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願いは届かない



反射した水が影を作る。薄暗い闇の中、ただ一つ光る色は君が最期に失う色だ。


「綺麗ね」


純粋にそう思ったのだ。視界の大半が灰色だとしても、この空間が不思議なくらい美しいのは、きっと君がいるからだとか、そんな簡単な理由でない事は自分でも理解していた。純粋に。そう、純粋に。心から美しいと思ったのだ。


どこに行きたい?

問われたのは一週間前の事だった。別に君と居るならどこだって特別な所になるのだけれど、それでもどこが良いと言われて迷った果てに出した案は水族館だった。一面青で埋め尽くされた世界は小学生以来だった。


「何か意外」


「何が?」


新鮮で楽しくて、水槽から水槽へ駆ける私を君は後ろから見守っていた。


「いや、子供みたいにはしゃいでいるから」


「いくつになっても、楽しいものは楽しいわ」


「でもそんなに走り回るか?」


君が私を見て笑うものだから、少々腹が立って肩を軽く叩いた。


「久しぶりだったの」


「いつ振り?」


「小学生以来」


最後に行った時、水槽を眺めていた私は置いてけぼりを食らった。走り回る妹を追いかけて父と母が気付かず先に行ってしまったのだ。顔を上げた時、そこには誰もいなくて、怖くて怖くて堪らなかったのと同時に、所詮自分はこの程度なのかとも思ってしまった。気付かれず一人ぼっちで、小さな絶望と不安の中、ようやく見つけた両親に駆け寄った時、怒られた事を思い出す。どこに行ってた、どうして面倒をかけるんだ。そう言われた時、居なくなったのはそっちだろうと声を上げたかったが、言ったって何も変わる事はないと分かっていた私は大人しく説教を食らった。


多分、そこが自分の存在価値を考え始めた瞬間だったのだろう。


「綺麗」


「そうだね」


「あんな風に、好きに泳げたらって思ってる?」


「うわ、図星なんだけど。何で分かった?」


「私も同じ事考えていたから」


子供の時に何度も考えた、もしもの話が好きだった。何だかんだで私は空想主義者なのかもしれない。人は夢がなければ生きていけないと思っているからだ。夢は希望に似ていて、不安定で確定されない未来で、絶対に叶わない現実だ。

もし、明日、羽が生えて空が飛べたら、きっとどこまでも自由に飛べるはずだ。もし、水の中で呼吸が出来るようになったら、あの海の果てまで泳げるはずだ。


「って考えた事無い?」


「ああ、あるかも」


「もしかしたら、今日、隕石が落ちて世界が終わるかもしれない」


「物騒だな」


「明日、目が覚めたら今までの事が全部嘘で、当たり前の日常があって、とか」


指先で水槽のガラスをなぞる。その中で泳ぐ魚たちは、まるでエデンの園にいるアダムとイブだ。ここが世界の全てで、食料が与えられ、寵愛され、何の苦労もないまま果てていく。けれど、それが自由ではない事を、私はよく知っている。


「よく考えるの。まあ、考えた所で何も変わらないし起きても今日が待ってるだけなんだけど」


「気持ちは分かるよ」


「そう?」


「うん」


人間だってそうだ。自由という名を称した拘束を科せられている。感情があるから、人は自由になれない。しかし感情がないと、誰かを縛る事は出来ない。


「次、あれ見に行きたいの」


「はいはい」


ひと際暗いスペースにクラゲが浮いている。ライトの色で角度を変え、見る者を魅了するこの白い生物が好きだった。


「え、クラゲなの?」


「おかしい?」


「いや、普通はペンギンとかイルカとかじゃん」


「じゃあ私は普通じゃないのね」


なるほど、妙に納得してしまった。確かに君の彼女を務めるような人間なのだ。普通ではないだろう。


「どこが好きなの?」


「そうね…、まるで漂っているみたいに泳いでいるの。何か儚いけど綺麗な所」


「緋奈に似てるよ」


「そうかしら?」


そんな事を言われたのは初めてだった。ゆらゆらと、ふわふわと、無重力の中を漂っているかのようなクラゲに似ているだろうか。こんなにも自由な生き物ではないと思ってしまうのは私だけだろうか。


