第12話「陽菜多そのものが好きな私でありたい」
私にとって陽菜多の家、近隣住民に愛されるこのパン屋は、第二の実家とも呼べる場所だった。
ここへ近づくたびにパンの焼ける香りが強くなって、それを嗅いでいるとたくさんの思い出がよみがえってくる。
陽菜多のお母さんが試作したパンを、私と陽菜多で食べながら感想を言い合った。
陽菜多のお父さんが「母さんには内緒」と言いながら、私と陽菜多向けの小さな巣穴を倉庫に設置してくれた。
陽菜多が私のために、毎年バレンタインにチョココロネを作ってくれた。
ここは私にとって、たくさんの思い出を重ねてきた場所だった。その思い出がサンドイッチの具材だった場合、SNS映えしそうなくらいの厚みになっていることだろう。
それをイメージして苦笑したら、いつもの従業員用の出入り口から入る。うさぎの手も借りたいほどの忙しい時間は過ぎ去ったみたいで、今は陽菜多の両親だけでお店を回していた。
「お邪魔します。あの、陽菜多は」
「あの子なら自分の部屋にいるよ。少し前まで『奈緒が来るから』って待ってたけど、ちょっぴりすねちゃって。ごめんね、奈緒ちゃんのことになると陽菜多は子供っぽくなるから」
「そうですか……すみません、もう遅いのに」
「何なら泊まっていってくれてもいいんだよ? 陽菜多も喜ぶし」
陽菜多のお母さんに温かく迎えられて、本当に泊まっていこうか悩む。けれど、一瞬だけ考えてから「お母さんが夕飯を用意してくれているので」と辞退した。
陽菜多にはこんなにも素敵な両親がいるように、私にも待ってくれている優しい家族がいる。どちらも大切だからこそ、どちらとの時間も大切にしたかった。
「陽菜多、入るわよ」
「……奈緒」
ドアをノックして、陽菜多の部屋に入る。彼女は部屋の隅っこに設置した段ボールに入っていて、私の顔をちらりと見たら、ぷいっと顔を逸らした。なるほど、子供のようにわかりやすい。
それでも、陽菜多は私を否定しない。出て行くように促されたことは一度もなくて、今もそれは同じであることが、妙に心へと染み渡った。
机の上には、紙袋に包まれたパンが置かれている。
「あの、陽菜多。えっと……」
「……寂しかった」
段ボールのそばまで歩き、床に座って陽菜多と視線を合わせる。改めて近くで見ると、本当に……この世のどんな人間やうさぎよりも、美しい顔立ちをしていた。
ありのままの生き方をする動物はとても美しいけれど、人間としてもうさぎとしてもありのままであるこの子が誰よりも美しいだなんて、当たり前だった。
その一言は、私の胸を揺さぶる。狭い巣穴の中で、隠していた恋だけが大きく身じろぎした。
「……入ってもいい?」
「……うん。ここは、奈緒の巣穴でもあるから」
ああ。そんなふうに声を漏らしたいほど、嬉しい。
それでも必死に堪えて、部室のものよりも狭い、密着せざるを得ない巣穴へと足を踏み入れた。
先ほどまでパン屋を手伝っていた陽菜多からは、彼女特有の甘い香りに混ざって、パンの香ばしい匂いが染みついている。
パンの香りをまとった陽菜多は、無言のまま頭を擦り付けてきた。可愛くて、可愛くて、おかしくなりそうだった。
「ごめんなさい、遅くなって」
「いいよ。私も、奈緒を困らせたかもしれないから」
「そんなことない。私は……」
私は、きっと。自分の義務とか、飼育係だからとかじゃなくて。
ただ陽菜多のそばにいたくて、世話を焼いてきたのだから。
それは『お世話をする人間のほうがえらい』という意味じゃなく、私がそうすることで……誰よりも近くで、誰よりも大切な人の時間をもらえるのだから。
その気持ちをわかりやすい言葉にすることは難しくて、言いよどむ。こんなことなら、弥生先生にもっと現代文を教わっておけばよかったかしら……。
「……ねえ、覚えてる? 私が小さい頃、泣きながら陽菜多の巣穴に入っていたこと」
「うん、覚えてる」
