私達の恋愛にはタイムリミットがある
変わった事がある。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
一、家を出る時、挨拶をするようになった。
「お母さん、手伝うわ」
二、前よりずっと、手伝いを積極的にするようになった。
「お帰りなさい」
三、父にお帰りなさいと言うようになった。
「ただいま」
返事に満足しながら、今日の晩御飯はなんだとか、そんな話をして食卓に向かう。共に席について、いただきますと口を揃えた後、今日あった他愛もない話をする。友達がこうだったとか、面白かっただとか、君があんな事をしたとか。母は微笑みながら私の話に頷く。時折、楽しそうだとか、素敵だとか口を挟みながら。父は何も言わない。少しだけ、ほんの少しだけ口角を上げながら私の話を聞いている。小さな相槌はとても嬉しそうで、私は今頃家族の大きさを知ったのだ。
煩くなくていい。声を張り上げる必要はない。けれど笑い声がこの空間を支配している安心と恐怖が入り混じっている。これは来年の今日まで続かない。分かっていると、幾度となく言い聞かせてきた。それでもまだ、私には想像がつかない。視界から色は奪い去られていくのに、心臓は変わらず規則的な動きを続ける。
もしも。そんな有り得ない妄想が現実にならないかと考えてしまって苦しい。もう一度、同じ日は過ごせないと自分に言い聞かせてきた。一年後、自分はもうここにおらず、灰と化して魂は消えている。意識はどこにも残されず、やがて自分が生きてきた形跡も消える。
これは、そういう物語なのだと言い聞かせる。
「もう一度、同じ日は来ないけれど。未来に夢見るのは自由だろ?」
驚いて顔を上げた。
258/365日。クリスマスイブの夜だった。世界は私達の見えない色で綺麗に彩られて、定番の音楽が鳴り続ける。君の家でクリスマスパーティーをした帰り道、不意に君が言った言葉に驚いて足を止めた。
「緋奈?」
君は不思議そうに私を見ている。
もしもの話が好きだった。もし、明日。世界が色付いたら。もし、君に会えたら。もし、未来が出来たら。
けれど、それは逃げ道として使っていただけで、自由に夢見るものではなかった。結末が分かっていたからこそ逃げようとした。妄想を吐き捨ててしまえば、一瞬でも心が楽になれる。これが現実だと、分からない振りを出来る。
弱い心から逃げ出したかった。
けれど今日の君は違っていた。緩やかに弧を描く口が、小さな皴を作った目尻が、こちらを真っ直ぐ見据える瞳がそれを教えてくれた。逃げるためではなく、ただ、純粋に未来を夢見ていた。来年も同じように笑っている、0%にも満たない未来の可能性を信じて切望している。それが訪れない事も理解した上で先を見つめていた。
「強いなあ」
零した言葉は聞こえなかったらしく、君はまた不思議そうに首を傾げた。
「何でもない」
微笑んで繋いだ手を強く握り締めた。君はそっかと言い再び歩き始める。一歩先を歩くその足取りは緩やかで、こちらに合わせてくれている事に気付いていたがあえて隣には並ばなかった。その事に不満を漏らすような人でもないだろう。
その背中を見るのが好きだった。広くて骨ばっていて、何処か悲しい君の背中を見る度温かい気持ちになって、切なくて苦しくて抱きしめたくなる。けれど腕を伸ばせば離せなくなってしまうから、時間のある時しか出来ない。
白い息が、町明かりに照らされて靄のように消えていく。あと何回、この背中を見る事が出来るのだろう。
靡く髪も、寒そうな耳も赤くなっているはずの鼻も、横顔も、あと何度この目に焼き付ける事が出来るのだろうか。
「そうだ緋奈これ」
ポケットから何かを取り出すその仕草が、誕生日の日と重なった。手の平に乗せられたのは、小さな石が付いたシルバーのネックレスだった。目を見開いて君を見れば、目を閉じて祈るようにネックレスの置かれた私の手を握り締めた。
「もし、俺が死んだ後、思い出すのさえ嫌になった時は捨てていいから」
震えながら渡されたそれに、私は笑ってしまった。言葉一つさえ言うのが苦しいくせに、こちらを見る事すら出来ないくせに、それでも伝えようとする君が愛しくて堪らなかった。
「おい待て。何で笑うんだよ」
だって君は知らないでしょう、私が置いて行かれるわけじゃない事を。いつかの未来で君を思い出し、微笑む事さえ出来ないまま死ぬのが、君の知らない私の終わりだ。
