2. 帰らない門番
窓の下から、冬の朝の冷えが上がってくる。朝の部屋で予定表を開くと、紙の端が窓明かりに白く浮く。戸が勢いよく動く。跳ねる蜂蜜色の髪が覗き、義妹のミルヤム様が丸い頬を寄せた。
「今日は何が潰れるの?」
筆を浮かせたまま顔を上げると、ミルヤム様は眉を上げ、戸の陰から小柄な体を滑り込ませる。
「昨日、厩と台所で聞いたの。この家は傾くって、新しい奥様がおっしゃったらしいって。馬車も帰したんでしょう?」
私は宙を仰いだ。広まる速さだけは、馬車よりよほど立派だ。
「本日は門番が辞める話を確かめます。傾くとは申しましたが、潰すお話はしておりません」
ミルヤム様は机に肘を載せ、丸い頬をふくらませる。
「あら、潰れる方が面白いのに。義姉様、今日は誰が困るの?」
私は筆を置き、ミルヤム様へ向き直る。
「困る前に止めたいのです。お仕事をなくす方には、笑い話では済みません。明日このお話をなさるなら、誰も困らずに済んだところまで、お伝えくださいね」
実家から伴ったズザンナが予定を差し出す。焦茶の固い結び髪が揺れずに止まる。
「奥様、必要なものからお持ちします」
紙を受け取る私を見て、差し出す手がわずかに止まる。私は門の出入りの欄を開く。紙の角が擦れ、乾いた音を立てる。
「ありがとう、ズザンナ。訪ねてくる方と、通す順を見たいのです。辞めると決まった紙だけでは、何を引き受けていた方なのか、分かりませんから」
ズザンナは姿勢を崩さず、該当する紙を抜く。中背の私と同じほどの高さから、机の上へまっすぐ置く。
「予定はこちらです。お荷物は私が揃えますから、必要な紙だけお選びください」
前回は、門の見える窓から門番の背を見送った。客を待たせたので辞めるという声が、窓の下から上がってきたのを覚えている。呼べば届くところにいるうちから、私はただ、見送っていた。あの朝は、荷が門を出るまで窓から動けずにいる。肘掛けの冷たさが、まだ指に残っている。
今の予定表には、その門番の持ち場もある。ミルヤム様が敷居から振り返り、空色の目で私の返事を待つ。
「用事が済んだら、義姉様とお話ししたいの! あたし、兄様の知らない屋敷の道も知っているんだから」
紙を閉じかけて、止まる。ミルヤム様の待つ戸口へ足を向け、そのまま机の端へ手を戻す。空いた時間の欄には、何も書かずにおく。
「用事が済んだら、門番の所へ案内していただけますか? 先にご本人を呼んでいただきたいのです。辞めるというお話は、トルステン様にも聞いていただきます」
手元から顔を上げるズザンナと目が合う。黒い目は私の返事を追い、卵形の顔の口角だけが少し上がる。ミルヤム様はもう戸を開けている。
「お仕事の道なのね。厩を回れば会えるわ。小さい頃から通ってるんだもの! 商人だってあたしを知ってるわ」
廊下で示された道を覚え、私は関係者を集める。
◇
門の外は風が強い。扉の隙間から入る空気が、足元を撫でていく。門にはトルステン様とエーレント、厩から門番を連れて戻ったミルヤム様が揃う。差し出されかけた引継ぎの紙が風に震えると、夫がそれを止める。
「まず先に妻に話させる。帰る話は、その後だ」
小さくまとまった荷が、門の内側に置かれている。私は予定表から顔を上げ、門番へ向き直る。
「本日、辞める話より先に、引き受けた仕事を聞かせてください」
門番が置いた荷から手を離す。
「お客様を門でお待たせしました。先に入れる方がいたとはいえ、エーレントさんからお叱りを取り次がれましたので、私の落ち度です。勤めを終えるつもりでした」