「うん。掴めそうで掴めない、ここにいるのにいないような気になる」


「私、そんなに掴み所無いかしら」


「無いよ。少なくとも付き合う前までは一つもないと思ってた」


「付き合ってからは?」


そうだな、と君は唸る。


「最初は何考えてるのか分からなかった」


「心外だわ」


「最後まで聞こうよ」


嘘。そうであって良かった。考えが読めてしまったら、私達の恋は終わってしまうかもしれない。


「今も何考えてるのか分からない時はあるよ。でも、友達想いだし意外と正直だし掴み所が無いのは確かだけど、何か悩んでてそれを言いたくないとか、そういうのは分かるようになったかな」


「人の事良く見てるのね」


「いや、彼女をよく見てないのはまずいでしょ」


「確かに、その通りだわ」


頬が緩む感覚がした。見つからないパズルのピースがようやくはまった時のような感覚に陥って、どうしようもないくらいの愛おしさが心の奥底から溢れた。ああ、ここにいた。


「いきなり何だよ」


「ううん。私幸せ者だなと思っただけ」


私がいなくなっても気が付いてくれる人がいた。


「ちゃんと見てくれてる人がいるのは、とても幸せ者だわ」


「どっちが感謝してるのか分からないな」


「何か言った?」


君は無言で私の肩を引き寄せた。本当は聞こえていたけれど、聞こえない振りをした。

感謝しているのはどっちだろう。愛しているのはどっちだろう。そんな事を考えても、結論が出ないのは明白だった。


不意に後ろから肩を抱かれた。肩口に重力がかかって、それが君の頭だと分かるまで時間はかからなかった。水槽に写る私達は灰色で、微かに震える息に、私は気が付かない振りをする。


「綺麗だね」


「うん」


「見えてないのに?」


「うん」


これは自分に対しての皮肉だった。綺麗なわけがないだろう。ほとんどが灰色に染まった世界で、私の瞳に映る世界が綺麗だったら私の脳はどうかしているなんて、少し前の自分だったらそう言っていたかもしれない。けれど、今だけは綺麗だった。君がいるから、私の世界は色付いて見える。


そうね。と言った。君の涙も、その髪の色でさえ、灰色であるのに美しく見えるのだから。きっとこの水槽は綺麗なのだ。漂うクラゲは色鮮やかに姿を変えているだろう。例え、残り少ない命だろうと私達は今ここにいる。この水槽に写って、涙を流している。笑っている。憂いている。それがこんなにも安心するなんて、思いもしなかった。


生きているのだ。昨日も今日も、例え終わりが決まっていても、生きて心臓を動かしているのだ。



「それでね」


「うん」


水族館を出れば外はとても寒く、いかにあの空間が暖かな世界であったのかがよく分かった。何気ない話を繰り返して歩く。ああ、幸せだ。きっと最期に思い出すのは、鮮烈な出会いでもなく、キスをした教室でもなく、想いが通じ合った夜の事でもなく、こういった何もないただの幸せな日常なのかもしれない。

今私をここに繋ぎ止めているのが君で、今君をここに繋ぎ止めているのが私で、だからこそ、近づく気配に気づけなかった。


視線の先、目が合った男性を見て、私は血の気が引いた。繋いでいた手を離して、思わず足を止めてしまう。


「緋奈?」


その先の人物は、驚いた顔でこちらを見つめていた。


「お父さん…」


「先生…」


声が重なった。


視界の端、君の表情が固まるのが分かる。止まらない冷や汗と恐怖、出会ってはいけないものに出会ってしまった事、ばれてはいけない繋がりに気が付かれてしまった事、嘘が、暴かれる瞬間だった。


