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エピローグ

彼女が最後にナオに問いかけた言葉を聞いて、俺はあの日アカリに言われた言葉を思い出していた。

「マボロシはこれから先、自分から人を好きになることがあると思う?」

ナオがアカリと出会って付き合い始めるまで、俺は人間に興味がまるでなかった。ナオに対しては互いに共存という生きていくうえで欠かせない関係性だったから、関心を持っていた。でも結局それは、最終的に自分自身に関わることだったからだろう。

アカリと出会ってナオがどんどん変わっていく様子を、俺はずっと見ていた。これまでナオはすごく偏った視点で好き嫌いを決めたし、時には何も知らない状態で自分はそれが嫌いだと決めつけていたこともあった。しかし、ナオも俺も、それが普通だと思っていた。

だが、アカリはナオと同じものを見て違うように捉えた。そしてその一つのものからナオが見つけたものよりも多くのものを見つけ、考えた。彼女が考え事に没頭するときの集中力、その末に口から出てくる言葉は俺やナオを驚かせるには十分な考察の結果だった。だからといってどんな物事に対しても理屈っぽいわけではなく、彼女は心から自由だった。好きなことに理由なんていらないと言って、こちらがなぜそれが好きなのかを聞き出そうとしても「わたしにその説明責任はない」と言って笑った。俺はそんな自由な彼女をうらやましく思った。きっとナオはアカリのそんなところに惹かれたんだと思う。だが俺がアカリに抱いた感情は「嫉妬」だった。

俺はナオの悲劇の記憶から生まれた存在だ。だから、この世界に対して何の希望も期待も持っていなかった。人の感情というものをきちんと理解していなかった。ただナオを観察し、必要があれば表に出ていつもナオがやっているようにこなすことさえできれば、俺の存在意義は保たれていた。しかしアカリと恋人関係になったことによって、ナオには外部からのサポートが得られるようになった。だから俺はほとんど何もすることがなくなった。俺はナオとアカリのその関係を内心でうらやましいと思った。でも体は一つだ。俺はそんな二人を見ていることしかできなかった。

ある日、ナオがアカリと喧嘩をした。その結果、ストレスでナオは両目が見えなくなった。両目が見えなければナオは何もすることができない。俺はそれを好都合と捉え、ナオの代わりに大学院へ通った。そして積極的に外部と関りを持った。その時、俺は初めて「人を好きになる」という気持ちを知った。いや、最初はそれが「好き」だという感情だということの自覚がなかった。ただ何となく興味を持ち、その後だんだんと時間を経るにつれて、俺はいつの間にかその人のことしか考えられなくなった。


俺が好きになった彼女の名前はユリ。俺とユリが会ったのは大学の敷地内、学校の裏口だ。裏口を出るとそこは畑が広がっている。だから、普通に学校に通っている人がこちらに来ることはほとんどいない。時々、この畑の道を通った方が家までの帰り道が近い人が通るくらいで、普段はあまり人気がない。彼女はそこで、ギターを弾きながら歌を歌っていた。

ナオは、高校の時の演劇部に所属していた時に使う舞台音楽や観劇した舞台に使われた楽曲が収められたサウンドトラックを聴いていた。その中で好きになった曲を調べて、そのアーティストの曲を好んで聴いていた。でも俺は特に音楽に興味はなかった。ナオが聴いていた音楽はCDに収録されているものだったから、俺は人が目の前で歌っているのを見たことも聴いたこともなかった。だから、ユリがギターを弾きながら歌を歌っている光景を、特に何も考えることなく眺めていた。

曲が終わると彼女は顔を上げ、俺が近くにいることに気がついて、少し恥ずかしそうな顔をした。

「誰だか知りませんが、いつから聴いていたのですか?」

そう言って俺に話しかけてきた。

「少しだけだ。いつも、ここで歌っているのか?」

俺は彼女に近づいた。

「はい。授業が終わった後に少しだけ。あまり人も通らないし、通ったとしてもみんな、興味がなさそうに素通りしていくので。そんなふうに立ち止まって聴いてくれる人、今までいませんでした。」

「俺はあまり音楽を聴かない。ここを通りかかったら聴こえてきたから、興味本位だ。さっきの曲は?」

「恥ずかしいんですけど、自分で作った曲です。」

「自分で曲を作っているのか?」

俺は驚いた。それにしては普段ナオが聴いている曲と大して差がないように思えたからだ。まあ、俺にはそんな音楽についての知識があるわけではないから、その認識が正しいかどうかなんてわからないが。

「はい。でも家ではギターを弾きながら歌えないし、だからと言ってみんなが聴いてくれる路上で歌う勇気もありません。なので、あまり人がいなそうなところでたまに、こうやって歌っています。」

