1話 最強陰陽師令嬢 王都の森で暗躍す
夜の帳が下りた王都の森は、骨まで凍てつくような異様な冷気に包まれていた。
静寂を切り裂くのは――ぬめりとした湿り気を帯びた、どす黒い魔力が蠢く不吉な音だ。
「ヒッ……な、なんだこの魔術は……っ!? 魔法陣が腐食していく……!」
「うわあああ! 近づくな! 来るなあああ!」
絶叫が、暗闇の森に木霊する。
王都でも指折りの実力を誇る魔導士たちが必死に防御壁を張っていたが、黒い触手状の闇魔術に掠っただけで、周囲の樹木は瞬時に枯れ果てていく。
足元の湿った土からは、吐き気を催すような腐臭の混ざった煙が立ち上っていた。
「くそっ、攻撃が効かない! 一体どんな化け物なんだ……!」
死の影が彼らを呑み込もうとした、その時だった。
「――まあまあ。皆様、夜の森でお散歩なさるにしては、少々賑やかすぎますわね?」
柔らかく優しい声が、夜の静寂にふわりと響き渡った。
「なっ……!?」
魔導士たちが驚愕して振り返る。
そこに立っていたのは、身の毛もよだつ殺戮の現場にはおよそ似つかわしくない、一人の少女。
月光を浴びてきらきらと輝く美しい髪。幾重にも繊細なレースが重ねられた上品なドレス姿で、優雅に扇を仰ぎながら、口元に微笑みを浮かべている。
弱冠十五歳。
伯爵令嬢――クラリス・フォン・ヴァイゼンベルクその人であった。
(んもぉ……臭いわね。ドレスに匂いがついたらどうしてくれるのよ。ああ、でも魔導士様たちが束になってこの状況とは……)
扇の陰で優雅な微笑みを崩さないまま、彼女は冷静に状況を分析する。
―――彼女の前世は、かつて現代日本で力を尽くしていた最強の女陰陽師。
「き、君! 誰だ? なんでこんなところにいる! 危ないぞ、下がっていなさい! それは普通の魔物じゃない、高階級の闇魔術だ! 君のようなご令嬢が首を突っ込んでいい代物じゃ――」
青年の悲鳴のような制止の声を、クラリスは人差し指を唇に当て、優しく受け流した。
「お気遣い、感謝いたしますわ。ですが……どうぞ安心なさって」
クラリスはそっと袖口から、一枚の白い紙人形(形代)を取り出した。
一瞬だけ辺りの空気がピリつく。
軽く、指先でチョンと紙人形を弾く。
「――急急如律令。出でよ、我が式神!」
静かな声とともに、純白の光が解き放たれ、溢れ出た。ジュッと柔らかな音を立て、巨大な黒い触手も、あたりを覆っていた不快な空気も、まるで雪が溶けるように優しく消え去っていく。
――静寂。
周囲を覆い尽くしていたどす黒い霧も、吐き気を催す腐臭も、光の波紋が通り過ぎるそばから次々と霧散していく。
「な……ッ!?」
魔導士たちが茫然と立ち尽くす。
一瞬で闇魔術を拭い去ったクラリスは、少し困ったように目を細めた。
やがて夜の森には、再び清涼な月光と心地よい風が戻ってくる。
「……え? な、なにが……起きたんだ……?」
「魔法陣も、詠唱すら……なかったぞ……? 紙の札を一枚、投げただけで……?」
開いた口が塞がらない魔導士たちの視線が、少女へと集まる。
当のクラリスは、ドレスの裾を微塵も汚すことなく、月明かりの下に凛として立っていた。
そして、呆然と立ち尽くす魔導士たちと、霧のように消えていく闇の残滓を見つめると、これ以上なく心を痛めた様子で言葉を紡ぐ。
「なんとおいたわしや。このような禍々しいお力を身に宿し、どれほどお心が苛まれていたことでしょう。もう大丈夫ですわ……お目覚めになったら元のあなた様です。暫しの間、安らかにお眠りください」
クラリスが静かに印を結ぶと、凄まじい霊光が魔物を包み込んだ。
直後、禍々しい闇の霧だけが綺麗に霧散し、中から現れたのは――呪いから解放され、穏やかな寝息を立てる一人の男の姿だった。
核にある魂を傷つけぬよう、優しく剥離された依代の身体には、傷一つ残っていない。
(うん、手作りの形代もきちんと機能してくれてよかった。お怪我がないようで安心したわ)
自身の持つ力を誇ることもなく、クラリスはただホッと胸をなでおろしていた。
「……き、君は……一体、何者なんだ……!?」
「えっと、名乗るほどのものではございませんわ。……それでは皆様、こちらに倒れている方の手当てをよろしくお願いいたします。夜風は体に毒ですから、わたくしはこれで失礼いたしますね」
深々と頭を下げ、淑やかに踵を返す。
背後では魔導士たちが「待ちたまえ!」「君、マジ誰だ!」と大騒ぎしていたが、クラリスは一切振り返らなかった。
パチン、と静かな音を立てて扇を閉じる。
一陣の夜風が吹き抜け、彼女が弾いた白い紙人形の欠片が、月光の中でチラチラと舞い散った。
(ああ、早くお部屋に戻ってお茶でも淹れましょう。……それにしてもこの嫌な気配。初めて感じたのは、たしか五年前のことだったかしら)
カチ、コチ。
頭の中で、どこか懐かしい時計の針が時を刻む音が響き始め、ものすごい勢いで逆回転を始めていく。
時計の針が巻き戻る音を聞きながら、クラリスの意識は、すべての始まりとなった「十歳のお茶会」へと戻っていく。
* * *
時を同じくして――。
草木をなぎ倒す急な足音と共に、漆黒の森へ魔導灯の明かりがなだれ込んできた。駆けつけたのは、王宮魔法師団の応援部隊である。
「――おい、これは一体どういうことだ……!?」
団員の放った鋭い声が、夜の静寂を切り裂いた。
彼らが最悪の事態を覚悟して目にしたのは、事切れた魔物の死骸ではなかった。
そこに横たわっていたのは、禍々しい闇の魔力が完全に消失し、ただ穏やかに寝息を立てている、行方不明だった王都の男の姿だった。
「特級魔物化していたはずだぞ……! 人格も肉体も呪いに乗っ取られ、人間ごと討伐するしかなかったはずだ。なぜ傷一つなく、呪いだけが消え去っている?」
医療魔導士が慌てて駆け寄り、男の脈を診る。だが、その顔は驚愕に染まるばかりだった。
「魔力回路も、魂の核も完全に無傷です……! まるで、外側の呪いだけをそっと削ぎ落としたかのような……我が国の魔法体系には存在しない術理だ。一体誰が、こんな神業を……」
ざわざわと動揺の広がる森の中、先遣隊長は、足元に落ちていた微かな「白銀の霊光の残滓」を見つめ、慄然とした。




