僕らの足跡 (4)
4/5
ヴェネツィアに着いたのは時刻は夕方。夏だからまだ明るい。
サン・マルコ広場に着いた僕らはそこから夕食までは自由時間だ。僕はそこからヴェネツィアの街並みを堪能しながらリアルト橋まで歩いた。さすがヴェネツィアだ。ヴェネツィアングラスのお店とカーニバルのための仮面の店がとても多い。きっと観光客向けに売っているお店も多いのだろう。道行く人もミラノに比べると陽気な人が多い気がする。
僕は完全にヴェネツィアの空気に虜になっていた。こんなに素晴らしい世界があることを、この旅行でこの異国の地に立つまでそれは、まったく知らずに生きてきた。テレビの中の景色や写真、漫画や本、絵画から得られる情報なんてたかが知れている。実際に体験しなければわからないことが、この世界にはまだたくさんある。人間、生きられる時間には限りがある。これから先、僕は一体どれだけの物事を経験して感じることができるだろう。僕はまだこれから何を学んでこの世界のことを知ることができるだろう。向き合って考えなければいけないことが、すごくたくさんある気がした。少し気が遠くなる。だから僕は、せめて僕自身の目の前にある景色や事象だけは見逃さないようにしなければならないと思った。何かを失うとき、それは、自分自身が気がつけなかったことに起因するということを、僕はなんとなくだけれど、知っていた。
その日の夕食はイカ墨パスタだった。僕はパスタが好きだけれど、イカ墨のパスタを食べるのは初めてだ。見た目から少し口に運ぶことが躊躇われるが、塩が効いていて美味しかった。またひとつ、僕は新しい味を覚えた。赤ワインを飲みながら、僕はこの地に来られたことを心の底から喜んで楽しんでいた。
ヴェネツィアの夜をすっかり楽しんだ僕は、次の日の朝、アカリからメールが届いていることに気がついた。
ナオ、ごめん。
わたしはちょっと我慢をしすぎていたみたい。
これ以上ナオとの関係を継続するのが難しく思えてしまった。
だからわたしと別れてください。
楽しい旅行中にごめんね。
アカリからのメールに僕は驚いた。そして昼前の自由時間になったのを見計らって慌てて彼女に電話をかけた。日本はまだ夜の時間帯だろう。
「はい。」
「アカリ?さっきメール見た。どうしたの?」
彼女からすぐに返事が来ることはなかった。沈黙が続く。僕は彼女が言葉を発するまでの間、サン・マルコ広場からずっと海を眺めていた。
「メールに書いた通り、わたしはちょっと我慢することにつかれた。」
彼女の言葉と一緒に、彼女のため息まで聞こえた気がした。
「僕は一体、アカリに何を我慢させてしまったんだろう。」
「わたしは、恋人同士はきちんとお互いのことを支え合える関係になるべきだと思っていた。ううん、今もそう思っている。」
「うん。」
「これまでもわたしは、ナオにとってそういう、ナオのことを支えていける存在で在れるようにいたつもり。」
「そうだね。僕はアカリにたくさん助けてもらった。こんな感謝の言葉だけじゃ足りないくらいに。」
「ナオは」
そこでアカリは一旦言葉を切った。
「ナオは、わたしに対してそういう存在で在ろうとしてくれていた?」
アカリにそう言われ、僕は黙り込んだ。果たして僕は、僕はどうだっただろう。
「最近は全然わたしの話を聞いてくれていなかった。ナオはわたしが今、どういう状況に置かれているか、知っている?」
僕は彼女の言葉を必死で探した。けれど、ここ最近のアカリで僕が思い出せたのは思い出すのは僕の話を楽しそうに聞く彼女ばかりだった。僕は。
「ごめん。」
「ううん、いいの。ナオはきちんとわたしの話を聞いてくれることをわたしはちゃんと知っている。だから、自分からナオに話そうとしなかったわたしも悪いと思っている。だけど、もう取り戻せない。」
「それを今、僕が聞く権利は?」
「残念ながら。わたしは今のわたしの状況をナオに話すつもりは、もうない。」
彼女はもうそれ以上、何も言わなかった。
「そうか。」
そう言って僕は、ただただ目の前を通り過ぎていく知らない顔をずっと眺めていた。