「緋奈…新藤くん」


「え…どういう事?」


「私の父よ…」


観念して額を抑える。父はそんな私の感情を知らず、人混みを掻き分けて私達の前にやってきた。久々に向かい合った父の顔は、酷く複雑そうな顔をしていた。


「まさか、新藤くんと付き合ってるなんてな」


私は何も言わない。


「そういうことか」


ああ、言われる。言われてしまう。違うの。待って。私は自分の死から逃れたくて君と一緒にいる訳じゃない。君と共に、心中するつもりじゃない。


「緋奈、お前最初から蒼也くんが無彩病って分かってて付き合っただろう」


「え…?」


これ以上はもう何も言えなかった。頭に大きな重りが落ちて来て、心臓が潰され脳がぐしゃぐしゃになったような気分だった。


「ちょ、ちょっと待ってください、だってそれがばれたのは俺が教室に封筒を落として、それを緋奈…立波さんが見つけて拾ったからで」


君が焦って弁解をする。私はもう、何も言わなかった。この人が、私に優しくない事を知っていたから。


「違うよ、蒼也くん。君の結果は三月最終日に出ていたんだ」


「どういうこと…ですか?」


「ここだと人が多い、場所を変えよう」


歩き出す父の背中に、逃げるのは今だと頭が最終警告を鳴らした。しかし、それに従う事も出来やしなかった。


辿り着いたのは人の少ない喫茶店だった。私達の前に座ってコーヒーを飲む父の視線は窓の外に向けられていた。私は目の前に出されたグラスの中の水を見つめる事しか出来なかった。


「あの、三月最終日には出ていたってどういうことですか?」


話は私の意志を無視して始まる。


「ああ、無彩病かそうでないかはもっと早く結果として出るんだ。無彩病の期限、一年と言うのはそこから日付、期間…まあ色々調べるんだ、間違いがあるといけないから。そして手紙が送られる。手紙が送られてきたその日からを一年と言う、つまり実際には約十二日間タイムラグがあるわけだ」


「そんなの…聞いた事ない…」


もう分かっていた。だからこそ、私は諦めてしまったのかもしれない。


「ああ、これは医療機関で勤めている極一部の人間しか知らないからね。正式に発表する時に残された期間が一年ということになっている」


「…何となく、分かりましたけど、でもそれと緋奈…立波さんが知っていた事にどう繋がるんですか?」


私が何をしていたか。


「緋奈でいいよ、気を使わなくても。彼女は偶然、僕の部屋で君の結果を見たんだ」


「え…」


全てが、終わる音がした。


「分かったかい?緋奈は初めから、君が無彩病だという事を知っていたんだよ」


君に会ったのは、桜が舞うまだ幼い春の日の事だった。寂しいなんて言葉を口に出来ず、幼いながらにきっとこうやって大人になって一人で朽ちていくんだろうなんて、そんな事を思っていた。けれど、そんな考えは君が全部春の風と共に攫って行ってしまった。それ以来、私は君の事が好きで大好きで堪らなくて、君がどこかで生きていてくれるから、大嫌いな世界でも生きていけた。けれど、君に愛され否定されてしまったなら、私は生きている意味さえも見出せなくなる。


「最初から知っていた…?」


世界は変わらない。一人の人間の願いさえも叶えてくれはしない神様なんている意味もない。これは自分で隠した嘘で、自分で首を絞めた嘘だ。


「知ってたのかよ…」


それなのになぜだろう。


「最初から…分かってたのかよ」


こんなにも泣きそうになるのだろう。


「なぁ!!!!」


初めて聞いた君の怒った声に、私は驚いて肩を上げた。


「最初から、全部全部分かってたのかよ…分かった上であの日、偶然を装ったのかよ!!」


そうだ、偶然を装った。手紙を見たなんて真っ赤な嘘。拾ったなんて、偶然なんて真っ黒な嘘。


「そうやって騙してきたって事かよ!一年の条件を出したのもわざと…騙して馬鹿にしてたのかよ!!」


「ちがっ…」


「違わないだろ!!」


違う。聞いて。そう言おうとして上げた視線の先で、初めて見た君の苦しそうな表情に、その先に言おうとした言葉が口から零れる事はなかった。


「信じられねぇ…」


それが最終通告だった。



席を立って店を出て走った。逃げたのだ。自分の罪に。隠してきた嘘に。隠しきれなかった心に、全てから逃げた。涙が溢れて止まらない。愛するがゆえについた嘘が、愛を終わらす真実になるなんて最初から分かっていただろう。



駆け出して逃げた先は完全に無意識だった。蕾すらついていない木々に囲まれた水縹公園を見て、私は自嘲してしまった。


「馬鹿じゃないの私」


陽は傾いて、夕暮れから夜になりかけていた。公園には人一人おらず、私はあの日と同じようにブランコに腰掛ける。出会った時から変わらない年季の入ったブランコを漕ぐ気にはなれず、バッグの中でスマートフォンが振動していても、出る気にもなれずただ収まるのを待つだけだった。