外へ開いた扉を閉じる。風が細い音を立てて途切れ、紙の震えも止まる。荷を持ち上げる音がしないうちに、私は夫を見る。
「先に通す仕事だった相手を、まだ伺っておりません。叱られたことだけで、お話を終わらせないでください。ご本人が何を引き受けていたのかを聞かせてください」
トルステン様は引継ぎへ目を落とす。
「客を待たせたのは事実だ。そこは変わらない」
閉じた扉の前で、私も足を動かさない。夫の見ている紙と、門番の荷の間に立つ。
「そうですが、待たせた理由まで確かめてください。それだけで辞めさせるのはいかがかと。命じられた仕事と、しなかった仕事を分けてお話ししましょう」
夫は門番へ顔を向ける。
「先に通す客がいた。次は何だ?」
私は予定表を持ち直し、出入りの順を夫へ向ける。
「では、先に入れる相手を、どなたが決めたのですか? その順を守っていたのなら、門番が勝手に客を待たせたお話とは違います。命じた方のお返事を、ここで聞かせてください」
紙を持つ夫の手が、当日の用向きで止まる。
「それは……俺だ。先に……通せと言った。別の客が来た時だ」
言いつけの主は、今ここで分かる。けれど、荷の結び目はまだ固い。私は夫から目を逸らさず、門番の荷を示す。
「なら門番さんに落ち度はないのでは? この荷が門を出る前に、言い直したほうが良いかもしれませんね」
夫が紙を下げ、大きく息をつくと、門番へ体を向ける。
「待たせた責任は俺にある。辞める必要はない。聞かずに決めて悪かった」
門番は閉じた扉から夫へ、顔を上げる。
「なら、ここに残ってよいのですね! 勝手をしたと思われたままでは、もう門に立てないと思っておりました」
私は持ち場への道を空ける。けれど、荷には触らない。ほどかれていない結び目から、門番へ視線を戻す。
「残れることは決まりました。ただ、ご自身は、どうなさりたいですか? ここに残るというお返事でなくても、最後まで伺います」
門番の手が、結び目の上で止まる。私は予定表を下げ、待つ。
門番は帰り支度の結び目を解く。固かった縄が、荷の脇へほどけて落ちる。
「まだここで働きたいです。明日も門を開けたいです。お通しする順を、改めて教えていただければ」
トルステン様がエーレントへ引継ぎを戻す。
「本人の返事を聞いた。この件は終わりだ。通す順は俺から伝える」
エーレントが紙を畳む。端を揃える音が小さく響き、帰り支度に添えるはずの紙は、その手元に収まる。
「辞職のお取り扱いは、これで取り消しでございます。叱りも辞意も私めが取り次いでおりました。家の仕事を滞らせぬため、以後は旦那様と奥様へ直に申し上げていただきましょう」
ミルヤム様が持ち場へ続く戸を押す。門番の行く先を空けて、ぱっと笑う。
「よかった! 義姉様、人が残るお話なら、あたしだって面白いわ!」
戻っていく背に、荷はない。明日も門を開ける人を、私は扉の内側で見送る。ほどけた縄は、荷のそばに落ちたままだ。
前回この家が傾いた順番を、私は全部この目で見ている。
居間へ戻ると、夫が予定表の次の欄を指す。ミルヤム様もエーレントも、机のそばに立つ。
「明日の石工の払いも、この席で確かめる」
私は机に見取を広げる場所を空ける。
「明日は、いらした方に場所も聞かせてください。同じ仕事への払いが重ならないように、見取とお話を、この席で一緒に確かめたいのです」
夫は帳面を置いた席から私を見る。次の用向きを探すより先に、目が合う。
「明日も、ここで話せ」
私は予定表を畳みかけ、紙の端を揃える。空いた時間の欄は、白いままだ。揃えた端を押さえて、顔を上げる。
「では、明日はお返事も聞き終えてからお決めください」




