第18話「やっぱりここがいい」
自分の部屋のドアだけど、今日はとても控えめなノックをする。そしてなんの物音も聞こえてこなかったことから、彼女は眠っているのだろうと確信した。うさぎ並みの聴覚を持つ彼女は、その反応が驚くほど予想しやすい。
ドアを開く。最初に部屋の隅っこに設置された段ボール製の巣穴を確認したけれど、そこに陽菜多の姿はなくて。
「……もう。勝手にベッドを使って」
代わりに、陽菜多は私のベッドで眠っていた。まるで自分の住み処であるかのように、毛布にくるまって、思わずちゃんと呼吸しているか心配になるほどの小さな寝息を立てている。
咎めるような言葉を吐き出す私の声音は、自分でも認めるほど優しかった。口うるさい女の私であっても、陽菜多に対しては大きな声を出さないように気をつけていて、それはきっと、陽菜多の優しさの欠片が私に宿ってくれた証だった。
ベッドに腰を下ろし、陽菜多の頭を撫でる。その艶やかでふんわりした髪は私の手櫛を無抵抗で通していき、普段の手入れが無駄ではないことを雄弁に物語っていた。
「………………」
可愛いと思った。美しいとも思った。
目、鼻、口、髪、体つき、そのどれもが最高のバランスで、最高の位置に配置されているとしか思えない。
この世に存在するすべての生物が環境に適応しながら今の姿へ進化してきたように、陽菜多もまた、私を見惚れさせるためだけに、私の理想をすべて満たすためにこの容姿になったのだと確信した。
そんな少女を眺めていたら、私の理性が酩酊するのなんて当たり前だった。頭を撫で続けていた私はそれだけじゃ足りなくなって、陽菜多の唇に対し、自分の唇を
「……うぅん……あれ? 奈緒……?」
「どわぁ!?」
「うさーーーーー!?」
「今のって驚きの声なの!?」
……今、私、何をしようとしていたのよ?
あと少しで触れる。そんな距離まで近づいたところで、陽菜多の目がうっすらと開かれた。
思わず、叫んでしまう。もしかするとそれは、陽菜多に聞かせた久々の大声かもしれなかった。
陽菜多は寝込みを襲われた草食動物よろしく、寝起きとは思えないほどの俊敏さで小さく跳躍し、世にも珍しい──というか、この子だけだろう──驚愕の声を出した。
でも、近づいてきた相手が私だと確認すると、すぐに「もう、驚かさないでよ」と毛布を被って眠り直そうとする。起きようとしないところが、実にこの子らしい。
「もう、今から寝直すと夜に眠れなくなるわよ……それで、どうしてここで寝ているのよ?」
「うん、ここ最近はいろんな場所にある巣穴を巡っていて、奈緒との巣穴であんまり休んでなかったから。ちょっと疲れていたのかも」
「そうね、それは陽菜多のお母さんや八百屋さんからも聞いていたけど……あまり心配させないで。陽菜多の顔が見られないと、その……私も、寂しいから」
「朝と日中は顔を合わせてたのに? 奈緒は優しいね」
今だけは、ちょっと素直になりたい。星と如月に背中を押してもらえたことを思い出して、私はわずかな逡巡だけで気持ちを伝えた。
陽菜多はそれを笑うんじゃなくて、ただ私を褒めてくれた。陽菜多なら馬鹿にしないとわかっていたのに、私の気持ちの隅っこまで理解してくれたような返事には、腰を抜かしてしまいそうなほどの多幸感に包まれる。
……恋というのは、かくも好きな相手への耐性を弱めるらしい。
「私ね、この町にある巣穴を回っていて、わかったことがあるの。八百屋さんのベンチ、パン屋の倉庫や休憩スペース、奈緒の家族の部屋……そして、奈緒の部屋。どこの巣穴も、みんなみんな、私のためにスペースを分けてくれた」
「陽菜多だからよ。私もそのみんなに話を聞いたけれど、誰もが陽菜多のことが好きだから、陽菜多にそのままでいて欲しいから」
「ありがとう。でも、私一人だと、きっとほとんどの人とうまく話せてなかった。うさぎは鳴き声を出せない分、奈緒が隣で言葉を紡いでくれたから、私はたくさんの巣穴が作れた。そしてその巣穴の写真を撮って、スペースを分けてくれた人と話をして、“落ち着ける理由”を調べていたんだ」
如月の言う通りだった。陽菜多は、決して巣穴から離れたわけじゃない。
巣穴が好きだからこそ、守りたいと願うからこそ、巣穴を受け入れてくれた人たちを理解しようとした。