この半年以上、誰よりも傍にいた。誰よりも君の事を知った。素敵な兄弟がいて、休日は妹ちゃんと遊んであげる優しいお兄ちゃん。君の家は一軒家で君は二階の端の部屋に住んでいて、好きな音楽は邦楽で最近は洋楽も聞き始めて、趣味は意外にも読書。

こんなにも君の事を知っていたのに、私は君に何も話さなかった。話したくなかった。その末路がこれなんて、飛んだ皮肉だろう。



一体どれくらいの時間が経っただろう。


「緋奈」


私の名を呼ぶ聞き慣れた声が、今はとても怖かった。


まさかと思い顔を上げればそこには君がいて、息を上げながら私を見ていた。怖い。怖い。怖い。溜息の息すらも怖い。


「もう怒る気すら失せたよ」


そう言って君は隣のブランコに立ち乗る。私は君を見る事が出来なかった。


「言わなくてごめんなさい」


「言いたくなかったんだろ?」


振り絞った解答が、馬鹿みたいな謝罪の言葉だった。それ以上に言う事があるだろう緋奈。君を傷つけた。それなのに君はどうしてだろう。


「いいよ。俺も言いたくない事くらいあるし」


どうしてこんなにも優しいのだろう。


「桜流し」


「え…?」


「…この公園で、ある男の子に教えたの。桜が雨で散っちゃう事」


『桜流し』


『え?』


『雨で桜が散っちゃうこと。桜流しって言うんだってお母さんが言ってた』


言わなくてはいけないと思った。どうして君を知っていたのか、どうして偶然の振りをしたのかを。


「いつかもう一度、その男の子に会いたいって願ってた。それ以外は何も望んでなかった」


どうしてここまで頑張って来れたのか。


「高校に入って、その人を見つけた。昔会った時とは人が変わったようだった。あれだけ楽しそうにやっていたサッカーもしていなくて、記憶の中の彼とは似ても似つかない、冷たい表情だった」


どうして君を目で追いかけたのか。


「あれから随分背が伸びて、大人っぽくなって。見てるだけで十分だった。廊下ですれ違う時、不意に見えた当時と変わらない笑顔を見るだけで、それで私の想いは十分報われた」


どうして君に嘘をついたのか。


「けれど目にした結果に私の全てが終わった音がした」


それは、私たちが終わる瞬間を知ってしまったから。


「泣きそうだった。どうして、って何度も思った。私は彼を、彼のような人達を救うために頑張って来たのに、この未熟な手では、誰も救えなかった!」


たった一人の大切な人も救えなくて、たった一人の大好きな人を救う時間すら残されていなかった。


「だから、最期の一年。どうしても彼の傍に行きたかった。叶う事のない初恋を、契約で無理矢理叶えた。相手の気持ちなんて測りもしないまま、最低だね」


最期だって分かっていたからこそ、私は君と話したかった。初恋を叶えたかったと言われればそうなのかもしれない。けれど、あの時の私はただ君の隣で笑えれればよかった。けれど絶望に満ちた君にかける言葉が見つからなくて、私はこの恋を契約で縛って嘘をついた。


「ねえ、九年振りだったんだよ、蒼也くん」


ただ、あの日のように笑って欲しかっただけだった。


大好きだった。あの頃からずっと。変わらず君が好きだった。桜は咲かない。この公園に、蕾さえつかない。再び咲く季節になろうと、私達はその色すら見えない。思い出の中生き続けた景色が、今、君の声で重なった気がした。


「…緋奈だった」


あの時と同じ場所で。


「あれは、緋奈だったんだ」


ようやく私達の出逢いが繋がった。


「ごめんなさい」


本当は初めてじゃなかった。


「きっと言っても覚えてないだろうと思って。言えなかった。浅ましい奴だ私」


「…そんな事ない」


「え?」


「そんな事ないよ」


君はブランコを飛び降りて私の前に立つ。その目はいつになく真剣で、そして、悲しいくらい綺麗だった。


「あれが緋奈だって事は今の今まで忘れてた。そこは後悔してる。でも、俺はここに来ればまた、あの子に会えるかもしれないなんてこの公園に毎日通うようになった。しまいにはまるで散歩コースみたいに、ここに来てたけど」


君は笑う。私の表情は鏡を見なくとも分かっていた。いつもと正反対だ。ぐしゃぐしゃで、嘘もつけない。涙を必死に堪えて、それでも君が何かを言えば決壊してしまいそうだった。皮肉にも、私はここでただの十七歳の女の子になってしまった。


