365日
別れの言葉はなかった。
「行ってきます」
玄関前には両親が立っていた。二人は笑っている。目には少しだけ涙を浮かべているけれど、別れを惜しむ言葉は口にしなかった。階段の上には妹がいるが、玄関先まで来るのは恥ずかしいのだろう。最後まで釣れないその態度に笑ってしまった。
「机の上に日記帳があるの。明日になったら見て」
「分かった」
「もう伝える事がないわ」
私は笑う。両親は何も言わなかった。手を広げ母を抱きしめた、その手は震えている。当たり前だ。これで会うのは最期なのだから。
「早く行けば」
「絵梨香!」
階段上の妹が愚痴を零す。私は彼女を見上げた。
「ねえ絵梨香」
「…なに」
「私ね、叶えたかった夢があるの」
素直じゃなくて、正反対で苦手だった妹だが、今は、その全てが愛おしい。だから、叶えられなかった願いは彼女に託そうと思う。
「私ね、お嫁さんになりたかった」
私は目を細める。妹の涙が眩しくて堪らなくて、叶いもしない自分の願いを押し付けた姉の事を、ずっと忘れないで欲しいと願った。
「だから、その願いは絵梨香が叶えてね」
父と母の嗚咽が聞こえた。家族全員が泣いているのに、私は何故か笑っていた。
ああ、別れとはこういうものか。旅立つ側は、思ったよりも冷静で、見送る側はいつだって辛いのか。君の死を見送った時、私も同じように涙を流すのだろうか。こんなにも勝手な選択をした娘の意志を尊重してくれてありがとうと何度でも口にした。最期に、自由に選ばせてくれてありがとう。愛する人の傍で終わらせたいという、浅はかで酔った馬鹿みたいな恋心を受け入れてくれてありがとう。
再び玄関先で、扉を開け振り返った。暖かな春の日差しと温かな愛に溢れた涙が眩しくて仕方なかった。
「今までありがとうございました」
深く頭を下げる。そして顔を上げ、きっと人生で一番の笑顔で笑ったのだろう。
「私、愛されて幸せだったわ」
ゆっくりと、門がしまった。
小さな鞄の中に荷物を詰めて家を出た。灰色の景色は輝いていて、世界で一番綺麗な日だ。今日が最期の日だからではない、きっと君の産まれた日だからだ。十八年前の今日も、こんな風に世界は輝いていたのだろう。悲しい気持ちなんてどこにも感じさせないような、そんな日だ。君の、君だけの特別な一日だ。
午前九時三十分。君の家のインターホンを鳴らす前に、ポケットに入れていたバレッタを取り出した。
「危ない…着け忘れる所だったわ…」
耳元にバレッタを留める。携帯の画面を鏡代わりに何度か確認をして咳ばらいをした。
「よし」
深呼吸をしてインターホンを押せば、中からドタバタと音が聞こえてきた。きっと君が急いで降りてくる音だ。開けた瞬間、どんな顔をして立っていようか。これが最期のおはようだから。口にせずとも、君の目に入る最期のおはようだから笑顔でいよう。いつものように、いつも以上に、悟られてしまわぬように。君を愛してやまない私でいよう。
「はい」
玄関を開く。私は満面の笑みを浮かべた。
「おはよう」
「おはよう」
「ちょっと早かったかしら」
「全然。今日は起きたの早かったから」
「なら良かった」
そう言って家の中に入った。平然な振りをして、死の恐怖に負けないように。君は白いシャツを着ていて安心するのだろうと思った。
「お誕生日おめでとう」
私はすぐに片手に持っていた白い箱を渡す。
「ありがとう、なにこれプレゼント?」
「ええ、そうよ」
「緋奈俺が明日死ぬって事分かっててプレゼント渡すの?」
「そう言うと思ったから物じゃないわ、ケーキよ」
箱を渡して得意げに笑う。きっとそう言うと思っていたから、君に残るものは渡して来なかった。死という言葉を冗談で言って笑い合う。これは恐怖からの逃げだ。それでも、今、この瞬間だけでも心が軽くなるのならそれで充分だった。
