第28話「誰かのための巣穴」
衛生管理のために設置した物置区画は、まるで別世界のような静けさに感じられた。
実際は少し耳を澄ませるだけでも、今は文化祭の最中であることがわかる。事情を把握した星と如月は本当に動物のような野生に目覚めたのか、今は二人だけで巣穴カフェを回してくれていた。
さらに耳を澄ます。すると「今は脱皮の季節並みに忙しいから、ちょっとだけ待っててほしいカニ!」とか「あっ、家庭科部の皆様! お礼の土下座をば……」なんて聞こえてきて、陽菜多を思いやると同時に、彼女たちへの感謝の気持ちを重ねていた。
……それはそれとして、如月は本当に土下座しないといいんだけど……。
「……二人とも、あんなに頑張ってくれてる……」
「そうね……だけど、陽菜多は自分のことを一番大事にしてほしいの。星と如月だけじゃなくて、先生も、家庭科部のみんなも、絶対に責めたりしないから」
こういうとき、陽菜多のうさぎレベルの聴覚が恨めしい。優しいこの子は、星と如月に負担をかけていることを、きっと気に病んでいるから。
陽菜多はいつもそうだった。涼しい真顔で佇んでいるのに、ちゃんと身近な相手のことを気にかけていて、苦しんでいる人がいたら寄り添おうとしてくれて……そんな人だからこそ、私は恋をした。
だからこそ、今は自分勝手になってほしかった。周囲のことを気にせず、安全を確認したうさぎのように、前脚と後ろ脚を伸ばすようにして休んでほしい。
私に身を預けるようにしてぐったりしている陽菜多の重みを感じながら、祈るような気持ちで伝えた。
「……私は陽菜多の居場所である部室を守りたい。だから、陽菜多の心も無事じゃないと意味がないの。私のためにも、営業中止を」
「……見損なわれるかもしれないけど」
「私は何があっても陽菜多を見損なわないわ。それこそ、私を見損なわないで」
「ありがと。正直に言うと、私、軽く考えすぎていた。みんなもいるし、忙しくなったって大丈夫だって……でも、こんなに騒がしくなるなんて、そして自分がこんなに弱いだなんて、思わなかった」
私が陽菜多に嘆願しようとしたら、彼女は掠れるような小さい声でぽつぽつと話し始めた。
その顔色は、今もなお青い。青い体毛のうさぎです、なんて悪趣味なジョークが成立しそうなくらいには。
もちろん陽菜多は、こういうタイミングでジョークを言う子じゃない。さらにこちらへと体重を預ける感触に、私は何があっても受け止めようと決意を新たにした。
「だから……もうちょっと、奈緒にこうしてもらいたい。最悪の場合、カフェが終わるまでこのままかもしれない」
「いいのよ、それで。だからお店は、もう……」
「……みんなの様子が見たいの。私がこれ以上弱音に押し潰されちゃう前に、お願い」
「……見るだけよ。無理に出て行こうとしたら、ひっぱたいてでも止めるんだから」
陽菜多は一度私の腕にぎゅうっと抱きついてから、そんなおねだりをしてきた。こんなタイミングだというのに、その上目遣いの仕草にドキドキしてしまう。自分の恋心の節操のなさが、陽菜多の要求を断らせなかった。
陽菜多に肩を貸して、物置から調理スペースへ。すると、私たちを出迎えてくれたのは……何度も力を貸してくれた、家庭科部の部員たちだった。
「あっ、森田さんに草野さん! 如月さんから事情は聞いたし、料理の提供は私たちが担当してるから大丈夫!」
「まったく、こんなに忙しいのに四人で回そうだなんて、モリリンもパイセンも水臭すぎ! 一緒に食事メニューを作った仲じゃんよ〜」
「みんな……!」
家庭科部のみんなは忙しなく……それこそ私一人で回していたよりも早く料理を用意してくれていて、星と如月はまた接客に集中できていた。
その光景に、思わず目頭が熱くなる。陽菜多がダウンしたこともすでに把握してくれているのか、「草野さん、気にせず休んでてね」と笑いかけてくれた。陽菜多もまた、「本当に、ありがとう」と囁くように、でもはっきりとお礼を伝えていた。
