1. 本日ぶんの帳簿
目を開けると、嫁入りの馬車の中だった。窓の外に、あの門が見えている。
膝の上の手が冷たい。雪を探した息に、藁と馬の匂いが混じる。馬車が大きく揺れるたび、座面から裾へ震えが伝わる。門は近づく。揺れはやまない。
細長い顔にかかる赤銅色の編み髪を留め直し、馬車を降りる。居間の框を越えると、夫のトルステン様が長身をかがめて椅子を引く。
「妻は黙って座っていればよい」
前回は、この居間の端が私の居場所。嫁いだ初日にそう言われてから、私は五年間、黙って座っていた。椅子の背に置いた手へ、窓の光が差している。五年目の冬にこの家は潰れ、私は誰にも看取られずに雪の中で死んだ。
今、椅子の布には擦れた跡もない。このままだと、また座らされて日付だけを言う役にされる。私が分かるのは、食堂と居間の端に座って届いた声と、窓の外を通った物だけ。その席で聞いた払いを頼りに、私は椅子の背から手を離し、夫へ向き直る。
「いいえ。家の発展のために、私もできることをやらせていただきます。――三日後、北の水路の普請で、石工に二重の払いをなさいます」
机の予定表の該当日に手を添える。使用人頭のエーレントが三日目と読み上げ、夫は顔を上げる。
「……は?」
夫の笑いが短く漏れ、視線が帳面へ戻る。私の言葉だけが、表紙の外に置かれたままだ。私は開かれた紙を見つめる。
「お笑いになる前に、その帳面を見せてください。家の金のお話です。冗談で言えることではありません」
トルステン様はエーレントへ目をやる。
「まだ起きてもいないことで、家の者を疑うのか!?」
エーレントが帳面を伏せる。重なった紙の白さが隠れる。私はその表紙へ言葉を向ける。
「本日、まだ何もしていない方を、罪人にはいたしません」
喉の奥で次の言葉が止まる。閉じた表紙からは、何も確かめられない。それでも私は、椅子へ下がらずに立つ。夫は椅子を引いたまま、角張った顎をこちらへ向ける。
「なら、何を確かめる?」
私は窓下の車輪を示す。荷のない車体は、戸口の向こうで動かない。
「まずは今日の払いのお話から行きましょう。座らせるのは、聞いてからにしてください。窓の外に、まだ待っている馬車があります。荷を下ろし終えても、あれを留めておくのですか?」
夫の広い肩が窓を遮る。
「待たせているのは俺だ。勝手に残っているわけじゃない」
私は笑うと緩む目尻を引き締め、琥珀の目で夫を見返す。
「荷はもう下りています。待たせるにも金が要るのです。何をお待ちになるのです?」
夫は空の車内へ目を向ける。
「君が忘れ物を取りに戻るかもしれない。念のためだ」
私は戸口に揃った荷へ手を広げる。外套も手提げも、目の届く所にある。
「お気遣いはありがたいです。でも、もう大丈夫です」
トルステン様は窓から私へ目を戻す。
「君は、ずいぶん話すな」
私は揃った荷の前で、空の手を下ろす。
「荷物なら戸口に揃っております。私は荷ではなく、妻です」
前回は、居間のこの席から空の馬車を見ていた。待ち賃は銀貨四枚。その額もここで聞いたのに、帰してよいとは言わずじまい。
今は、帰路に使う外套まで荷の上だ。窓から入る冬の光が、揃えた荷の角を白く切っている。エーレントが銀貨を出し、控えを綴じるために屈む。白髪交じりの横分けが帳面に寄る。
「旦那様のお申し付けどおり、待機の分も支度してございます。お帰しする合図があれば、この金を添えます」
私は綴じ目の高さへ目を落とす。紙の脇で、銀貨だけが明るい。
「その銀貨は、まだお渡しになっていませんね? 控えを綴じる前に、払いの中身を拝見したいのです」
エーレントの細い肩が、机の側へわずかに寄る。
「はい。旦那様のお申し付けをいただいてからにいたします。私めが勝手に動かす金ではありません」
私は外套の下から空の手提げを持ち上げる。荷を扱い慣れた腕には軽い。重みのない布が、手の動きに遅れて揺れる。
「もう、車を待たせる必要はありません。お気遣いの分まで払うより、必要な払いのために残してください」
夫が私の荷と窓を見比べる。広い肩が動き、窓の明るさが机に戻る。
「待ち賃が付く前に帰せるのか?」
私は伏せられた帳面を示す。
「運び賃は荷下ろしまで。その後も留めるなら待ち賃です。今なら取り消せますので、出す前に確かめさせてください」
トルステン様の目が表紙へ移る。
「今日の分を、妻へ」
エーレントの痩せた肩が動き、当日分に印を挟んだ帳面が中央へ出る。
「こちらを今日の確認にお使いください。払いをお決めになるのは旦那様、私めはその額をお渡しいたします」
私は未払いの欄を押さえる。まだ埋まっていない欄には、銀貨の行き先を書き留める余白がある。
「この銀貨四枚を出す前に、お帰しください」
夫は窓へ向き直る。
「待機は取り消す。車を帰せ。運び賃は約束どおりだ」
エーレントが窓から合図をする。馬車の向きが変わり、私へ返事をするこげ茶の目が上がる。
「待機の取り消し、承りました。こちらはお渡しせず、家に残す分ですね」
銀貨は机に残る。私は車輪が離れていくまで見送る。車の音が門の外で細くなり、指の先に血が戻ってくる。机へ向き直っても、銀貨はそこにある。紙の端に落ちる光が、その縁を細く照らす。
「銀貨が出ていく前に間に合いました」
夫が机の銀貨へ目を落とす。
「残ったな。君に聞けば、済む話だったか?」
私は残った四枚を、帳面の欄と並べて置く。
「そうですね。出さずに済んだ金は、次の払いに回しましょう」
夫が黒髪の広い額を帳面へ寄せ、それから私へ向き直る。
「実家でも勘定を見ていたのか? 紙の見方は知っているようだ」
私は払いの欄から普請の予定へ、開いた頁をたどる。
「婚前は実家の勘定と、水路の差配をしておりました。払う先と、済んだ仕事を照らすのは、その頃からです」
夫は普請の欄で視線を止める。
「水路もか? 図だけで決める仕事じゃないだろう?」
私は紙の端を揃える。墨の匂いが、冷えた手に近い。白い縁が揃うまで待って、顔を上げる。
「ええ。水の流れる先は、紙だけでは分かりません。仕事をした方のお話も聞いてから、額を合わせておりました。ここでも、見せていただけるなら確かめます」
夫が空いた椅子を示す。深緑の目は、今は私の返事を待っている。
「用は済んだ。座っていい。立ったままでいる必要はない」
椅子の布に窓の光が落ちている。私は夫の顔より先に、机の紙へ目を落とす。開いた頁を押さえていた手が、そこで止まる。言いかけて、一度だけ息を継ぐ。
「……はい。その、まだ見ていない頁が、ありますので」
夫は椅子の背を押さえたまま動かない。
「座ってからでも開ける。椅子は逃げない」
エーレントの狭い口元が閉じ、薄い頬が動く。確認の済んだ帳面が、中央からその手元へ戻りかける。夫は椅子の背を押さえたままだ。私は椅子より先に、返される表紙へ手を差し出す。
「本日ぶんの帳簿を。前回はここから傾きました」