『最期まで、笑っていよう』
二人でした秘密の約束は守られたままだ。君が死ぬのを見届けてから死ぬ私にも、この約束は有効化している。
「そういえば、先生は何て言ってた?」
「ああ、明日朝七時に来るって言ってたわ。そこで蒼也くんが死んでても死んでなくとも迎えには来るそうよ」
「そっか。もし死んでたらどうしよう、俺解剖とかされちゃうかな」
「あり得るわね」
「真顔で言うなよ」
何て嘘をつきながらケーキを眺める。
「頑張って作ったの」
「え、緋奈料理出来たの?」
「失礼ね。苦手だけど人間やれば出来るものよ。分量と手順さえ間違えなければ後は実験みたいなものだもの」
「え、何その言い方。怖いんだけど」
クリームを塗るセンスは微塵も無かったけれど、これが私にできる最高傑作だった。
「冷蔵庫に入れときましょう、空けても平気かしら?」
「ああ、うんどうぞ」
「蒼也くん、今日はどこに行きたいとかある?泊まる事以外に決めてないから、何かあったら聞くわ」
最後だから、君の全ての我儘を聞いてあげたかった。私は沢山もらってきたから、お返しになんてなるはずもない。けれど、今日くらいは幸せな気持ちのままでいて欲しかった。
「別にないな。緋奈はある?」
「今日は蒼也くんの誕生日でしょう?私の意見は聞かなくていいわ」
「えー、俺特にやりたい事とか無いんだけど」
ソファーに座り悩む君に、私は背後からその肩を抱きしめる。
「…本当に無いの?」
君は私の手を包み込んで考え込む。
「強いて言うならつい数日前も行ったけど、水縹公園で桜を見るとか?」
「良いわねそれ。お花見って感じで」
「あ、夜ご飯はせっかくケーキ作って来てくれたから家で食べたいかな」
「何作る?」
「え、緋奈が作るの?大丈夫?」
「どういう意味かしら」
回していた腕で君の首を軽く絞める。君は痛がる振りを見せただけだった。
「すみません」
「分かれば良いわ」
緩くなった手でで君の両頬をつねる。抵抗してきた君が、後ろ手で私の頬を軽く引っ張った。
「食べたいものねえ…緋奈が作れるものは?」
「…オムライスなら」
「じゃあ今日はオムライスにしよう。昼は弁当でも作って公園で食べよう。それでいいや」
「もっと、こう、欲深くなっても良いと思うのだけど」
「…もう充分叶えさせてもらったから」
その言葉を聞かない振りをした。覗き込んでくる君は私の頬を掴んで、唇を重ねてくる。私は笑ってその愛を受け入れる。もう一度重なった唇に目を閉じた。
正午の水縹公園に、人影は少なかった。新学期が始まるこの季節だからだろう。小さな子供と母親が二組、ベンチに座り話をしているだけでその他に人はいない。数分経てばその人達もどこかに消えてしまった。多分、お昼時だから家に帰ったのだろう。この公園には私達しかいなくなった。
ひと際大きな桜の木の下にシートを敷いて、二人で座り込む。春の暖かな日差しが、木漏れ日の中、降り注いだ。君は目を細めて世界を見ていた。私もそれを真似て世界を見つめる。灰色だ。私達の世界はほとんど同じなのだろう。無彩色に彩られた世界で、それでも綺麗に見えるのは隣にいる人のおかげだ。
灰色の空。私のワンピース。降り注ぐ花びら。世界を支配するはずだった薄桃色。大好きだったその髪の色。睫毛の色。何度も悲しみを乗り越えたその目。
『貴方は私が自分を救ってくれたと言うけれど、私には貴方が私の世界を救ってくれた人なのよ』
一生言うつもりのない言葉が思い浮かんで口を閉じた。これからさようならをするのに、こんな言葉を言ったらもし次があっても会えないかもしれない。
「暖かいわね」
誤魔化すように当たり障りのない話題を振る。君の視線は桜を見たまま動かなかった。
「もう大分散ったかな」
「そうね。でも今年は桜流しは見れなかったわ」
