2話 貧乏伯爵令嬢の切実な関心事(王宮の栗のお菓子って美味しいのかしら?)
「――お嬢様、お嬢様? あまり動かれては、リボンが綺麗に結べませんわ」
ハッと目を覚ますと、そこは湿った夜の森ではなく、柔らかな日差しが差し込む温かな部屋の中だった。
目の前には大きな姿鏡。
そこに映っているのは、十五歳のドレス姿の自分ではなく――まだ頬に少し丸みの残る、可憐な十歳の少女だった。
(ああ……そうだわ。十歳の時の、あの日の朝ね)
「ごめんなさい、メイ。少しぼんやりしていたわ」
「もう、どうされたんですか? 今日がどれほど大切な日か、分かっていらっしゃいますか? 第一王子殿下の婚約者候補が選ばれる、王宮のお茶会の日なんですからね!」
鏡越しに小言を言いながら、侍女のメイがドレスの背中のリボンをきゅっと結び直した。
「分かってるわ、それくらい」
気の抜けた返事をしながら、私は心の中でため息をつく。
(婚約者候補ねえ……。うちみたいな貧乏伯爵家の娘なんて、どうせ数合わせでしょうに)
そんな私の最大の関心事は、婚約者候補に選ばれることでも、王子殿下に気に入られることでもなかった。
王宮のお茶会で振る舞われるという、絶品の『栗の焼き菓子』。
果たして、あれを食べられるのかどうか。それが一番の問題だった。
鏡の中の少女は、どこからどう見ても、お淑やかな良家のお嬢様そのものだ。
ペールピンクのドレスは、フリルやレースを控えめにあしらった上品な仕立て。背筋を伸ばし、指先まで優雅に揃えた姿には、貴族家子女らしい品格がある。
「まあ、お嬢様……! 本当にお人形のように可愛らしいですわ。王宮に行かれても、決して他の令嬢方に見劣りいたしません!」
「ありがとう、メイ。いつもお仕度に感謝しているわ」
私はメイに微笑み返した。
(うん、こうしてみると……それなりに可愛いんじゃない? ちゃんと貴族令嬢してるわよね。……我ながら中身とのギャップは否めないけど)
* * *
私には、人には言えない秘密がある。
それは――前世の記憶があること。
前世の私は、現代日本で怪異や悪霊を祓いまくっていた、霊力の強い女陰陽師だった。
前世の詳しい生涯や死因までは、残念ながら覚えていない。
ただ、平安の世から継承した陰陽師家の子孫として、怪異を相手に戦い、数々の悪霊を祓っていたことだけは、はっきりと記憶に残っている。
そんな前世の記憶を持ちながら、この異世界に生まれて真っ先に気づいたのは、みんなが尊ぶ「魔力」と、私が前世で扱っていた「霊力」が、根本的には同じ波長のエネルギーだということだった。
(つまり、呼び名が違うだけ。前世の陰陽術も、そのまま使えるってわけね。……まあ、使う機会なんて滅多にないけど)
せっかく平和な世界に生まれたのだ。わざわざ陰陽師の腕を披露する必要もない。
私は霊力を隠し、ごく普通の令嬢として暮らしてきた。せいぜい自室でこっそり、安い紙を使って形代を作るくらいだ。前世では高価な和紙や朱砂を使っていたけれど、こっちの紙でも霊力を練ればちゃんと働いてくれる。
「お嬢様、馬車の準備が整いました。旦那様がお待ちです」
「ええ、すぐに向かうわ」
メイにうなずき、私はドレスの裾を軽く持ち上げ、扉へと向かった。
* **
エントランスへ降りると、そこには父――ヴァイゼンベルク伯爵の姿があった。
「お父様、お待たせいたしました。本日は良いお天気でございますわね」
「ああ、クラリス。今日もとても可愛いね」
父は優しく目を細め、私の手を取った。
「……本当なら、もっと華やかなドレスを用意してやりたかったのだがね」
我がヴァイゼンベルク家は由緒正しい家柄の伯爵家だが、現状、家計はかなり厳しい。父は真面目で領民想いの素晴らしい人なのだが……
……ただ、領地経営の才能が壊滅的にないのだ。
新事業に乗り出しては失敗し、慎重になりすぎて好機を逃す。おかげで破綻こそ絶しているものの、我が家はいつだって予算ギリギリの生活を送っている。
「まあ、何を仰いますの、お父様。我が家が堅実に、誠実に領地を守り続けていることこそ、わたくしの誇りです」
私は父の手をそっと包み込み、健気に微笑んだ。
(うん、お父様のことは尊敬しているし大好きよ。でもね、我が家のお菓子が固いビスケットだけなのは、ちょっと切ないのよ……)
家計の事情は、私が一番よく分かっている。
お菓子ひとつ買うにも予算を気にしなければならないのが、我が家の悲しい現実なのだ。
「お姉さま! おでかけ?」
そこへ、パタパタと可愛らしい足音を響かせて駆けてきたのは、五歳の弟、テオだった。
テオは私のドレスの裾をきゅっとつかみ、大きな栗色の目をキラキラと輝かせている。
「ええ、テオ。王宮のお茶会へお父様と一緒に行ってきますわ。お留守番、良い子でできますか?」
「うん! ぼく、いい子にしてる! おねえさま、王宮のお菓子、おいしいのかなあ?」
「ふふ、どうでしょうね。帰ってきたら、どんなお菓子だったか、たくさんお話しして差し上げますわ」
私はかがんでテオの頬を撫で、優しく微笑みかける。
(ああ、可愛い……! 我が弟ながら天使すぎるわ。……でも、ヴァイゼンベルク家の長女として、次代の継承者であるこの子のために、将来の学費や社交界デビューの費用を準備しなくちゃならないし、家の助けになることを私もそろそろ考えなくちゃね)
「さあ、お嬢様。お急ぎください」
「ええ、メイ。では、お父様、お願いします」
私は淑やかに一礼し、御者に手を取られながら、我が家で唯一稼働している二頭立ての馬車にお父様の後から乗り込んだ。
そして、ガタゴトと揺れる馬車の窓に流れる外の景色を眺めながら息をつく。
(まあ、今日は賑やかしでしょう。端っこで壁の花を決め込んで、王宮の美味しいお菓子を堪能して、平和に帰ってくればいいわ)
――だが、この時の私はまだ知らなかった。
この「数合わせのお茶会」で、私の陰陽師としての運命を大きく揺るがす異変に出会うことを。