「内緒」
「はあ?」
冷たい手で私の頬を引っ張ってくる君は不服そうだったが、気にも留めない。
「捨てる訳ない。ずっとつけてる」
「学校でも?」
「初めて破る校則ね」
私が微笑めば君はいつものように溜息をついてまるで眩しい物を見たかのように目を細めるのだ。
「いつからこんなに悪い子になったんですか」
「蒼也くんのせいですかね」
「他人のせいかよ」
「そうだよ」
君が私を変えたから、こんなにも悪い子になったのも、愛情深くなれたのも全部君のおかげで君のせいだ。
変化が沢山あり過ぎて、数える事さえ億劫になってしまった。それでも、全部覚えている。忘れるわけがない。忘れられもしないのだ。
「行ってきます」
真っ暗闇の中、白い息を吐いて家を出た。高い空に星が輝いていて、煙のように息が舞い上がり消えていく。寒空の下、車の行き交う音は一つも聞こえない。空を見上げながら前を歩いた。耳と鼻が痛くなってマフラーを口元まで上げた。君と会うまでは、少しだけはしたないままでいさせてほしい。それ程までに、今日という日は寒かった。かじかむ手に息を吹きかけ、さすりながら早足で目的地に向かう。時折すれ違う人々は楽しそうで、皆が同じ場所に向かっていく。私も同様、その人達に付いて行けば長い階段が見えた。それを見て顔を歪めたのは言うまでもないだろう。
元々、運動は出来ない方だった。体力なんてほとんど無いに等しい。私にとっては学校の階段でも辛いのに、頂上が見えないこの階段を上り切れるだろうか心配になる。
君からの連絡はまだ入っていなかった。時計を見れば私が随分早くついてしまったらしい。これは上で待ってるのが正解だろう。その段差をしっかり踏んだ。
「辛かった…」
境内に辿り着くまでの長い階段を命からがらで上り切って、寒かったはずの体温は上がっていた。乱れた髪と呼吸を整えて、マフラーを少し下げる。手鏡を見て何度か笑う練習をする。耳元に輝くバレッタをそっと撫でて手鏡をバッグの中に戻した。再び深呼吸をして目を開く。不意に、愛しい人の声が聞こえた。
「緋奈」
振り返ると君が笑っているから、私もつられて笑ってしまった。
「蒼也くん、こんばんは」
その後ろ、元気よく階段を駆けあがってきた二人を見て私は笑ってしまった。
「流石」
「あ、緋奈ー!」
私が死にそうになりながら駆けあがった階段は、二人にとっては朝飯前らしい。君も息すら上がっていないから、私は相変わらずひ弱だなと思ってしまった。
「こんばんは、矢田くん、里香ちゃん」
「今日も可愛いねー緋奈」
「本当本当、どっかのゴリラとは違って」
「おい誰の事言ってんだお前」
「お前の事に決まってんだろ浅田」
「今年中に殺してやろうか」
喧嘩を始めてしまった二人を見て、私達は目を合わせ呆れた。あと十分で今日が終わる。そして、私達が死ぬ年になる。
鐘の音が響き渡った。大きなその音に思わず身体を震わせながらも、見ている視線だけは変えなかった。
「いやー今年になっちゃいましたね」
「大して変わらないだろ」
「馬鹿だな矢田。こういうのは気分よ!ねえ緋奈?」
「そうかも」
たった数秒で世界が変わるなんて馬鹿みたいだ。暦上で決められただけの日付、それがもたらす効果、身体には何も影響すらでないのが年越しだ。物心ついた時から今まで、ずっとそう思っていた。
けれど、今日だけは違った。
パチンと、鼓膜の奥で、何かが鳴り響いた。それが何かは分からなかった。周りを見渡してみても皆何の反応も無い。私だけが聞こえた音なのだろうか。不思議に思えば隣で君が手を何度も握っては開いてを繰り返している。
「どうかしたの?」
「何でもないよ」
君は目を閉じた。それだけで気が付いてしまったのだ、この音が何を示していたか。空が見えない。世界の色がまた灰色に占拠されていた。君は気が付いている。もう私のコートの色さえ見えていない事に。
265日目だった。残り100日しか残っていないこの命が、この視界が何を与えてくれるかなんて分かっていた。だからこそ、新年早々これは辛かったのかもしれない。
奪われる。君の髪の色、君の肌の色、君の目の色、君の着ているコートの色、背負う鞄の色、熱を帯びた視線、真っ赤に染まっていたはずの頬の色、思い出から全ての色彩が不条理に奪われていく。
