第3話「カニ、来襲」
一つの椅子に並んで座り、陽菜多の体温と、ご機嫌そうな鼻の音──今もぷぅぷぅ鳴いている──をすぐ隣に感じる。早くホームルームが始まってほしい。けれど、幼い頃に巣穴へ誘われた日から変わらない甘い匂いを、もう少しだけ近くで感じていたくもあった。
「いよっし、間に合った! みんな、おっはよーーー!」
その調子で陽菜多の存在に酔っていたら、教室に飛び込んできた元気すぎる挨拶に朝の余韻が吹き飛ばされる。
陽菜多は声の大きさに小さく反応したけれど、それを放った存在が誰なのかを認識すると、再び巣穴へと戻ったうさぎみたいに落ち着いた。
「遥ちゃん、おは〜。今日は結構余裕あるんじゃない?」
「んふふ、今朝はご機嫌な朝食だったからね! カニカマサラダ、おいしいよね〜」
「星さん、本当にカニが好きだよね。でも、カニカマは魚のすり身なんだけど…」
「タラバガニも食べたことがあるあたしが『カニカマはほぼカニ』の評価を与えているから、ノンプロブレム♪」
その騒がしさの張本人が教室に入ると、多くのクラスメイトたちが声をかける。そちらへ注視しなくとも、会話の声音から親しげであることが察せられた。
私と陽菜多は昔からそういう集まりには積極的に参加していなくて、これまで通りの日常であれば、その中心人物とも接点がなく卒業を迎えていただろう。
「あっ、陽菜多ちゃ〜〜〜ん、奈緒ちゃ〜〜〜ん!!」
「げっ」
しかしそいつは、私と陽菜多が仮組みの巣穴で寄り添っていたら、まるで「そこはあたしの巣穴でもあるよ!」と言わんばかりに近づいてきた。
横歩きで。もう一度言う、横歩きで。
……人間って、横歩きでもあんなに早く歩けるものなのね。
「ちょっと奈緒ちゃん、いま『げっ』って言わなかった!? 近づいてくる美少女に対するリアクションとしてはマイナス七億点だよ! それとおはよう!」
「悪いけれど、あんなに素早く横歩きできる人間を女扱いするつもりはないのよ。それとおはよう、そしてさようなら」
「まだホームルームも始まってないのに!? あたしの片手がシオマネキ並のハサミだったら、おしおきとしてその可愛いサイドテールをチョッキンしてたよ!」
黄赤のツインテールを振り回し、両手のハサミで「むがーっ」と威嚇してくるカニ女……もとい、星遥は、見てのとおりクラスの人気者だった。美少女という自称も、黙っていれば間違っているわけじゃないだろう。
ちなみに、私は友達と呼ぶほど親しいつもりはない。陽菜多も、そう思っているはずなのだけど。
「陽菜多ちゃん、おっすー! うさぎをやめてカニになる決心はついた?」
「おっす……うさぎの私へ『甲殻類になれ』とは、ダーウィンも真っ青の要求だね。もちろん断るよ」
人見知りの陽菜多が遥とは話せるのには、それなりの理由がある。
この女は陽菜多と仲良くなりたい一心で、あるときから、毎日のように横歩きで近づいてきたのだ。
『あたし、星遥! 自他共に認める“美少女のカニ”だよ! うさぎの陽菜多ちゃんとは、もっと仲良くなりたくて……ううん、もっと仲良くなりたいカニ! だって、陽菜多ちゃんの話って面白いんだもん。もっといろいろ聞いてみたいカニ!』
……そう、どういうわけか。この女は陽菜多と仲良くなるべく、“カニ自認”を──変な語尾とセットで──自ら宣言し、私たちの巣穴へ飛び込もうとしてきたのだ。
もちろん最初のうちは陽菜多もずっと私の後ろに隠れていて、私は「カニと会話できるほど外国語が堪能じゃないわ」とあしらおうとしたのだけど、それにもめげずに毎日横歩きで近づいてきて、気付いたら陽菜多も自分で返事をするようになっていた。
どういうこと?と疑問に思う人も多いだろう。私にもわからない。
「カニは進化の究極形態! その証拠がカニ化! 甲殻に覆われて堅いし、強いハサミもあるし! しかも……カワイイだよっ!」
「聞き捨てならないよ。うさぎのほうが可愛いからね、奈緒も私を可愛がってくれるし」
