それは或る夜の出来事 (3)
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「ところで、マボロシはどんなことが好きなの?」
「俺の好きなもの?」
俺は彼女がなんでそんなことを聞いてくるのかわからずに、思わず聞き返した。
「そう、好きなもの。ナオくんは数学が得意で美術館と現代寄りの芸術作品が好きなのは知っている。好きな食べ物はパスタとハンバーグ。お酒は、だいたい何でも飲めるけどその中で特に日本酒と白ワインをよく飲む。だからわたしは今、一緒に赤ワインを飲めるように少しずつ仕込んでいるの。」
そこまで言って彼女はなにかがおかしかったのか、ふふっと笑った。
「でもわたし、まだマボロシのことは何も知らない。だから何が、どんなものが好きなのか気になった。何でもいいから、思いついたら教えて。」
そう言われて俺は自分の好きなものについて考えを巡らせた。でも、かといって好きなものがあるわけではない。基本的に食事はナオが取る。ナオの調子が悪くて食べられないときはたまに代わりに食事を取るが、その中で何が好きだとかいう好みはない。というより、自分がこの世界で生きていくという自覚が薄いから、あまり興味がないのかもしれない。強いて言うなら本を読むことが好きだった。特に史実には興味がある。この世界にいる人間がそれぞれ異なった文化を持ち、時にはそれぞれの思想や文化の違いから争っていく様は滑稽だし興味深い。なぜそんなことで争うのか、俺には理解できないから、それを紐解くように読んでいく。それから、それらは同じ題材であるはずなのに、国によっても歴史や人物の解釈が異なる。その違いがどこから来るのかを考えることを俺は気に入っていて、興味のある事柄は異なる言語で書かれた本を読むことにしている。
とまあ、俺はアカリにそんなことをポツポツと話した。しかし、自分に興味を持たれるというのは不思議な気分だ。試しに俺はコップに残っていたナオが飲んでいた赤ワインを一口だけ飲んでみた。俺は、特にそれを美味しいとは思わなかった。そして、俺はナオに意識を手渡した。
僕が目を開けると、目を腫らしたアカリがベッドに腰を掛けて僕を見ていた。どうしたのだろうか。何かマボロシにひどいことを言われたのだろうか。彼女の様子が心配になった僕は、立ち上がって彼女の近くに寄る。
すると彼女は急に立ち上がって、僕を抱きすくめた。突然の出来事に僕は混乱し、彼女に対してどう接するのが正しいのかわからず、そのままの姿勢で硬直していた。しばらくして僕から彼女が離れる。そして僕を少しだけ見上げて言った。
「話してくれてありがとう。わたしはナオくんのことがずっと好きだった。だからとてもうれしい。これからよろしくお願いします。」
それを聞いて、僕はうれしいという気持ちよりも安堵の気持ちが勝っていた。僕はきちんと勇気を出して伝えることができて、その結果アカリに自分のことを受け入れてもらえた。きっと、彼女は他人とは違う僕の特殊な状態を完全に理解しているわけではないと思う。それでも僕と一緒にいることを選んでくれた。僕らはこれから共に過ごす時間で少しずつお互いに対する理解を深めていけばいいだけのことだ。急ぐ必要はない。
「よかった。」
「不安だったね。でも、今日も普段とそんなに様子は変わらなかったから、わたしはそんなこと言われるなんて思ってもみなかった。」
「少しずつ覚悟を決めていたんだ。もしアカリさんに拒否されても、ちゃんとここを去れるように。」
「そういう心構えができるの、さすがだと思う。」
そう言って笑う彼女を、僕はそっと抱きしめた。そして彼女も、僕の背中に手を回した。
「ありがとう。」
こうして僕らは、晴れて恋人同士となった。
その夜、終電がなくなってしまった僕は、アカリと彼女のシングルベッドの上で眠くなるまでお互いのことを語り合った。そして手を繋いで眠った。
彼女の手は、温かかった。僕が最後に誰かの体温に触れたのは、いつのことだっただろうか。そんなことを考えながら、僕は眠りに落ちていった。