「偶然じゃなかったとしても、俺はこうしてもう一度初恋の女の子に会って、もう一度恋をしてそれが叶ったんだ。まあ結果論だけどさ」


「…怒ってないの?」


「さっき怒る気失せたって言ったろ。でも、それより…」


「それより?」


君が腰を腰を屈めて視線は同じ高さになる。


「ずっと探してたんだ。憶えてもないのに、ずっと。もう一度って。気付かない間に会ってるとは思わなかったけど。だから、俺にとって緋奈が作ってくれた二度目の初めましては、かけがえのない大切な優しい嘘だったんだよ」


君は私の手を引っ張って腕の中に閉じ込めた。


「ありがとう」


違う。違うんだよ。蒼也くん。これは優しい嘘なんかじゃない。君を想っての嘘なんかじゃない。君の為という正義の名を被った、自己中心的な私の欲望だった。


私は無言で君に縋りつく。


「…死にたくない」


不意に、君が漏らした言葉に、私は反応出来なかった。


「…緋奈、俺死にたくない」


「…うん」


「正直、今まで何もかもどうだっていいと思ってた。いつ死んでもいいと思ってた。…でも、俺やりたい事が沢山出来たよ」


ああ。


「…うん」


「クリスマスには二人で出かけて正月には初詣に行って、白い息吐きながら手を繋いで学校行って、また翔と里香と皆で馬鹿して、バレンタインには緋奈からチョコ貰うんだ。緋奈の手作りチョコ」


君はまだ知らなかった。


「…うんっ」


「それでちゃんとお返ししなきゃ、欲しい物言っといてね」


私のもう一つの嘘を。


「考えとく…ね」


「学期が終わって春が来て、この公園で桜見よう。二人で。それで俺の誕生日祝って、また新学期になって同じクラス、隣の席になるの」


ねえ、蒼也くん。


「…蒼也くん」


「で、夏にはまた花火見に行こう、また浴衣着て来て。今度は海も行こう、緋奈の水着姿きっと可愛いから。秋になったら文化祭二人で回ろう、今度は王子は翔なんかじゃなくて俺がやる。それでまた今日みたいに緋奈の誕生日を祝うんだ」


その頃には私もここにいないんだよ。


「蒼也くん!!!」


叫び声と共に涙が溢れてくる。顔を上げた君は、私と同じくらいボロボロに泣いていた。


「…何で俺死ぬのかなぁ?」


ねえ、なんで私は死ぬのだろう。


「ねぇ…死にたくないよ、まだ。死にたくない、死にたくない、死にたくない!!」


私だって死にたくない。やりたい事が沢山出来た。それがたとえ叶う事のない夢物語だとしても、君と一緒に未来を見たい。


ああ、何て滑稽なのだろうか。言っても意味がないのを頭では分かっているのに、病になって、余命を宣告されて初めて、私は人間になった。初めて、愛する人と出逢えて、仲の良い友人が出来て、幸せを手に入れた。それなのに、なぜこんな結末なのだろう。


「……置いてかないで」


置いて行ってしまう。一日早く、君を置いて行ってしまう。


「…俺を置いて、未来(さき)に行かないで」



一日でも、私は君の過去になりたくはなかった。



私達に未来はない。それでも私は、未来がある振りを続けていた。あれは桜が散って、葉が生い茂る五月の事だ。職員室に向かった君を待つ教室で、いつものように窓に寄りかかり桜の木を見ていた。


『蒼也待ち?』


不意に聞こえた声は君じゃなかったけれど、親しい友人で少しホッとしたのを憶えている。


『そうよ、矢田くんは?』


『俺は教室に忘れ物したから取りに来ただけ。すぐに部活に戻るけどね』


練習着に身を包んだ彼は汗だくで、首からタオルをかけていた。すれ違った彼からは土の匂いと汗の匂いが混ざっていて、決していい匂いとは言えないけれど嫌いではなかった。この匂いに名前を付けるのなら、私は努力の匂いとでも名付けよう。


『そう、大変ね』


ロッカーからお目当ての物を見つけたのか、私の方を見ずスプレー缶を振り頭から吹きかけている。制汗剤特有のスッとした匂いが教室を包み込む。この匂いも嫌いではなかった。しかし、頭からかけるのはさすがに横着し過ぎではないかと思う。彼の頭皮が少し心配になった。