陽菜多は人から逃げていたわけじゃなくて、自分の周囲にいる人たちを思慮深く観察していたのだ。飼育施設見学の日、怯えていたうさぎの心を開いたように。
「私は、“追い立てられないこと”、“無理に話さなくていいこと”、“出てきたときに迎えてもらえること”、それが落ち着ける理由になるって思った。そういう意味だと、自分の部屋が一番かもしれない。だけど」
陽菜多は、笑った。微笑みじゃなくて、目を細めるように。
そして私に身を寄せて、二人で毛布を被った。陽菜多をくるんでいた毛布には彼女の匂いが染みついていて、私は恍惚となりかける。
同時に、涙が出そうになった。それはきっと、小さな頃の悲しむ私に対し、陽菜多が同じことをしてくれたからだろう。
このまま、時間が止まればいいのに。秒針が進み続ける掛け時計を見て、強くそう思う。
だけど、それと同じくらい……陽菜多と一緒に、前へ進みたいとも思った。これまで──恋愛についてはうさぎというよりも亀のような歩みだけど──進み続けてきたからこそ、陽菜多をもっと好きになれたのだから。
私はきっと、昨日の陽菜多よりも、今の陽菜多のほうが好き。巣穴を増やして、その分だけ多くの人に受け入れられる、優しいうさぎ少女が。
「奈緒の部屋も、同じくらい好き。あ、巣穴を置かせてもらえるからってだけじゃないよ? ここはね、なんだろう……『奈緒の部屋だから』っていうのが、最大の理由なんだけど」
「……そんなの、当たり前じゃない」
「でも、ほかに言い様がなくて。あ、強いて言えば……奈緒の匂いがするから、かも。この毛布もそうだけど、奈緒の匂いに包まれていると、すごく安心するから」
「……変態」
「ひどい言われようウサ……奈緒だって、私の匂いが好きなくせに」
うるさい。図星を突かれた私は陽菜多の頭に、自分の頭をこつんと引っ付けて、お望み通り、私の匂いを擦り付けてやった。
すると陽菜多も同じようにすりすりっとこすり付けてきて、私と陽菜多の匂いが混ざり合う。その事実に対して歓喜に震えそうになるあたり、変態という指摘は概ね正しいのかもしれない。
ぷぅぷぅという陽菜多の鼻音に耳を傾けながら、少しのあいだはお互いが黙って身を寄せ合った。
「……もしも私がいなくても、陽菜多はこの部屋を好きでいてくれるの?」
「奈緒がいないと、ここはただの部屋だよ。奈緒が望むなら好きでいるように頑張るけど、ちゃんと奈緒も帰ってきてくれないと、巣穴を撤去しちゃうウサよ?」
「……手のかかるうさぎね、ほんと。心配しなくても、離れてなんかあげないわよ。文化祭だって近いんだから」
「文化祭が終わっても、だよ。だからこそ、私は自分たちの巣穴を守りたい。奈緒がそうしてくれたように、私も部員のみんなと一緒に、『誰かのための巣穴』を作りたいの」
私はきっと、陽菜多が信じてくれるほどの立派な人間じゃない。私は陽菜多が好きで、彼女に救われたからこそ、自分のためにもそうしてきただけだと思うから。
でも、それでいいのだとも思えた。自分のために作った巣穴がいつしか誰かのための巣穴にもなって、大切な人と寄り添うための場所になるのは……きっと、素敵なこと。
……それはそれとして、「私と陽菜多だけの巣穴は守り続けたい」なんて考えるあたり、自分がうさぎでもカニでもハムスターでもなく、欲深い人間そのものだとわからされた。
「……いいじゃない。ようやく活動内容が研究会の名前に追いついた、ってところかしら」
「これは手厳しい……私なりに自分で考えたのに」
「陽菜多が頑張ったこと、ちゃんと認めてるわよ。でも……できれば、次からは一緒に頑張りたいって思うのよ。一人で頑張るにしても、目の届く範囲にいて欲しい……って、これはいくらなんでも過保護よね……」
「……ぷっぷっ♪」
具体的に何をするかは、まだ決まっていない。あくまでも方向性、私たちだからこそできることの道しるべだ。
それでも、陽菜多が頑張る瞬間には、その隣で一緒に頑張りたい。
そんなエゴまで漏らしてしまったけれど、陽菜多は上機嫌に鼻を鳴らして、もう一度体を擦り寄せてきた。それからの私たちはしばらく引っ付いたままで、お母さんの「そろそろご飯を食べてね〜」という呼びかけまで動けなかった。




