【第八十五話】「再会……三度……」
黒霧狼が静かに灰となって消え去り、第九隊はその奥へと続く暗闇を進んでいた。
湿った冷気と、鉄と泥が混ざり合ったような不快な匂い。
地下深くから響く「ドクン……ドクン……」という底知れない地鳴りのような脈動が、足裏から全身の骨へと伝わってくる。
昨夜の死闘を乗り越え、ひとつの連携を完成させた彼らだったが、だれ一人として緊張を緩めてはいなかった。全員が武器の柄を強く握り締め、暗闇の先へ警戒の目を光らせる。
その時だった。
前方を歩いていたウエスが、突如としてピタリと足を止めた。
「……誰だ?」
ウエスの低く鋭い声に、後ろを追っていたリアナたちが息をのむ。
通路の先、崩れかけた巨大な石柱の影――松明の光も届かない薄暗い闇の中に、ぽつりと「人影」が立っていた。
それは迷宮の魔獣でもなく、黒霧でできた獣の異形でもない。どこからどう見ても、人間そのものの立ち姿だった。
(人間……? なぜ、こんな深淵に……)
第九隊の全員の脳裏に、強い違和感と戸惑いが走る。
その人影が、ゆらりと不気味に揺れた。
「……いた……」
かすれた、まるで壊れた喉から搾り出すような粘りつく声が、静寂の空洞に響く。
「……ウエス……」
「……っ、その声は――!」
ウエスが驚愕に目を見開いた、まさに次の瞬間だった。
「死ねぇっ……ウエス殺す……!!」
ドッ!!
大気が爆ぜるような凄まじい踏み込みの音が轟いた。
暗闇を切り裂き、黒い霧を纏った影が一直線に肉迫してくる。言葉を交わす余地すら与えない、純粋にして圧倒的な殺意の爆発。
「くっ……!」
ガギィィィンッ!!
ウエスは反射的に腰の剣を抜き、斜め上へとはね上げた。
強烈な閃光と火花が散り、その瞬間の光が暗闇を一瞬だけ白く照らし出す。
視界に浮かび上がったのは、禍々しい黒霧を全身から噴き出し、激昂と絶望に顔を酷く歪ませた男の相貌だった。
「カイル……!?」
後方にいたリアナとミレイユが、信じられないものを見たように悲鳴を上げた。
「みんな、下がるんだ! 間合いに入るな!」
ウエスの必死の制止が飛ぶ。
ガレンとユアンが助けに入ろうと前へ踏み出しかけたが、その足は強制的に止められた。
入ろうにも、入れないのだ。
二人が繰り出す剣の激突から生まれる凄まじい剣風と、暴風のような狂気が、周囲一帯に絶対的な立ち入り禁止の領域を作り出していた。一歩でも小足を踏み入れれば、その殺気の渦に巻き込まれて細切れにされかねない。
かつてのカイルではない。
身体能力、踏み込みの深さ、振り下ろされる剣の質量――すべてが常軌を逸した領域へと引き上げられていた。
ガガガガガガンッ!
神殿の跡地に、連続する凄惨な金属打撃音が激しく響き渡る。
(……魔力を吸い取ってはいない……!)
超高速度の攻防の渦中で、ウエスは冷徹に相手を観察していた。
先ほどの黒霧狼のように、こちらの魔法や物理攻撃を無効化したり、魔力を吸収して糧にしたりするような異質な現象は起きていない。カイルには攻撃が確実に通じる。
だが――攻撃が「通じる」ことと、「防ぎきれる」ことは全く別だった。
圧倒的な速さと重さの暴力。
ウエスは泥臭く培ってきた技術のすべてを注ぎ込み、剣の腹で受け流し、最小限の体裁きで直撃を逸らすので手一杯だった。反撃の糸口どころか、呼吸する一瞬の隙すら与えられない。
完全な防戦一方。
「ぐっ……ガハッ!」
受け流しきれなかった重圧の余波が胸を叩き、ウエスは岩盤の上を叩きつけられるように数メートル後退した。胸の奥が焼き切れるように熱く、口から鮮血が噴き出す。
「ウエス隊長!」
「来るなと言っている!」
血を吐きながら立ち上がるウエスの眼前に、すでにカイルの追撃が迫っていた。休む間もなく、死力を尽くした防衛戦が再開される。
だが、本当の地獄はここからだった。
(……な、んだ……手が……!?)
刃を重ねるたび、カイルの身から溢れ出る黒霧が、ウエスの剣を伝ってその両腕へとまとわりついていた。
それは単なる煙ではない。
肌に触れた瞬間から、ズブズブと毒のように皮膚を通り抜け、肉体へと染み込んでくる。
氷のように冷たく、そして、泥のように重い。
黒霧が侵食したウエスの両腕から、急速に感覚が失われていくのが分かった。
血管の中の血が凍りついていくような不快な痺れ。剣を握り込む指先の力が失われ、攻撃を受け流す腕の動作が、わずかに、しかし致命的に遅れ始めていた。
(動きが……鈍っていく……! 身体が、拒絶している……!?)
黒霧はウエスの手首から肘、肩へ、そして胸元へと着実に侵食の範囲を広げていく。
ただでさえ圧倒的なカイルの暴力に対し、こちらの身体は刻一刻と自由を奪われ、麻痺していくのだ。
「ウエス……ウエス……!」
感情を削ぎ落としたような、カイルの濁った赤黒い瞳が至近距離でウエスを捉える。
黒い霧を纏ったカイルの剣が、侵食によって動きの鈍ったウエスの死角から、容赦なくその首元を狙って振り抜かれた。
(まずい……このままじゃ……!!)
ウエスの視界が、不気味な黒い冷気に塗りつぶされようとしていた。