『大変だけど好きだしね。蒼也、どこ行ってるの?』


『職員室よ。プリント出すの頼まれたらしくて』


『あー災難だな』


彼はこちらに近づいて、臭くない?と聞いてくる。私は大丈夫だと答えた。


『立波さ、桜好きなの?』


『…何で?』


『だっていつも窓の外見てるじゃん?ここから見えるものと言えば桜くらいしかないし。すぐ下の昇降口も桜で遮られてるし。それ以外見るものないでしょ?』


『よく見てるのね』


いつの間にか隣に立って共に窓の外を眺めていた。風が吹いて彼の努力の匂いが鼻を掠める。汗だくなのに汚いと思わないのは、きっとこの先自分が出来るはずもない事を、彼がいともたやすくやり遂げているからなのかもしれない。


『まあ、蒼也の親友だからね。あいつもよく桜見てたし』


『そう…。桜、好きよ。大切な思い出があるから』


もう一度、あの色を眺める事は出来ないだろうけれど。


『へえ…俺あんまり好きじゃないんだよね。ほら、毛虫沢山いるじゃん?どうも幼虫系の虫苦手で、他は大丈夫なんだけど』


『意外だわ』


『よく言われる』


驚きだった。虫なんて気にも留めなさそうなのに、むしろ触っていそうなのに。彼は変な所で繊細なのだと、君が言っていた覚えがある。


もう見れないであろうその色を、もう一度この木が満開になるのを見た時、私は思い出す事が出来るだろうか。思い出の色、大切な色、世界を変えた、たった一色。


『…来年も見れるといいな』


口にした願いの真意を、彼が知る事は一生ない。


『見れるだろ、いくらでも咲いてるしな』


『そうだね』


君が知る事も一生ない。


「最期まで傍にいるわ」


精一杯の強がりだった。声は震え、君の背を抱くこの手は爪を立てる。


「未来なんて分からない。だけど、私は貴方の最期まで傍にいる」


嘘だ。分かっている。この恋が行き着く先も、さよならの仕方も、もう何度だって頭でシュミレーションをした。終わりの瞬間を何度も想像した。


「私がそうしたいから」


それでも隣にいたかった。例え、それが骸になっていたとしても、離れてしまえば終わってしまう。その事実が首を絞め続けているからだろう。


「なんだそれ」


君は笑う。涙でぐしゃぐしゃになりながらも、眉を下げて笑う。


「約束する」


「そんなに震えてるのに?」


「お互い様でしょ」


死の恐怖に怯える事で、初めてただの十七歳になれた。圧倒的な存在で、そして得体の知れない恐怖が身に降りかかればこんなにも恐ろしくなる。


私達はもう分かっていた。この物語がハッピーエンドで終わる事はない。私達はもう分かっていた。もしかしたらなんて無い。私達はもう、知っていた。受け入れるしかない運命だ。だからあえて口にする事をやめた。


死を乗り越えた先なんてない。死は全ての終わりだ。その先は消えるだけで何かが生まれる事もない。



だからこそ、最期まで君と生きたい。希望も絶望も、全て君と一緒なら味わってもいいと思ったからだ。




「遅くなってごめん」


「大丈夫、私こそごめんなさい、大丈夫?」


「時間は全然平気」


夜の住宅街を手を繋いで歩く。時刻は九時を回っていた。目元は真っ赤に腫れたままで、それでも二人、気にする事なく歩き続ける。


「あ、そうだ、忘れてた」


突然、君が鞄の中を漁り始める。出てきたのはラッピングがされた小さな紙袋だった。


「誕生日、おめでとう」


「え…」


「誕生日プレゼント。趣味に合えば…良いのですが…」


私はゆっくりとその紙袋を受け取る。リボンを解き、包装を開ければそこにはバレッタが入っていた。


「バレッタ…」


「…いや、あの、いつも耳元にピンつけてるじゃないですか…俺はもう見えないけどさ、確か赤だったよな」


赤と言われた波打つリボンが美しい、上品なバレッタは灰色だった。


「何で、赤…蒼也くん見えないじゃない」


「あ、選ぶ時は里香に手伝ってもらったんだけど。ばれそうでヒヤヒヤしたわ」


「そうじゃなくて!!蒼也くんもう見えないじゃない、着けても分からない…」


意味が無いじゃないか。君に見えない色を纏っても、私には何の意味もない。


「そうなんだけどさ、緋奈、赤好きでしょ?」


私は固まってしまった。いつの間にか、気付かれていたその事実に驚いた。君には見えないから、分からないから隠した色だった。


「だって俺が見えてた時は小物赤ばっかだったじゃん。ピンも。だけど俺が見えなくなって、服装も全部青系統に変えただろ?俺が見えるように、分かるように。だけど、やっぱり好きな色を纏って欲しいんだよ、俺は」