そしてカーテンの隙間から、巣穴カフェの様子を確認する。
「すみません、うちの子が人混みに疲れてしまったみたいで……」
「いえ、そのための巣穴ですから! 今、冷たい飲み物をお持ちいたします!」
「ふう、まさかこんな落ち着ける場所があるなんて……やっぱり、年寄りに若い子たちの文化祭は華やかすぎるねぇ」
「んふふ、おばあちゃんったらまだまだ元気でしょ? ほかのところも見て回るために、今はあたしたちの巣穴でゆっくり休んでね♪」
子連れの保護者やご年配の方まで、幅広い層がブースに入り、そして自分の巣穴であるかのように休んでくれていた。
それはまるで、多様な生物が共存するテラリウムのようだった。誰もが違う好みを、そして目的を持っているのに、その誰もがそれぞれの静けさの中で過ごせていた。
今も巣穴カフェが盛況であることを物語る程度にはお客さんは多いし、星や如月は忙しく歩き回っているけれど、巣穴の中だけは小さな平穏を保っているように見えた。
「……あの人……奈緒、見える?」
「ええ。陽菜多の作った巣穴の中で、ゆっくりと呼吸を整えていて……」
陽菜多の視線の先には、彼女が作った巣穴があった。本来であれば自分が休むための場所に、別の誰かがいる。
その様子は今のこの子にとって残酷なことのように思えたのに、それを見守る陽菜多の視線は、群れの子うさぎを慈しむかのようなぬくもりを秘めていた。
巣穴の中にいる女の子は明らかに疲れている様子だったけど、飲み物を小刻みに口へ含んでは目を閉じ、ゆったりとした呼吸を繰り返している。薄暗い巣穴はその休息を邪魔せず、教室の喧騒からそっと切り離していた。
「……多分、あの子と同じ。『今は近づかないで。でも一人にはしないで』って気持ち、伝わってくる」
「陽菜多……」
「……奈緒。ごめんね、営業はやめたくない。だから」
あの日、怯えたうさぎの隣で待ち続けた陽菜多の優しさが、今は見知らぬ女の子の居場所になっている。そしてその光景が、今度は陽菜多を巣穴の外へ連れ戻そうとしていた。
いくぶんか落ち着いた様子の陽菜多は深呼吸を繰り返して、私と視線を合わせる。こうして見つめられると、私は弱かった。
これからもきっと、こうして見つめ合うだけで……私は、どんなお願いでも聞いてしまうだろうから。
「入場人数とかを制限して、今よりも少しだけ、静かに使える空間として続けるのはどうかな? 本音を言うと、私がきついだけかもしれないけど……でも、私はここに来てくれる人たちにも、同じ悩みを抱えてほしくないの」
「……仕方ないわね、それなら許可してあげるわ。ひとまず待機列のお客さんたちと先生に事情を説明してくるから、あなたは星と如月に営業方針の変更を伝えて。それが終わるまで、もうちょっとだけ家庭科部のみんなも力を貸してほしいの」
「おうよ、任された! 優しいモリリンとうさぎパイセンのため、もうちょっとだけ……本気だしちゃうよ!」
「ふふふ、任せて! 森田さんってずっと私たちに遠慮してたから……頼ってくれて嬉しいよ」
陽菜多との意思疎通に、多くの言葉はいらない。陽菜多が望んで、私がそれを受け入れる……ずっと変わらないその関係が、今も心に染み渡ってくる。
だから私はすぐに行動を開始して、家庭科部の人たちも了承してくれた。幸いなことに先生もすぐに来てくれたけど、その際に「そういう大事なことはもっと早く頼って!」と怒られてしまった。
*
即席の巣穴でしばらく休み、顔色と呼吸が戻ったのを確かめてから、陽菜多は「少しだけ戻る」と自分で立ち上がった。無理を感じたらすぐ奥へ戻る、それだけは二人で約束した。
「は〜い、巣穴カフェの待機列はこちらで〜す! ここは静かに休むための場所なので、みんな、ご協力ありがと〜!」
「こちら、ご案内のパンフレットです! え? 動物のイラストが可愛い? うへへ、恐縮です……!」
弥生先生が駆けつけ、そしてお客さんたちに事情を説明してくれた結果、まるで群れの大移動が終わったかのように状況は変わってくれた。
