにはならない」
「分かっている。元に戻ってくれとは言わない」
「元に戻る必要もないでしょう。私たちはもう、前とは違うもの」
翌朝、食卓には温め直したサバの味噌煮と厚揚げの煮物が並んだ。千鶴は小松菜のごま和えを小鉢へ盛り、冷蔵庫でだしを含ませたトマトには、庭の分葱とおろし生姜をのせた。茶色い皿の間へ赤と緑が入り、昨日とは別の献立に見えた。
「トマトをだしで煮るのか」
「煮るというより、浸して味を含ませるの。あなたの料理は味噌味が重なっていたから、酸味のあるものを添えたほうが食べやすいわ」
「料理教室の先生より厳しいな」
「三十五年の実習を終えた講師ですもの」
浩司はトマトを箸で切り、だしと一緒に口へ運んだ。何度かうなずいてから、今度は自分のサバを千鶴の皿へ少し分けた。千鶴もトマトを半分に切り、浩司の小鉢へ入れた。
「次は何を作ればいい」
「あなたが食べたいものを作ればいいでしょう」
「それでは、また茶色くなる」
「その時は私が赤か緑を作るわ。あなたが一人で食卓を完成させなくてもいいのよ」
食後、二人は庭へ出た。大きな米袋では再生大根とニンジンが葉を伸ばし、ニンジンの橙色の頭が土から少しのぞいている。浩司が土を足そうとすると、千鶴はその手を止めた。
「全部埋めては駄目よ。ニンジンさんのお顔は、少し出しておくの」
「料理にも畑にも、見栄えが必要なのか」
「見栄えだけではないわ。どこにいるのか分かることが大切なの」
駐車場では、淡いピンクのヤリスに朝日が当たっていた。昨夜走った首都高の汚れが、前輪の上へ薄く残っている。千鶴はあとで洗おうと思ったが、すぐには雑巾を取りに行かず、米袋からのぞくニンジンの頭を指でそっと撫でた。




