紅梅の章9 王の降臨
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紅梅の章9 王の降臨
その姿は宛ら、獲物を前にした獣。
どうやって追い詰めてやろうかと、虎視眈々と様子を窺う葛音の威に圧し負けた三吉が、自らに対する最後通牒を喚いたのだ。
「も、元妓女上りが、生意気な!」
葛音は何も言わなかった。
眉すら動かさず、目を眇めすらせず、「へぇ」の一声すら漏らさず。
だから、一層、その場が凍った。
葛音が何の反応も返さなかったのは、何を今更そんな当たり前の事を、と侮蔑の念しか湧かなかったからだ。
確かに自分は元妓女で、それが楼主の座に就いた成り上がりだ。それについてはどんな言い方をされようとも事実であるので、葛音には兎や角言う心算は無い。
旦那方や付き人達、客の見送りに出ていた女や禿や、つまりはその場にいた道化と楼主を除いた、その場に居合わせた全員が凍り付いたのは、三吉が、全盛期の白梅を知らぬ事に対してだった。
知っていたなら、老いたりとは言えその白梅に、あの雑言は有り得ない。
言える筈がない。
当時の白梅――葛音の、威勢、覇気、矜持、今の紅梅にも勝るとも劣らぬその、平たく言うなら凄み、恐ろしさを、自称でも典夜町の顔役を自任するくせに、それを知らずに元妓女風情、即ち、牡丹楼の筆頭ではなく、ただの妓女扱いした事に対して、神をも畏れぬ所業を目にしたかの如く、驚愕と共に恐れ慄いたのだ。
そうして、愚かな発言の主が、異様な静寂に逆に戸惑う程の沈黙が、どれ程続いたろうか。
漸く、葛音が、小首を傾げた。
本当に心の底から、不思議そうに。
「――ふぅん?」
そうすると、嘗ての、多くの男達を虜にした、妖艶さの中に有ったあどけなささえもが蘇った様だった。
客の中には、当時の白梅を知る者も少なからず居る。
白梅の贔屓になれたかどうかに拘わらず、往時の魅力を彷彿とさせる姿に、軽く頬を染めながら陶然となる、知命の者さえ居た。
現役を退いたとは言え、葛音は三十八歳。流石に客を取る程悪趣味ではないが、経た歳月の分だけ円熟した妖艶さを得て、漏れる色気は濃く深く、匂い立つ様に妖しかった。
「じゃあさ、その妓女上りの、元妓女風情のあたしに、見下ろされてるあんたは、何なんだい?」
――……ぶふっ、と、誰かが、素で盛大に噴いた。
上昇志向と、矮躯と。どちらにも取れる痛烈な皮肉。
三吉の理解が及ぶ範疇で、これ以上のものは無いだろうと、誰もが葛音への喝采と共に道化の反応を待った。のだが。
派手な失笑に、数拍遅れて、三吉の面に朱が差した。
――鈍い。
自分に何を言われたのかを理解するのに、周囲とのそれだけの時間差。
当人を除いた全員が、道化の頭上に「愚鈍」と彫った扁額を載せた姿を思い描く。
目に痛い程の色を組み合わせて、態とだらしなく着崩した道化の衣装が、実に良く似合った。
その全員の脳裏を除く芸当等出来る訳もなかろうが、冷罵の雰囲気は察したのだろう、羞愧と憤激で、脳天まで真紅に染まったが如き小男が、喚きたくとも上手く言葉に出来ず、感情の儘、締まりの無い唇を、ふるふると戦慄かせる。
「こっ、こっ、この……っ」
鶏かよ、と内心で独り言ちた葛音は悪くない。
妓楼の朝には無粋な、朝告げる鳥。
もう少し、もう四半時、と、腕の中の、夜を共にした妓女を手放し難く縋る客の耳朶を不愉快に打つ、甲高い鳴き声。
客を骨抜きにして居続けにするか、手早く帰して新たな夜を迎えるかは、妓女と客との駆け引き次第。
鶏は客の背を押す常套句に良く使われたが、百万の手管にも勝る、不夜の城の女王の来臨を告げるには、どう鑑みても役者不足だったろう。
それでも。
「――何とまぁ。白に喰って掛かる奴が居ると聞いて降りてみれば……」
その、最初の一音。
それが降っただけで、道化と葛音以外が肌を粟立たせ、道理の通らぬ事ではあるが、無音にも拘らず周囲は騒然となった。
一滴の慈雨の様な、或いは、巡り合えたが僥倖とされる瑞兆の如き。
その場に齎された――正しく、天祐が下賜されたに等しい――のは、後に、全ての妓女が憧れたその美声。
人の手では決して作り出せぬ、蒼天の最も澄んだ部分を薄く切り取り、精緻に、慎重に、天界の名工が心血を注いで組み合わせた様な、妙なる音。
多くの後輩妓女が、同じ声は無理でも、こうありたいと焦がれ、望んで、軽妙な言い回し、相手を酔わせる抑揚、自然と言葉に籠った矜持と覇気、艶麗さ、それと絶妙の均衡を得る才智、を、あらゆる方面で研鑽を積んで会得しようと努力し、真似て学ぼうとしたそれは、正に玲瓏玉の如き美声。
天女の歌声、或いは、天女が奏でる弦楽。
唯一人、その楽を赦された者が、階上から降臨したのだ。
古の故事より、美女の歩く様を金蓮歩と言う。
足の爪の形まで綺麗に整えられた足は白く細く、生まれてからこれまで一度も陽の光に晒された事は無く、土を踏んだ事すら無いかの如く汚れ無い。
この足になら、踏み拉かれ、砕けて散った金の花も、本望であろうとさえ思える。
けれど、纏う衣装は豪勢だ。
重厚な黒地に、金の牡丹と獅子の縫い取り。時折光るのは、銀糸を織り込んだ帯の孔雀。
敢えて襟を抜かずとも、簡単に括っただけに思える髪の、毛先から垣間見える項は、色香が目に視えるが如く艶めかしい。
深紅をどれ程深めれば黒に達する事が出来るのか。行燈と紙燭の橙だけでも艶が零れる黒髪に、無造作に挿した金釵が、その艶を得て弾いて、垂らした細い金鎖さえもが眩く揺れる。
人々は言う。
その姿は奇跡。
口々に――語る。
そして、その奇跡を目に出来たは、天にも稀な僥倖――と。
今も、ゆっくりと、女王の来臨の如く階を、一段、また一段と、泰然と降りて姿を現すその様に、殆どが言葉と目を奪われ息を呑む。
虜にならなかったのは、正体を知る葛音だけ。
その葛音ですら、高名な文人が、彼女を讃えた詩の一節を不意に思い出した程だ。
――華やかなりし、闇の王、と。
嘗て、初めてその詩を耳にした時、ああ、と、嘆息と共に得心が行ったものだ。
やはり、彼女は、誰の目にも王と映るのだ、と。
そんな事を、徒然に回顧していたからだろうか。
葛音だけが、圧倒的存在に絡め捕られず、気付いて、おや、と刹那、眉を顰めた。
無論、他者にそれを気取られる事は、元筆頭妓女の矜持を以て、させないけれど。
愚者の騒ぎで表に集まった、物見高い野次馬達。序に女達の艶姿を一目でも、恩恵に与れないかと出来た幾重もの人垣の中に、歌代の元の主、浮月の楼主……元楼主、崔衛門の姿が有ったような……。
一方で、圧倒的覇気を放つ存在の周囲では、新たな一幕が始まっていた。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
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