短い返事の代わりに、私を気遣う赤い瞳がこちらを見つめていた。掘り起こせば痛む思い出だと、陽菜多にはわかっているのだろう。
その優しさに、今も昔も救われてきた。
「長く一緒にいたうちの犬が亡くなって、私はずっと泣いていて……陽菜多は、自分の巣穴へと私を誘ってくれた。そして、何も言わずに寄り添ってくれたわよね」
「……そうすることしかできなかったから。うさぎは、犬や猫よりも気持ちを伝えるのがへたっぴだしね」
「だけど、そんな陽菜多がいてくれたから救われたのよ」
私が物心ついて間もない頃から、我が家にはゴールデン・レトリバーがいた。
白に近い金色の体毛、いつも笑っているような温和な顔立ち、ふかふかの抱き心地……今となっては長女である私からしても、あの子はお姉さんみたいな優しい子だった。
だから、今でも思う。「どうして、犬は人間よりも早く死んでしまうの?」と。
自然の摂理は当時の私にとってはあまりにも残酷で、両親がどれだけ優しくしてくれても、ずっと泣きわめくだけだったのに。
「陽菜多は昔から、ありのままの私を静かに受け入れてくれたのよ。たくさんの言葉で励ますんじゃなくて、ただそばにいて、そして『ここにいていいんだ』って伝えてくれる。だから……」
昔からうさぎを自認していた陽菜多は、泣き続ける私の手を引いて、こうして段ボールの中へと入れてくれた。
そして今みたいにぴったりと寄り添って、ただ静寂の中で私の気持ちを共有してくれた。私が泣いていたように、陽菜多もまた、声を出さずに涙を流してくれた。
私は誰よりも優しいうさぎ少女がいてくれたからこそ、悲しみを無理に消すことなく、あの子を忘れずに、今の自分になれた。
……本当なら、もっと素直な人間になりたいけれど。その課題は、未来の自分に押し付けておこう。
「私は、あんたのことを人間だと思っているわ。だけど、陽菜多の中のうさぎまで否定したくはない。陽菜多がうさぎだったからこそ救われた私だから」
だから私は、陽菜多が好き。
陽菜多を好きになれた自分が、ちょっとだけ……ううん、嫌いじゃない。
もしも自分のことも好きになれる日が来るとしたら、それはきっと、陽菜多に「好き」というありのままの気持ちを伝えられたときなんだろう。
だから今は、これでいいんだ。
「私は、陽菜多そのものを大切にできる私でいたい。陽菜多が自分の中のうさぎを、そして私に寄り添ってくれる自分を大切にしているように」
陽菜多はしばらく黙ったあと、触れ合っていた肩へ、ほんの少しだけ重みを預けてきた。
願わくばその行動の根源に、私と同じ感情が抱かれていますように。
「んっ……くすぐったいわよ、もう」
「……ウサ♪」
陽菜多は返事をする代わりに、頭をすりすりっと擦り寄せてきた。ふわふわのアンゴラみたいな髪が、私の顔をくすぐる。
そして私も同じように額を擦り付けてみたら、可愛い鳴き声と一緒に微笑んでくれた。
「ねえ、星が『今度は同好会のみんなとカラオケに行こう』っていってたけど……どうする?」
「……うーん……騒がしいのは苦手だけど、カラオケボックスって巣穴の設置場所としては悪くない気がする。薄暗いし」
「一応注意しておくけど、本当に実行しないでよ? 怒られるのは先生や私なんだから……」
「ふふ、わかってるよ。それに、カラオケよりも先にうさぎカフェや飼育施設に行くでしょ? 私、そっちのほうが楽しみかな」
陽菜多との関係がどんなふうに変わるのか、それはわからないけれど。
だとしても、この子はずっと今みたいに寄り添ってくれる気がする。
それがわかっただけでも私は満足で、気付いたらいつもの関係に戻っていた……正確には、私はもっと陽菜多を好きになったのだけど。
この後、陽菜多が用意してくれたパンをひとつだけ味見した。陽菜多は会えなかった時間を埋めるように「食べさせて」と甘えてきたので、私は「手がかかるわね」と言いながら、飼育係みたいにパンを食べさせていた。