「自分で言うんじゃないわよ!」
カニ女は両手で作ったハサミで陽菜多の腕をちょきちょきと挟みながら、進化の法則を無視したような提案をしてくる。それに対し、陽菜多は真顔でうさぎのほうが上位種とばかりに返事をして、人間の私はその争いに巻き込まれてしまった。
……あの静かで心地よいホームルーム前の時間は、どこへいったのかしら……。
「ううーん……こうなったら、奈緒ちゃんには人類代表として、我ら三種族会議にて決着をつけるしかないよ!」
「仕方ないね。奈緒、うさぎこそ世界で一番可愛い生き物だって教えてあげて。私の次にうさぎに詳しい奈緒なら余裕だよね?」
「あんたのほうが詳しいなら自分で力説しなさいよ!? というか、こんなしょうもない会議のために人類代表だなんて重い責任を背負わせないで!」
生息域すら違ううさぎとカニが、教室で種族間競争を始めようとしている。しかも、どちらも人間である私に判定を委ねて。
……本当に、この子たちは人類をなんだと思っているの? あるいは、私のことも。
「カニは水に強いし、大抵のものは食べるし! しかも地球上の大部分は海、それなら水に強いカニのほうがセイブツガクテキ?に強いに決まってますー!」
「これまた聞き捨てならないね……うさぎのほうがいいよ、聴覚が優れているし、何より立派な巣穴を造れるし。カニって穴を掘れるの?」
「掘れるよ! シオマネキだって立派な巣穴を造るもん!」
「……奈緒、カニにも巣穴仲間がいたよ」
「そこで意気投合するの!?」
うさぎとカニのレスバトルは続き、それはやがて外野にも波及していく。
あるクラスメイトは「カニっておいしいよね」とカニ派になり、別のクラスメイトは「うさぎの鼻すぴすぴは可愛すぎる」とうさぎ派に加わった。
気付いたら、クラスの隅っこで巣穴に潜っていた私と陽菜多は、眩しい地上へと引っ張り出されているような気分になる。それに対して強い不快感はなかった、けれど。
(……陽菜多、星とはそこそこ話せるようになっているのよね。悪いことじゃない、けれど)
巣穴から顔だけを出し、遥の話に短く応じる陽菜多を横目で見る。話せる相手が増えたことは、素直に嬉しい。相手がカニであることは、この際考えないとして。
それでも。陽菜多が私以外と楽しそうに過ごす様子を想像すると、脱走したうさぎが外でのびのびとやっているのを見ているような、みみっちい敗北感のようなものを覚えてしまうのだった。
……カニ相手に嫉妬するなんて、やっぱり私に人類代表なんて不可能だと悟る。
「ぐぬぬ、そこまで言うなら仕方ない……お昼はあたしのカニパスタを分けてあげて、それで懐柔しちゃうんだから!」
「なら、私の葉物サンドイッチも分けてあげてもいいよ。奈緒がハムや卵も挟んでくれたけど、野菜のうま味を理解できるうさぎのすごさを教えてあげる」
「……なんでそんな話になってるのよ!?」
その会議は予鈴が鳴ると同時に終了した……けれど、結果はお弁当の交換という平和な形に落ち着いていたらしい。
やはりどこからどこまでも平凡な人間である私にとって、うさぎとカニの種族間競争というのはついていけないみたいだ。
横歩きでハサミを作ったまま「シーユー・カニゲイン☆」という挨拶で締めくくり、星はカニ女らしく自分の席へと戻っていった。
「やれやれ、人間社会だけじゃなくて、カニ社会も私たちには騒がしすぎるよね」
「本物のカニだったら、もうちょっと静かだと思うんだけど……というか、あんたもそろそろ戻りなさい。ぎりぎりまで粘っていると、また先生から『草野さん、授業中は飼育係さんではなく、先生の指示に従ってください』って言われるわよ」
「……この社会はうさぎに優しくないよ……」
私相手に仲間意識を発揮してくれる陽菜多にも席に戻るように促したら、彼女は被っていた上着を着直し、しぶしぶ歩いていった。
その離れていく後ろ姿を見送りながら、名残惜しいのはお互いさまだと思った。