君は私の耳元に挿してあった青いピンを取り、バレッタをつける。


「ほら、そっちの方が似合ってるよ」


もう見えないけどと笑いながら言った君に、私はまた泣きそうになって誤魔化すように君を叩いた。


「痛い!いきなり何するんだよ」


「…大事にするね」


君は笑いながら私の頭を撫でた。


「おう」


「でも、服装は青系統のままよ」


「いや、何でだよ。この流れだと変えるでしょ」


「だって」


いつものように、挑戦的な笑みを浮かべる余裕は一ミリも無かった。きっと君の目に映った私は、泣きそうな笑顔だったのだろう。


「貴方の世界から色が消える最期の瞬間まで、私は綺麗なまま存在していたいの」


私の大好きな君の髪色は、もう見えない。見えない事が、こんなにも辛い事を、知ってしまっている。


「ありがとな」


君は私の手を引き、数歩前を歩き始める。


「あそこ」


指を差した先は自宅だった。つないだ手を離す時間がやって来ているというのに、私はまだこの手を離したくはなかった。


「うわでか…」


漏れ出した君の声。私にとっては生まれた時から住んでいる家の為、大きさなんて気にした事がなかった。


「送ってくれてありがとう」


「どういたしまして」


門の前、離したくなかった手を離す。これ以上繋いでいたら、朝日が昇ってしまいそうだった。


不意に、玄関の扉が開く音がする。


「おかえり」


「…お父さん」


慌てて振り返ればそこには険しい顔をした父が立っていた。いや、顔は笑っている。けれど目は笑っていない。この人は昔からいつもそうだった。


「仲直りしたみたいだね」


「お騒がせしてすみませんでした」


君はいきなり頭を下げる。私は驚いて声を発してしまった。


「今更言うのも何ですけど、娘さんとお付き合いさせて頂いています」


誠実を体現したような人だとずっと思っていた。けれどこんな場面で再確認するとは思いもしなかった。


「先生も分かっていると思いますけど、俺にはもう、時間が無いです」


私は唇を噛み締めた。君に時間がないのなら、私にだって時間がない。けれど君は知らないのだ。


「本当に勝手な事を言っているのは分かっています。だけど、俺は、最期まで彼女といたいです。目を閉じる最期まで」


我儘だった。勝手で周りの事なんて考えもしない、子供のような我儘だった。私が思っていた事と同じ事を、君はいともたやすく父の前で言葉にした。


「未来に、俺はいません。もうこの事実はどうやったって変わる事の無い事だって分かっています。だからこそ、無責任な事かもしれないけど、最期まで彼女と、緋奈と一緒にいて残された143日間で」


ああ、駄目だ。涙が出そうだ。


「絶対に幸せにします」


君の目は真っすぐだった。


「俺がいなくなったその先でも、幸せでいられるように」


嘘偽りのない純粋愚直な瞳だった。


私は涙を堪えながら、まるで結婚の挨拶の様だと思っていた。きっと、これから先聞く事が出来なくて、そして一生出来やしない結婚に憧れた。相手が君であればいいなんて思っても、その瞬間は一生涯やって来ない。けれど、まさかこんな形で聞くとは思わなかった。


視界の端で父が笑った。その目は笑っていた。


「緋奈、先に家に入っていなさい」


「でも…」


「大丈夫。男と男の大事な話だよ」


私は君を見る。けれど君は笑いながら大丈夫と言うから、それ以上首を突っ込む事が出来なくて、私はまた明日と口にして家の中に入った。



だが、ここで終わらないのが私だった。急いで階段を上がり、自分の部屋へ駆け込む。窓を開けてベランダに飛び出る。しかし、姿が見えてしまう事に気が付き、思わず背を向け、カーテンに隠れた。