「好きなの?」
「ええ。悲しい気持ちになるけど、何だか切なくて私は好き」
「そっか」
九年前、母に教えてもらった言葉がこんなにも大切な言葉になるとは思いもしなかった。
「散っててほしかった?」
「どうかしら…全部が全部散ってしまうとそれはそれで悲しいじゃない?」
「まあ確かにね」
「そしたら終わりだから。今はまだ見たくない」
今日雨が降ったら、桜は全て散ってしまうだろう。私達の生命と同じように。
私はバスケットを開けて食事の準備を始めた。サンドイッチさえまともに作れない自分に苦笑する。どうか私と正反対でどこか似ている妹が、同じような料理下手でありませんようにと願った。
あっという間になくなってしまったサンドイッチの中に、ひとひらの花びらが落ちていく。綺麗だなと思った。出来る事なら持ち帰りたかったけれど、もうその時間は残されていない。
「え…」
「どうかしたの?」
突然聞こえた声に私は首を傾げる。君は何度か目を擦っていた。
「見間違いかも」
「何の?」
「今、バスケットの中に落ちた桜の花びらが一瞬、色が見えた気がした」
有り得ないなと笑う君に、私はある事を思い出す。けれどこれはどこまで言っていいものなのだろう。明日死ぬ人間に言った所で大差ないだろうと、少しだけ酷い事を思ってしまった。
「父から聞いた話なんだけど」
「うん」
「余命が幾ばくも無いマウスに専用の研究機械…まあ機械の説明は長くなるから省略するけど視界をリンクさせる機械でね、それに成功した時の事なんだけど…って聞いてる?」
「思いの外ガチのやつじゃん」
君が呆然としているから思わず笑ってしまった。
「話を続けるわ。それで成功したらしいけれど、そのマウスは無彩病だったみたいで。無彩病はどんな生物でもなりうる可能性を持っていて、そもそも根本から視界に色が無い虫とかもいる。蚊なんていい例ね。彼らは私達の体温を見る事により血を吸う事が出来るわ。それで、無彩病のマウスと視界が繋がった時、見えるはずの無い色が見えた時があったの」
「え…」
「もしかしたら死の手前になると色が戻るのかもしれない」
「何で、理由は分かってるの?」
「残念ながら。それが分かってたらこの病気は治ってるわ」
「ですよねー」
完治なんて出来ない。寿命を伸ばせるのは一日だけだ。
「緋奈先生的な考えは?」
「そうね…。最後の最期、神様が願いを叶えてくれるのかも」
「…その仮説良いね」
「でしょう?」
秀でたと思われていた一人の高校生が、自分が特別じゃないと知り、地に落ちて、最期まで愛した人の幸せを願ったのなら、それはきっとありふれた世界で、有り触れた終わりだとしても。
たった一つだけ、変える事が出来る。
少しよれたケーキは思いの外君に好評で、安心した私は誇らしい顔で笑って見せた。
午後9時30分。先に浴槽に入った君を待つために、リビングのソファーに座った。そう言えば、今日一度もスマートフォンを見ていなかった。正直、このまま電源を落としていても良かったのだが、思わず気になって画面を点けた。
沢山の着信があった。それは全部君と私の友人からだった。それだけで君が彼に話した事が分かった。だからこそ彼は私に電話してきたのだ。けれど、これ以上何を言っても変わらない。結末は既に決まっている。
『ありがとう。いつか、またどこかで』
どこかなんて有り得る訳がないのに、私はそれを送った。自分で自分を嘲笑って電源を落とす。
「ごめん先入って」
突然、頭の上に手が置かれて肩が跳ねる。振り向けばそこに君が立っていた。
「驚いたわ」
「悪い、気付いてなかったから」
髪をタオルで乱暴に拭く姿を見て立ち上がる。
「お風呂、私長いのだけれど大丈夫かしら」
「全然。髪だって乾かしたいだろ?ゆっくりで良いよ、あ、ドライヤーなら洗面台の所の二段目の棚に入ってるから」
