エピローグ 退屈ではない小旅行
エピローグ 退屈ではない小旅行
一年後の二月、浩司と千鶴は千葉県南房総市、千倉の花畑に立っていた。金盞花、水仙、ストック、パンジー、ビオラが、低い丘の向こうまで色を連ねている。橙、黄、白、桃、紫の花が冬の光を受け、すぐそばの海から届く潮の匂いと、湿った土の匂いが混じっていた。
千鶴は深い赤色のダウンジャケットに黒い防風パンツをはき、首には山吹色のマフラーを巻いていた。革の手袋の下には薄い毛糸の手袋も重ねている。それでも指先は冷え、ヘルメットを脱いだあとの耳には、針で刺されたような感覚が残っていた。
「バイクって、寒いのね」
千鶴が両手をこすり合わせると、浩司は黒い革の上着のポケットから、使い捨てカイロを二つ出した。以前の浩司なら、寒いと言うならバイクで来なければよかったと返しただろう。今日は封を切り、まだ温まっていないカイロを千鶴の手袋へ一つずつ押し込んだ。
「だから、厚着をしろと言っただろう」
「これ以上着たら、後ろの座席へ上がれません」
「途中の休憩所で、薄い上着を一枚脱いでいただろう」
「あれは、あなたが買ったバイク用の防寒着です。重くて肩が凝ったの」
「八十二万円の時計よりは、役に立つぞ」
「それと比べるの?」
千鶴が笑うと、浩司は袖口を引いて時計を隠した。あの銀色の時計は売らずに持っているが、最初のように見せびらかすことはなくなった。バイクを買う前に、夫婦の老後資金と住宅修繕費を別の口座へ移し、毎月使える金額も決めていた。
浩司は若いころに、当時の中型自動二輪免許を取得していた。結婚後も免許を手放さず、休日には所有していたホンダのCB400へ時折乗っていた。子どもが生まれ、親の介護が始まってから乗る回数は減ったが、免許歴は三十年以上あった。
定年後、浩司は大型自動二輪免許を取り、長く憧れていたハーレーダビッドソンを購入した。大型車の重さと低速での扱いには苦労したが、二輪車そのものの初心者ではなかった。千鶴を後ろへ乗せる前には、二人乗りの条件と通行できる経路を自分で調べ、荷物を積んだ状態で何度も練習した。
「CB400に乗っていたころは、こんなに慎重ではなかったでしょう」
千鶴は花畑の脇に止めたハーレーを見た。黒い車体は冬の日を反射し、タンクには金盞花の橙色が小さく映っている。エンジンを止めてから時間がたっているのに、ウーファーを利かせたような重低音が、まだ腹の奥へ残っていた。
「一人で乗るのと、お前を乗せるのでは違う」
「私が重いから?」
「そういう意味ではない」
「では、どんな意味?」
「転んだら二人分だから、慎重になる」
「最初から、そう言えばいいのに」
「今、言っただろう」
二人は離婚しなかった。食事、洗濯、通院、旅行の準備は、それぞれが自分ですることにした。冷蔵庫には今も赤と青の保存容器が並び、共用の味噌には、買った日を書いた小さな紙が貼られている。
浩司は最初の三か月で、シャツを二枚縮ませ、味噌汁を四回煮立たせた。病院へ診察券を忘れ、受付から家へ戻ったこともある。千鶴は何も言わず、その間に読書会へ通い、琴を八小節まで弾けるようになった。
普通二輪の教習にも通い始めた。最初の日にはバイクを押しただけで息が上がり、二度目には車体を倒して一人で起こせなかった。それでも教官から手順を教わり、三度目には腰を入れて起こすところまでできた。
大型免許まで進めるかは、まだ分からない。普通二輪の教習も、人より時間がかかっている。しかし、できるかどうかを決めるのは、浩司の笑い声ではなく、自分の身体と教官の判断になった。