星は持ち前の明るさで待機列の人たちとコミュニケーションを取って、如月は新ルールが明記されたパンフレットを超特急で作って配布している。パンフレットには、『小声での利用をお願いします』という一文と、如月が即興で描いたうさぎやハムスターが添えられていた。
そのおかげで苦情が噴出したり、お客さんに見限られたりすることもなく、今は『一休みしつつ文化祭を楽しむための場所』として営業を再開できていた。教室の中に響く話し声は、さらに穏やかになっている。
「お待たせしました、パウンドケーキとコーヒーです。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとねぇ、陽菜多ちゃん。まさか、学校にまでこんなすごい巣穴を造ってるとは思わなかったよ」
陽菜多は遊びに来てくれた八百屋さんに飲み物とお菓子を運び、丁寧にお辞儀をしたあと笑い合う。その様子だけで、私は「営業を中止しなくてよかった」と現金なことを考えていた。
あれからの客入りは穏やかになり、アンケート用紙の積み上がりも緩やかになったけれど、その内容はより良い方向へと変わっていったように見えた。
『ここのおかげで疲れたまま帰らずに済んだ。文化祭、これからも楽しんできます』
『段ボールの内側がこんなに心地よくて静かとは思わなかった。私にとってのベスト隠れ家カフェです!』
『うさぎっぽい女の子と調理担当の女の子が視線だけで通じ合っているのがよかった。これは熟年夫婦ですね間違いない……』
このように、私たちは賑やかな人気企画であろうとする前に、文化祭の途中でゆっくり過ごせる場所であることを徹底した結果、アンケート結果もそれに応じた変化を見せたのだ……ちょっと変な回答も混ざっているけど。
なにより、今のペースなら陽菜多も「ちょっと疲れるけど、気分が悪くなるほどじゃないよ」と話していたように、なんとか働ける程度の状況を維持できた。
それが喜ばしいと同時に、最初からそういう方向性を浮かべられなかった自分が腹立たしくもある。私は陽菜多のことが最優先なわりに、まだまだ至らない部分も多いのだと思い知った。
「失礼します、順調なようで何よりですね」
「うむ、すでに評判は耳にしている。巣穴カフェ、最初はどうなるかと思ったが……来場者の助けになっていること、きちんと把握しているぞ」
「会長に副会長……ありがとうございます」
調理スペースで自戒を続けていたら、生徒会の人たちの声が聞こえる。カーテンを少しめくって確認すると、陽菜多が生徒会長と副会長に話しかけられていた。
思わず割って入ろうか悩んだけれど、私は見守るに留める。陽菜多はすでに、私の後ろに隠れずとも会話ができているのだから。
……やっぱり、嬉しいだけじゃなくて寂しいものね。
「私はずっと、優しい人たちに守られながら過ごしてきました。だからこそ、誰かに守られている嬉しさを、巣穴という形で提供できて……嬉しいって、今なら思えます」
「……草野さん、この短期間で随分と成長したんだな。ふふふ、それならお小言は必要ないか……では、私たちも少し巣穴を使わせてもらっていいか? 会長がな、『休憩も視察のうちです』ってうるさいんだ……これを無視し続けると、エナジードリンクのやけ飲みをするから手に負えん」
「海さん、エナドリは執務のお供でもあるんです……でも、今日は皆さんが入れたお茶とお菓子で、文化祭のために頑張らせていただきますね」
陽菜多は笑っていた。疲れを隠しきれないけれど、とても自然で充実した、巣作りを終えたアナウサギのように。
私はそれに笑いつつも目の端から涙がこぼれそうになったので、慌ててカーテンを閉じて調理役に徹した。けれど、料理を取りに来た陽菜多は、閉じかけたカーテンの隙間から私の顔を覗き込んでくる。
「奈緒、泣いてるの?」
聡いうさぎは、カーテン一枚くらいではごまかされてくれなかった。