「緋奈をよろしくね」


聞こえたのは父の声だった。私は驚いてその顔を伺おうとするが、父の表情は見えなかった。


「え…」


「怒るとでも思った?そんな訳ないよ。親としては嬉しい」


「え、ちょっと待ってください、え、良いんですか?」


「ああ」


「…俺は!後143日しか生きられないんですよ!」


悲痛な叫びが、十一月の空に響き渡る。私は目を閉じて、ただ君の叫びを聞いていた。


「…緋奈が、いつも何かを求める事が無かった緋奈が、自ら君にもう一度出逢うために動いた。君に逢って恋をして、あの子は別人のように輝いていた。僕らが見た事のない顔で笑うようになった。人付き合いが苦手だったあの子に、沢山の友達が出来た。今まで楽しいと言った事が無かった学校に、毎日笑顔で行くようになった。何でか分かるかい?君がいるからだ」


私は息を飲んだ。父が、あの父が、私を見ていた事に驚きを隠せなかった。


「全部君のおかげなんだよ、新藤くん。だから僕は、緋奈と君に残された時間がどんな形で終わったとしても、その後にどんな未来が待っていたとしても何も言う事はないよ。君からは沢山の物を貰った、うちの奥さんも同じ考えだよ」


だから、私はこんなにも優しい父の姿を初めて見た。


「お父さん…お母さん…」


溢れ出た涙は止まる事を知らず、しがみついたカーテンを濡らしていく。初めて触れた温かな愛に、私は涙を流す事しか出来なかった。


「だから、君達の最期の時まで。娘をよろしくね」



気が付いた時には、全てが手遅れだったりする事がある。今、やっと父の考えを聞けたのに、私には後142日しか残されていない。


「緋奈?どうしたの?」


開けっ放しの扉から母が顔を出す。カーテンにしがみついて泣いている私を見て、母は驚いて私に駆け寄ってきた。


「どうしたの、そんなに泣いて」


母は床に崩れ落ちた私の肩を抱き、優しくあやしてくる。


「お母さん、あのね」


必死に言葉にしようとしても、声が声になる事はない。


「ごめんなさい」


それで精一杯だった。今まで勘違いしていて、先に死ぬ事になってしまって、親不孝な娘でごめんなさい。それでも母は優しく笑いかけていた。


「さっきね、お父さんと貴女の彼氏を見たの、こっそりね。凄い格好良い子ね。顔は勿論、心が」


私は頷く。そうだ、君は格好いいのだ。私なんかよりも、誰よりもずっと格好いい、私にはもったいない彼氏だ。


「緋奈の事を一番に想って、緋奈が幸せになる事だけを望んでる。素敵な子に恋をしたのね」


「うん」


涙は止まる事を知らない。私は今日、泣いてばかりだ。


「だから緋奈は自分が死ぬ事を言いたくないのね。言ってしまえば、彼が貴女の未来を信じる事が出来ないから。今の彼は、貴女が未来を象徴する一番の光だから。お母さんは分かるな」


私は顔を上げた。君と一緒に死にたくない、心中なんてさせたくないからじゃない、この半年間ずっと考えてきた答えを、母が代弁してくれた。


「緋奈。お父さんとお母さんはね、緋奈に悪い事をしたってずっと思ってたの。けれど貴女は何も言わなかった。だからこれで良いのかとも思ってしまった」


母の目から涙が伝う。


「でも、緋奈が無彩病になって、彼の為に動いた時、私達感動したの。自分の為に生きる緋奈はキラキラ輝いていて、彼の隣にいる緋奈は凄い綺麗だった。きっと彼のおかげ」


「うん」


「でも、彼も貴女のおかげで今を生きていて輝いてる。お母さんたちはね、たとえもう一度緋奈に会えなくてもいいの。今まで沢山縛ってきた、だから、最期まで好きにして笑っていてくれたらそれで充分なの」



初めて聞いた母の声に、私は涙が止まらなかった。


「お父さん素直じゃないから、口に出来なかっただけで同じ事を思ってるよ」


「ありがとう」


私は母に抱き着く。母は力強く私を抱きしめて離さなかった。




気が付いた時にはもう遅かった事がある。もっと早く気が付けていたなら、もっと誰かに幸せを与えられていたのかもしれない。後悔しても時間は戻らなくて、君と私の時間がもう一度始まる事はない。


それでも後142日。


私は生きたかった。



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