「千鶴、あそこに金盞花があるぞ」
浩司は橙色の花を指さした。名前を書いた立札が、すぐ横の畝に立っている。千鶴は立札と浩司の顔を交互に見た。
「札を読んだでしょう」
「読んだ。それでも、覚えたことには違いない」
「では、あの白い花は?」
「水仙」
「その隣は?」
「ストック」
「紫は?」
「パンジー」
「小さいほうはビオラです」
「花にも、大きいのと小さいのがあるのか」
「人間と同じですよ。似ていても、よく見れば違うの」
浩司は膝を曲げ、紫色のビオラをのぞき込んだ。革のパンツが動きにくいのか、立ち上がるときには小さく声を出した。千鶴は手を貸さず、浩司が自分で立つのを待った。
千鶴がこの旅行を承諾したのは、浩司から謝罪の手紙を受け取って半年後だった。手紙には、会社での立場を失うことが怖く、自分を大きく見せるために妻を小さくしたと書かれていた。房総へ一緒に行きたいともあったが、返事を求めないという言葉も添えられていた。
千鶴はすぐには返事をしなかった。春は教習所、夏は邦楽サークル、秋は読書会で予定が埋まっていた。浩司も一人で旅行し、帰宅しても食事や風呂を要求しなくなった。
冬になったころ、浩司が自分で味噌汁を作った。出汁は薄く、大根は厚さがばらばらで、油揚げは一枚のまま鍋へ入っていた。千鶴は一口飲み、塩辛いと正直に言った。
「房総へ行くなら、二月がいいです」
千鶴が言うと、浩司は味噌汁の鍋を持ったまま振り返った。火を消していなかったため、千鶴は顎でコンロを示した。浩司は慌てて火を止め、濡れた鍋つかみを作業台へ置いた。
「俺と?」
「ほかに誰がいるの?」
「バイクでいいのか」
「途中で寒くなったら、すぐ休憩してください」
「分かった」
「宿は、あなたが予約してください」
「風呂つきの部屋がいいか?」
「高くなるなら、普通の部屋で十分です」
「食事は海鮮丼でいいな」
「房総まで行って、夕食が丼だけ?」
「では、宿へ聞いてみる」
浩司は翌日、自分で宿を予約した。薬、保険証、充電器も自分の鞄へ入れ、出発前夜には一覧表を見ながら指さし確認をした。千鶴は自分の着替えと琴爪を入れた小箱だけを用意した。
「旅行に琴爪が必要なのか」
「宿で弾くわけではありません。高価なものではないけれど、置いていくと心配なの」
「では、自分の鞄へ入れておけよ。俺は預からないぞ」
「ええ。そのつもりです」
小旅行の当日、浩司はハーレーを家の前へ出した。エンジンをかけると、ウーファーを利かせたような低い音が、早朝の住宅街へ響いた。千鶴は慌てて浩司の肩を叩き、すぐ出発するよう急かした。
「近所迷惑です」
「これがハーレーの音だ」
「説明している間もうるさいの。早く出て」
「はいはい」
「返事は一回でいいです」
房総へ向かう途中、二人は三度休憩した。浩司は以前なら一気に走りたがったが、千鶴の手が冷えていないかを確かめ、温かい缶のミルクティーを買った。自分には無糖のコーヒーを選び、千鶴の甘い飲み物を砂糖水とは呼ばなかった。
千倉の花畑を歩き始めて二十分もすると、二人の足先まで冷えてきた。海鮮丼を楽しみにして来たはずなのに、千鶴の頭には土鍋から立つ湯気ばかり浮かんだ。白菜、春菊、豆腐、鶏肉を煮て、橙を搾ったポン酢で食べたかった。
「海鮮丼より、鍋が食べたくなりました」
「俺もだ。身体が冷えた」
「宿の夕食は?」
「海鮮料理だ。鍋がつくかどうかは聞かなかった」
