僕らの足跡 (5)
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僕は予定通りにイタリアから帰国した。向こうの暑さと日本の暑さでは、やはり違う。日本の方が湿度が高いのか、とてもじめじめとした暑さだ。成田空港に到着した僕は、これから家に帰って洗濯をしなければならない。一週間分の洗濯物はたくさんある。季節が夏でよかった。雨さえ降らなければ夜でも外に出しておくことができる。
電車に乗りこれまでの旅のことを振り返る。やりたいと思っていたこと、行きたかった場所、そしてその場所の香りや温度。僕は順番に思い出していた。
家に着いてバタバタと一気に片づけをして洗濯機を回す。そこで僕は、ようやく一息ついた。
目を閉じ、これまで考えないようにしていたアカリとの別れが胸いっぱいに広がる。僕は彼女と広がりつつある溝をきちんと埋めようとしてしただろうか。マボロシが僕に時間をくれないことを言い訳にして、彼女を遠ざけてしまっていなかっただろうか。そんなことを繰り返し繰り返し考えてしまう。僕は彼女の優しさに慣れきっていた。それが当たり前だと思ってしまっていた。僕は、きちんと彼女を見てあげられることができていなかった。だから彼女は。
僕は自分の不自由さを理由にして、僕が彼女と過ごせる時間だけに満足して、きちんと彼女に向き合うことができなかった。彼女は僕以上にきちんと社会に馴染んで生きている一人の人間であるということまで、僕は頭が回っていなかった。
だけど不思議だ、僕は彼女との別れを心の底から悲しんでいるはずなのに涙は出ない。
そうだ、僕は、ずっと昔から、泣けない。それはどうしてだったっけ。なんでだったっけ。
僕は自分の部屋に入る。アカリに借りたままの本やゲーム、傘、彼女の上着。僕はそれらを紙袋にまとめていった。僕にはもう、必要のないものだ。そして、最後に僕の憧れの地で彼女のためにと買ってきた万年筆を、その紙袋に放り込んだ。持っていても、仕方がない。これは、僕が彼女のことを考えて、彼女ならきっと気に入ってくれると思って精一杯に選んだ品だ。それを捨てるかどうか決めるのは僕じゃない。僕がずっと愛していたアカリだ。
そうして、洗濯物を干し終わった僕は彼女の部屋まで出かけた。僕と彼女の思い出がたくさん詰まった紙袋を持って。今の時間、彼女は仕事で家を空けている。
合鍵を使って彼女の部屋に踏み入れ、部屋の真ん中に紙袋を置いた。もうここに来ることはない。感慨深く彼女の部屋の中を眺めようとして、やめた。初めてアカリの部屋を訪ねた時、手触りのいい絨毯の上に座りながら僕は、あまりじろじろ見るものじゃないと思ったことを思い出したからだ。あの頃から僕は、何か変わることができただろうか。
部屋を出て鍵をかける。合鍵をそのまま郵便受けに入れるのはあまりに不用心だから、僕は念のために用意した封筒に鍵を入れた。そしてなんとなく、両手でその封筒を彼女の部屋番号の郵便受けに入れた。
「さようなら。」
僕は自分の胸の前にぶら下がっている彼女とお揃いのアクセサリーを左手で握りしめた。僕と彼女が出会ったあの日、彼女が僕の目の前でやった仕草だ。
残念ながらアカリが彼女自身が持っている鍵を失くしたとしても、もう僕が持つこの鍵で彼女の心の錠が開くことはないだろう。
僕は彼女の住んでいるアパートに背を向ける。
そして、暑い日差しの中をゆっくりと歩きだした。