「ははっ」
突然声を上げ、空を仰ぎ笑う君を見て、私も同じように空を仰いだ。
「おい蒼也いきなりどうした」
ああ、そうか。
「ごめんごめん」
ここももう、灰色だ。
私が知っている君は、いつも空ばかりを眺めていた。何をするわけでもなく、いつも、どんな時間も、色鮮やかに色を変える空を飽きずに見ていた。
見えないのだ。もう分からないのだ。
私達はあと百日も経たずに死ぬだろう。いいや、死ぬ。これは決定事項だ。逃れる事のない結末は、絶望しか与えてくれない。
君の乾いた笑いは止まらない。きっとショックなのだ。私が君の髪色を眺めていたのと同じように、君は空を眺めていたから、君にとって、空は唯一見える大きな存在だった。次に君が見る事が出来る空は、穏やかな嵐の後の静けさを持つ朝焼けだけだろう。そう思うと何だかやるせなくなって、私は視線を空から逸らした。
「俺そんなに記憶力悪かったかなあ…」
弱々しく呟かれた言葉は、私の耳にだけ届いた。強く握られた左手。震えるその手は、どちらのものだったのだろう。
「…悪くないはずよ」
私はその手を握り返す。残された時間が、やけに鮮明になった。
チャリン。他よりも大きな音が聞こえた。隣にいた君が出した音だった。手の平にあった金色の硬貨は消えている。他の人よりも大きな硬貨を入れ、目を閉じ祈る君の姿を見てどうしても悲しくなるのは、願っている事が分かったからだろう。
同じように私も君とは違う銅色の硬貨を投げ入れる。だって願いはもう無かった。君が幸せでありますようにも、笑っていられますようにも、何もかも、意味がない願いだった。流石の神様も、後数か月で死ぬ私達の願いを、聞き入れるくらいの懐はないだろう。
だから、何も願わなかった。たった一人、手を合わせ願い事を唱える振りをする。叶うはずもない事を繰り返せるほど、楽観的ではなかった。
目を開けばいつの間にか君が終わっていたらしく、私達の視線はぶつかった。
「終わった?」
「ええ」
最初から願い事なんてしていなかったもの。ただこの後、私が最期まで君の隣にいるっていう決意表明をしようとしていただけ。そんな事など言えなくて、私は君に駆け寄った。
「緋奈、随分長かったね」
「そうかしら?」
「うん、里香なんて十秒で終わったよ」
「いや、それは早すぎだから」
一足先にはけていた二人の願いは思ったよりも短かったみたいだ。何を願ったのかは想像しやすい。
「何かさ、最近蒼也よく笑うようになったよな」
「そうか?」
「そうだよ、前まではそんなに笑わなかった。いっつも俺らの事小馬鹿にしてるだけだったろ」
「あ、大丈夫。それはいつも」
「おい」
私は思わず笑う。君は彼といる時、とても楽しそうにしている。冷たい言葉を放つくせに、彼の事が大好きなのだ。
「彼女効果だよ矢田」
「はい出たーそういう惚気」
「誰も惚気てないだろうが」
三人の会話を一歩離れた所から見守る。会話に入れないわけではないそうするのが好きになっただけだ。二人の間にいる君は、私と一緒にいる時とは違い、少し気怠そうだった。その姿が新鮮で見るのが大好きだった。
「それじゃあお開きだな」
「おう」
「蒼也ーあんたちゃんと緋奈送りなさいよ!!」
「送るに決まってるだろ!!」
「じゃあ、またね、おやすみなさい。里香ちゃん、矢田くん」
手を振りながら歩く二人が曲がり角で姿を消す。それでも二人の声が聞こえたから、多分また言い合いでもしてるのだろう。
「相変わらず賑やかだったわ」
「いつも通りうるさかったな」
「でも嬉しそうだったわ」
「そう…楽しかったよ」
二人とは反対の方向に私達も歩き出す。
「そういえば、随分と祈ってる時間長かったけど、何そんなに願ってたの?」
「蒼也くん…願い事は口にしたら叶わなくなると言う事をご存じ?」
「あー聞いた事ある気がする」
「じゃあ蒼也くんが教えてくれたら教えるわ」
「おま…今口にするなって言ったのに…」
「ふふ、内緒、絶対教えないわ」
なんて。
私はまた、君に嘘をつく。不意に君の足が止まった気がして顔を見上げる。けれど、それは気のせいだったようだ。
「蒼也くん?」
「何でもない、行こう」
握られた手は温かい。このまま永遠にどこかに消えられたらいいのになんて、そんな馬鹿げた想像を思い付いては掻き消した。
私達の恋愛にはタイムリミットがある。




