366日
私達の恋愛にはタイムリミットがある。
これまでも、これからも。
初春の寒さにはまだ慣れず、これから先、慣れる事が出来ないままで終わるのだろう。幾度となく通った坂道を、明日から永遠に上る事が出来ない。春も夏も秋も冬も、君と一緒に上って、共に下った。その背中を何度だって眺めた通学路を踏みしめて、卒業する人間と同じような感傷に浸った。大嫌いだった学校が、こんなにも恋しくなれるなんて一年前の私には考えもつかないだろう。
終業式は滞りなく終わってしまった。
「お前ら、三年生になっても頑張れよ!!ちゃんと勉強するんだぞー!!特に矢田!!」
「うえぇー何で俺だけ名指しなのー」
担任の最後の言葉に、クラス中が笑っていた。かく言う私もその一人だった。当たり前に笑っているけれど、未来が確定されている彼らに少しだけ羨ましさを感じた。
さよならの挨拶が交わされて、クラスメイトの子達に囲まれ話をする。こんな事、一年前の私には信じられなかった光景で、これから先も一生見る事が出来ない光景だ。文化祭をきっかけに、私の周りには多くの人が集まるようになった。友人と呼べる人も沢山増えて、この先さようならをするのが惜しいくらい。
自分の席に座りこちらを眺めている君と目が合って笑う。そうすれば君は眉を下げて笑い手を振るからその意図が読めて少し切なくなった。
君は私の未来を疑いもなく信じている。
自分がいなくなっても大丈夫、沢山の人に囲まれて笑っているからと思っている顔だ。
「写真を撮ろうよ」
誰かが言い出した一言に皆が乗って、他のクラスの子に声をかけ写真を撮ってもらうお願いをしていた。
端っこにいようとしたのだけれど、前に行きなよと押されて何故か最前列の真ん中に連れて来られてしまった。
「蒼也ー来いよ!!」
隣にいた矢田くんが君を呼ぶ。
「こっちこっち」
私と同じように無理矢理前に連れて来られた君は、呆れと不安に満ちた顔だった。
「じゃあ撮るよー」
分かるよ、自分がここにいていいかって思ってるんでしょ。私も同じ事を思ってるよ。あと数十日で死ぬ私達が、こんな中心にいて笑っていていいのかって。だってこれは一生誰かの記憶に残る。辛い思いをする人だっているかもしれないし、嫌悪感を抱くかもしれない。
それでも。
「じゃあ行くよー、三、二」
ピースサインを構えるはずの君の手が宙に落ちていく。私はその手を持ち上げて、そして笑った。
「大丈夫」
一人ぼっちで消える訳じゃない。この写真を見て、君が悲しい思いを何年もするのなら私は影に徹するけれど、そんな未来は起きやしない。他の人の悲しみなんて関係ない。私達はここで終わるけれど、終わるからこそ、最期くらいは自分勝手にしても良いじゃないか。
シャッター音が鳴り響く。画面の中の私達は確かに笑っていた。
嘘をついている。でも、この気持ちには嘘一つない。例えるなら春の暖かな一日に注がれた、優しい太陽の光のように君を愛している。何十年経ってもばれる事のない嘘だからこそ罪悪感は最後まで残り続けるだろう。君の耳が最期に聞くのは私の声であって欲しい。最初は他の人にあげたんだから、最期くらい良いでしょう。私の声でその耳を、脳を、記憶を支配して、悲しむ事がないまま目を閉じて欲しい。愛されていたのだと、自覚してほしい。満たされたままであってほしい。悲しみを感じないでほしい。でも、きっとそれは無理な願いだ。
「綺麗ね」
363/365日。
春休みに入ってからというもの、私達は毎日の如く顔を合わせていた。桜舞う、あの公園で空に手を伸ばして世界を見つめた。
「そうだね」