「そこまで私に聞かないで予約したの?」
「自分で予約しろと言ったのは、千鶴だろう」
「そうでした」
二人は顔を見合わせ、花畑を早々に退散することにした。全部の花を見なければ来た意味がないとは、どちらも言わなかった。金盞花を一束買い、新聞紙へ包んでもらってから、再びヘルメットをかぶった。
宿へ着くと、玄関には水仙が生けられ、畳には新しい藺草の匂いが残っていた。仲居は家族風呂を借りられると説明し、空いている時間を書いた札を見せた。浩司と千鶴は、しばらく札を眺めた。
「どうする?」
浩司は千鶴へ尋ねた。以前なら勝手に予約するか、家族風呂へ入るのが夫婦の普通だと言っただろう。千鶴は冷えた手を袖の中へ入れ、自分がどうしたいかを考えた。
「今日は、一人でゆっくり入りたいです」
「分かった。俺も大浴場へ行く」
「家族風呂でなくても、いいの?」
「一緒にここまで来ただろう。それで十分だ」
浩司は自分の浴衣とタオルを持ち、大浴場へ向かった。千鶴も部屋の鍵を確認し、女湯へ向かった。廊下の窓からは、冬の海と傾き始めた日が見えた。
湯へ肩までつかると、冷えていた指先が少しずつ熱くなった。バイクから降りて時間がたっているのに、ウーファーを利かせたようなエンジン音が、まだ腹の奥へ響いている。千鶴は濡らした手拭いを頭へ載せ、曇った窓の向こうにある海を見た。
夕食には、刺身、金目鯛の煮つけ、なめろう、伊勢海老の味噌汁が並んだ。小さな土鍋には、鰤、白菜、春菊、長葱が入り、蓋の隙間から白い湯気が立っている。千鶴は仲居が火をつけるのを見て、両手を土鍋へ近づけた。
「鍋がありました」
「予約した俺の手柄だな」
「確認していなかったでしょう」
「結果がよければいいんだ」
「そういうところは、変わりませんね」
浩司は笑い、自分の猪口へ酒を注いだ。千鶴にも勧めたが、彼女は今夜は梅酒を一杯だけ飲むと言った。浩司は無理に注がず、徳利を自分の膳へ戻した。
「千鶴」
「何ですか」
「来てくれて、ありがとう」
「私も来たかったから来たのです」
「そうか」
「ええ。一年前から、ずっと」
浩司は猪口を持ったまま、土鍋の蓋を見た。すぐには謝罪も言い訳も重ねなかった。鍋が煮える音と、窓の外から届く海鳴りが、二人の間を埋めた。
「次は、どこへ行く?」
浩司が尋ねると、千鶴は春菊を鍋へ沈めた。以前なら浩司の好みに合う場所を先に考えただろう。今度は、自分が見たいものを思い浮かべた。
「円乗寺へ行きたいです」
「八百屋お七の墓だったか」
「覚えていたの?」
「お前が好きだと言ったものを、一つくらいは覚える」
「バイクで行く距離ではありませんよ」
「では、電車で行こう」
「今度は日帰りですね」
「帰りに、蕪蒸しのうまい店を探すか」
「蕪蒸しは、私が作ったほうがおいしいです」
「作ってくれるのか」
「私が食べたい日に、二人分作ってもいいと思えたら」
浩司は分かったと答え、自分で鍋から鰤と白菜を取った。千鶴の器が空いていても、勝手によそわなかった。千鶴は自分の箸で春菊と豆腐を取り、橙の香るポン酢へつけた。
窓の外では海鳴りが続いていた。部屋の隅には、千鶴が買った金盞花が新聞紙に包まれ、橙色の花をのぞかせている。浩司は酒を一口飲み、千鶴は温かい鍋の豆腐へ息を吹きかけた。
「次の旅行は、電車にしましょう」
千鶴が言うと、浩司はすぐに頷いた。土鍋では二人分の出汁が煮立ち、開いた窓の向こうから、低い海鳴りが聞こえていた。