「ありがとう、後気付いてると思うけど私着替え持ってきてないわ」
「…下着は?」
「それはさすがにあるわよ」
「…ちょっと待ってて」
はーいと笑いながら返事をする。君は二階に上がっていった。
「ずるいなあ…」
階段を駆け下りてきた君は溜息をついて着替えを渡してくる。
「…はい」
「ありがとう」
「俺部屋で待ってるわ」
「分かったわ、上に上がって来る時に下の電気は消してきた方がいい?」
「ああ、よろしく」
「了解」
小さく敬礼をして風呂場に駆けて行く。数時間前から降り出した雨が、窓の外、小さな雨音が鳴らしていた。服を脱ぎもせず、その場に立ち尽くす。
「桜は散るだろうな」
窓も見ずに呟いた。何度か頬を叩いて風呂に入る。
「ごめんなさい、お待たせ」
部屋に入れば君はベッドの上で窓の外を見ていた。
「仕様が家と違うからちょっと悪戦苦闘したわ」
「呼んでくれれば良かったのに」
「お風呂場に?」
「あーそっか確かに」
ぶかぶかのスウェットを着た私は、君の見ている窓際に立った。
「雨止まないね」
「そうだね」
「桜流しだ」
「言うと思った」
君も言うと思ったよ。嬉しくて振り向けば、眉尻を下げた笑顔が目に入った。何度胸をときめかせたか分からない。
べッドに腰掛けている君の隣に座る。
「何する?」
「とりあえず、緋奈に伝えたい事があるかな」
「なに?」
視線と視線が合う。逸らす気はなかった。
だって多分、これが最期だ。
「今までありがとう」
「唐突ね」
「いつだって思ってたよ。でも、真剣に言葉にするのが初めてだっただけだ」
「そう」
私もありがとう。隣にいてくれて。好きでいてくれて。
「起きたらさ」
「うん」
「ノートを数冊、机の上に置いてあるから見て。左から順番に。読みたくなかったら読まなくてもいいけど、いずれ緋奈の元に届くはずだから」
「じゃあ起きてから見た方がいいわ」
「よろしくお願いします」
「いいえ」
平然と、いつも通りを演じる。それでも身体の震えは止まらなかった。だって、まだ終わる事を信じたくはない。
「365日間、隣にいてくれて、誰よりも近くにいてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「おかげで楽しかった。生きてきた中で一番楽しかった」
これ以上はお互いに泣いてしまいそうだから、ベッドに倒れ込んで笑い合った。こうやっていれば、明日がくるかもしれない。震える手を、君は優しく握り返した。もうさよならだって分かっているのに、この手はまだ、君の熱を感じたままでいたい。
「一人にしないよ」
数時間だけ、一人にしちゃうけれど。
「それは心強い」
結末が変えられている事なんて分からないまま。
ああ、どうか、最期の時まで最愛の人の傍にいさせてください。言葉になることのないごめんねを飲み込んで、君は私の額に唇を落とす。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
私は静かに目を閉じた。
これは夢だろうか、君が私に触れている。色で溢れた世界で、優しく、私に触れている。
「寝る時まで着けるなよ」
だって嬉しかったんだもの。君から貰った初めてのプレゼントだった。
「…やっぱり君の色だよ、緋奈」
ねえ、それは何色だろう。私は世界中のどんな色でも、君が一番似合うと断言できるよ。
「桜は緋奈の色だ」
そうかな。私は君の色だと思う。だって君の髪に映える、空に映える、素敵な色だ。ああ、でも君には空が似合うから、私はその空を舞う桜でもいいかもしれない。手に温かな熱を感じた。その熱を求めて握り返す。
「愛してた…違うな、ずっと愛してる」
唇に、何かが触れた。




