【第八十四話】 風のつかい方
深呼吸を一つ。
リアナは、肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
(風は……魔力じゃない。空気を動かすだけ……)
目を閉じ、自身の中に巡る魔力回路を極限まで押し込める。
魔導士にとって、それは己の手足を縛るような恐ろしい感覚だ。だが、今のリアナは恐れなかった。
代わりに研ぎ澄ませたのは、肌に触れる空気の温度、湿度、そして微かな気流の変化。指先で「風」という自然現象そのものを感じるのだ。
目を開く。
目前で渦巻く黒霧狼の身体は、確固たる質量を持った壁ではなく、絶えず流動する「流体」だった。
流れがあるなら、必ずそこに「隙間」が生じる。
(そこ……!)
リアナは杖の先を向け、魔力を一切込めずに、ただ周囲の空気をその「隙間」へと滑り込ませた。
強風ではない。だが、極めて正確な角度とタイミングで送り込まれた物理的な気流が、黒霧の渦に楔のように打ち込まれる。
サァァッ……!
先ほどまで頑なに再構築を繰り返していた黒霧が、不自然なほどあっさりと解け、散った。
「リアナ……! 今のは……!」
ガレンが驚愕に目を丸くする。
「霧の再構築が遅れてる……!」
ミレイユの弾んだ声が飛んだ。
魔力という「餌」を与えられなかったことで、黒霧狼の修復機能が明確に鈍ったのだ。
リアナの放った純粋な風が、強固な黒霧の鎧に決定的な綻びを生んだ。
「いける……! 全員、リアナの作った道に続け!」
ウエスの号令とともに、第九隊の歯車が完全に噛み合った。
リアナが極限まで魔力を削ぎ落とした精密な風で、黒霧の装甲を次々に剥がしていく。
そのわずかな霧の薄らぎから、ミレイユが即座に本体の動きを観測する。
「右斜め下、核が移動します!」
ミレイユの指示を受け、ガレンが吠えた。
「オラァッ!!」
炎を捨てた大剣が、純粋な鉄の暴力となって黒霧の残骸を叩き割る。
そこへ、ユアンの長槍が音もなく滑り込む。
「そこだっ……!」
魔力を持たない鋭い突きが、防壁を失った核を正確に捉え、黒霧狼に悲鳴のような不快な摩擦音を上げさせる。
反撃とばかりに黒霧狼が巨大な前足を振り下ろすが、そこにはすでにドレイクの大盾が構えられていた。
「甘いぜ……!」
魔法障壁なしの物理的な衝撃を、ドレイクは強靭な足腰と盾の角度だけでいなし、完全に殺し切る。
リアナが霧を散らす。
ミレイユが核を読む。
ガレンが道を切り開く。
ユアンが急所を穿つ。
ドレイクが反撃を封じる。
そして、ウエスが戦場全体のテンポを支配する。
かつて辺境の落ちこぼれ部隊と呼ばれた彼らが、「魔力を使わない」という枷をはめられた絶望の淵で、一つの完璧な生命体のように連動していた。
削られ、追い詰められた黒霧狼の動きに、明らかな焦りが混じる。
そして――。
ヴゥゥゥン……!!
黒霧狼が全身の霧を限界まで膨張させた。
自らを犠牲にしてでも周囲すべてを吹き飛ばし、核を守り抜こうとする最後の自爆的防衛行動。
大空洞の空気が震え、死を孕んだ濃密な黒霧が津波となって第九隊に襲いかかる。
「させない……!」
リアナが一歩前に出た。
杖を両手で握り締め、下から上へ大きく振り抜く。
魔力ではない。彼女自身の決意と、仲間を信じる心が引き起こした、巨大な上昇気流。
ゴォォォォッ!!
放たれた風の壁が、襲い来る黒霧の津波を真正面から受け止め、強引に上空へと押し返した。
黒霧が天井に叩きつけられ、雨のように四散する。
「核、露出しました!」
ミレイユの叫びが響き渡った。
むき出しになった赤い結晶。黒霧狼の命そのもの。
「行くぞ!!」
ガレンの大剣が、残った霧の残滓を完全に薙ぎ払う。
「刺す!!」
ユアンの槍が、赤い結晶の中心に深く突き刺さり、ピキリと亀裂を走らせる。
「押し込む!!」
ドレイクが盾で獣の巨体を抑え込み、逃げ道を完全に塞ぐ。
「全員、合わせろ!!」
ウエスが地を蹴った。
魔力を失い、ただ剣を振るうことしかできなかった日々。その泥臭い反復のすべてが、この一撃に込められていた。
一切の魔力を帯びていない、純粋にして究極の物理の刃。
閃光。
ウエスの剣が、ユアンの槍が作った亀裂に吸い込まれ、赤い「核」を真っ二つに両断した。
パァァァンッ……!!
硬質なガラスが砕け散るような高い音が、空洞に響き渡る。
砕けた赤い光の破片が宙を舞い、それと同時に、あれほど強大だった黒霧狼の巨体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
サラサラと、ただの黒い灰となって岩盤に降り注ぎ、やがて空気中に溶けるように静かに消滅していく。
「……やった……」
ユアンが槍を下ろし、荒い息をつきながら呟く。
ガレンもドレイクも、全身の筋肉を震わせながら、安堵の息を吐き出した。リアナは足から力が抜け、その場にへたり込む。
「全員、よくやった。怪我は――」
ウエスが皆を労おうと振り返った、その瞬間だった。
ドクン。
大気を揺るがすような、重厚で巨大な脈動。
消滅した黒霧狼からではない。
それは、黒霧狼が守るように立っていた、深淵のさらに奥――漆黒の暗闇から響いてきた。
冷たい汗が、再び全員の背中を伝う。
先ほど退けた黒霧狼の存在さえ霞むような、底知れない狂気と圧迫感。
ウエスは剣を下ろさず、そのまま深淵の奥を強く見据えた。
「……まだ終わりじゃない」
誰に言うでもなく、低い声が漏れる。
「あれは……何かを守っていた」
ドクン。
応えるように、再び深い地下から地鳴りのような脈動が響く。
「なら、その先に何かがある」
何が潜んでいるのかは分からない。だが、自分たちが掴みかけた手応えと真実を、あの暗闇の先にある。
第九隊は誰も言葉を返さなかった。ただ、覚悟を込めて静かに武器を握り直す。
張り詰めた静寂の中、彼らは黒霧狼が退いたその先へ、一歩ずつ足を踏み進めていった。