綺麗だ。もう何も色付かない世界だけれど、それでもこの景色を、幼い頃の私が憶えている。目を閉じては再び開けて、あの日見た世界を思い出す。灰色になって分かりもしない色が、どれだけ綺麗だったのか。あの日の感動は、全部君が持って行ってしまった。母に買ってもらった淡い水色のワンピースは、いつまで君の視界に映り続けるのだろう。あと数日持ってくれるだろうか。今日の空は、このワンピースと同じ色だろうか。君の瞳には、鮮やかに映り続けるだろうか。
初めましての時と同じように、私はブランコに腰掛ける。君は笑って後ろに飛び乗った。まるであの日を追体験しているようだった。
「漕ぎまーす」
「はーい」
手を挙げて宣誓する君が、いつもよりずっと幼くて思わず口元を抑えて笑ってしまった。
「お嬢さん、どの高さまで行きますか?」
「そうですね、空に手が届くまで」
「それはもう飛行機に乗ってくださいよ」
「頑張ってくださいよ、お兄さん」
「生意気だなあ」
少しずつ加速し始めて世界が高くなる。桜が散って、秒速五センチメートルで落ちていく。
「あはは、高い高い」
「これ凄い疲れるんだけど」
「頑張ってください」
君を見上げた。光の眩しさに思わず目を細める。けれど、あの日のように君の髪色が光に透けてはいない。
「好きよ」
小さな声で呟いた。君には聞こえなかったようで、それで良かったのかもしれないと思ってしまった。
私が死ぬ前の、三日前の事だった。
日記を書く手が止まった。紅茶はもう冷めきっている。寝る前にこんなものを飲んだらトイレに行きたくなるからやめなさいと言われなくなったのはいつだろう。きっと、もう、思い出す事は出来ないのだろう。しかし、入れたはずの飲み物はすっかり冷めて、夜はもう明ける寸前だ。結局、一睡も出来なかった。所詮自分も人間なのだなと思う。あれだけ大口を叩いておきながら、本心では怖いのだ。
机の上には一つの小瓶が置かれていた。効くかどうかも分からない、けれどこれ以外縋る物などもう存在しなかった。父から渡された無彩病の治療薬だった。臨床実験もまだで、つい一週間前に開発されたばかりの試作品は、例え効果を発揮したとしても一日しか続かないだろうと言われた。一日もあるなら充分だと笑った自分の手は確かに震えていた。
君よりも先に死なないようにするための、人生最後の抵抗だ。
十年用の日記。半分も書き終えていないページ。背伸びして買った万年筆のペン先は、加え過ぎた力の影響で曲がってしまっている。
運命を恨んだ事はないけれど、無力な自分を恨んだ事は多々ある。君を救えない自分、嘘をつき続ける弱い自分、数えても数えきれないくらいだ。日記帳を閉じた。残せる言葉はもう、残したつもりだ。父へ、母へ、妹へ、友人達へ、君の両親やご家族へ、いつか、近い未来で無彩病にかかってしまった人達へ。君はこれを一生見る事がないから、溢れて止まらない想いは私の胸の中に仕舞っておこう。
太陽がゆっくりと昇って空が明るくなっていく。震える手で小瓶を掴んで、ゆっくりとその封を開けた。
きゅぽん。
何とも変わった音に笑ってしまった。緊張はどこかに飛んで行ってしまった。そして、意を決してそれを飲み干した。世界が灰色だった。目を開いて何度か瞬きをする。視界は良好。異常は特になし。ただ、喉の奥がジーンとした。
「成功…した…?」
漏れた声は情けなくて、口元が引き攣りながらも弧を浮かべる。思わず最後のページに書いてしまった。
実験成功。最後の一日は人体でも伸ばす事が可能だった。これが改良を続ければ、いつか、近い将来無彩病の治療薬になるだろう。必ず、無彩病は助かる病気にしてほしい。
「出来た」
死ぬと思われていた予定時刻はとうに過ぎている。それでもまだ、この心臓は脈を打っていた。
「出来たよ」
ああ、これがもっと早く私たちの元に届いていれば良かった。大切な人を救う術であって欲しかった。けれど今更何を言っても全てが遅いのだ。
「ねえ蒼也くん。必ず先には死なないから安心してね」
365/366日が今、始まった。