「俺は音楽を聴かないからよくわからない。でも何かもう一曲、あんたが作った曲を聴かせてくれないか。」

「うれしいです。いいですよ。わたしはユリです。お名前を聞いても?」

「俺はナオだ。」

「それじゃあナオさん。聴いてください。」

ユリが歌ったのは、誰かが思い描く未来に向かって進んでいくことを前向きに応援する歌だった。彼女の透き通った歌声が前向きで明るい曲調に良く似合っていた。きっと、悲しい歌を歌ったとしても別の良さが出るのだろう。俺はそんなことを思いながらユリの歌を聴いていた。

歌い終わると、ユリは俺を見た。

「どうでしたか?」

「とてもいいと思う。音楽に詳しくはないけど、なんだか背中を押してもらえるような気がした。」

「わあ、うれしいです。誰かのそういう曲になれたらいいなと思って作った曲なんです。」

「きっとそうなれる。」

「ありがとうございます。」

彼女はうれしそうな顔をして立ち上がった。

「これからバイトに行かなきゃいけないんです。だから、今日はもうこれでおしまいです。」

そう言いながらユリはギターの弦を緩めてケースにしまう。

「また、ここにユリの歌を聴きに来てもいいか?」

俺がそう聞くと、彼女は恥ずかしそうに、でもうれしそうに微笑んだ。

「もちろんです。いつも火曜日と木曜日の夕方にはここにいます。」

そんなふうに、俺とユリはその場所で何度も会った。


俺とユリが仲良くなるのに、そんなに時間は要らなかった。ユリはそんなに口数が多くない。でも彼女が話す言葉の端々には心の奥にある芯の強さが窺えた。それでもユリはアカリほど見え透いた強さはなかった。アカリは弱音を言っても放っておけば立ち直り、また新しいものを見つけては好奇心にそそられ、簡単にどこかに行ってしまいそうな雰囲気があった。反対にユリはずっとそこにとどまり、時々吐き出す弱音にもっと強くその場につなぎとめられて動けなくなってしまうような雰囲気だった。その雰囲気が俺の庇護欲を刺激した。ユリのことをもっと知りたいと思い、もっと長い時間、一緒にいたいと思った。俺は、自然とユリを守らなければならないという気持ちになり、それが独占欲に繋がった。そしてそういった心の動きが「好き」という感情であることに気がついた。


ナオの目が見えるようになってからも、ナオが表に出てくることはほとんどなくなった。それは俺が自分の意思で表に出ているようになったからだ。俺はきちんとナオには伝えなかったが、ナオは俺に好きな人がいることを何となく察していたようだ。でも、ナオから特に強く咎められることはなかった。アカリは何度か俺に説明を求めたが、俺はそれにナオの調子が悪いとかなんとか言って、適当に応じていた。

ユリと知り合って二ヵ月ほどで、俺はユリに自分の気持ちを伝えた。そしてユリもそれに応えてくれた。だがそのとき、ナオという主人格の存在とそれによる俺自身の存在、役割はまったく説明しなかった。それでも俺はうまくやっていた。そう思う。

恋人同士になった俺とユリはナオとアカリが抱き合っているのと同じように、何度も抱き合った。その体が誰のものかなんて思うことは一度もなかった。俺は、ずっと俺だ。


「ねぇ、あの日のこと、覚えてる?」

アカリが電話越しに発した言葉は、おそらく俺に問いかけた言葉だ。ナオは俺とアカリがあの夜に何を話したか知らない。アカリはあの時、ナオに代わって俺が出てくることを望んでいた。でも俺は、そうしなかった。俺はあの日、ナオの思う通りに生きてもらいたいと思っているとアカリに言った。そしてアカリは「折り合いをつけていけるのか」と心配し、「ナオとちゃんとコミュニケーションを取れ」と言った。その言葉を守らずに、俺はナオよりもユリを選んだ。それは俺のとても小さな反抗心だ。俺はずっとナオとアカリの関係に嫉妬していたから。そして結果的に、二人の関係を奪った。

アカリはいずれ俺が誰かを好きになる可能性をあの時からちゃんと考えていた。そしてその時、俺とナオがどうしていくのかをはっきりさせようとした。言い訳になるが、俺は人の感情というものをきちんと理解していなかった。感情というものがこんなにも、コントロールしていくことが難しいだなんて、思ってもみなかった。そして俺自身が持つこの醜い感情をアカリにも、そして本来はきちんと付き合っていかなければいけないナオにも、言葉にして伝えることができなかった。なぜ俺とナオはそれぞれ肉体を持たないのか、その事実を何度も何度も憎らしいと思った。

俺が表に出ている間のことを、俺がナオに語らない限り、ナオは知ることができない。俺は、簡単にユリを手放したくない。できれば彼女とずっと一緒に生きていきたいと願っている。だが俺とナオは二人で一つだ。


俺はこれから先、どうやって生きていくのが正しいのだろうか。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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