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辺境の元英雄と光の癒し手 -共鳴の絆-  作者: もちすけ34


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【第八十四話】 風のつかい方

深呼吸を一つ。

リアナは、肺の奥まで冷たい空気を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。


(風は……魔力じゃない。空気を動かすだけ……)


目を閉じ、自身の中に巡る魔力回路を極限まで押し込める。

魔導士にとって、それは己の手足を縛るような恐ろしい感覚だ。だが、今のリアナは恐れなかった。

代わりに研ぎ澄ませたのは、肌に触れる空気の温度、湿度、そして微かな気流の変化。指先で「風」という自然現象そのものを感じるのだ。


目を開く。

目前で渦巻く黒霧狼の身体は、確固たる質量を持った壁ではなく、絶えず流動する「流体」だった。

流れがあるなら、必ずそこに「隙間」が生じる。


(そこ……!)


リアナは杖の先を向け、魔力を一切込めずに、ただ周囲の空気をその「隙間」へと滑り込ませた。

強風ではない。だが、極めて正確な角度とタイミングで送り込まれた物理的な気流が、黒霧の渦に楔(くさび)のように打ち込まれる。


サァァッ……!


先ほどまで頑なに再構築を繰り返していた黒霧が、不自然なほどあっさりと解け、散った。


「リアナ……! 今のは……!」


ガレンが驚愕に目を丸くする。


「霧の再構築が遅れてる……!」


ミレイユの弾んだ声が飛んだ。


魔力という「餌」を与えられなかったことで、黒霧狼の修復機能が明確に鈍ったのだ。

リアナの放った純粋な風が、強固な黒霧の鎧に決定的な綻びを生んだ。


「いける……! 全員、リアナの作った道に続け!」


ウエスの号令とともに、第九隊の歯車が完全に噛み合った。


リアナが極限まで魔力を削ぎ落とした精密な風で、黒霧の装甲を次々に剥がしていく。

そのわずかな霧の薄らぎから、ミレイユが即座に本体の動きを観測する。


「右斜め下、核が移動します!」


ミレイユの指示を受け、ガレンが吠えた。


「オラァッ!!」


炎を捨てた大剣が、純粋な鉄の暴力となって黒霧の残骸を叩き割る。


そこへ、ユアンの長槍が音もなく滑り込む。


「そこだっ……!」


魔力を持たない鋭い突きが、防壁を失った核を正確に捉え、黒霧狼に悲鳴のような不快な摩擦音を上げさせる。


反撃とばかりに黒霧狼が巨大な前足を振り下ろすが、そこにはすでにドレイクの大盾が構えられていた。


「甘いぜ……!」


魔法障壁なしの物理的な衝撃を、ドレイクは強靭な足腰と盾の角度だけでいなし、完全に殺し切る。


リアナが霧を散らす。

ミレイユが核を読む。

ガレンが道を切り開く。

ユアンが急所を穿つ。

ドレイクが反撃を封じる。


そして、ウエスが戦場全体のテンポを支配する。


かつて辺境の落ちこぼれ部隊と呼ばれた彼らが、「魔力を使わない」という枷をはめられた絶望の淵で、一つの完璧な生命体のように連動していた。


削られ、追い詰められた黒霧狼の動きに、明らかな焦りが混じる。

そして――。


ヴゥゥゥン……!!


黒霧狼が全身の霧を限界まで膨張させた。

自らを犠牲にしてでも周囲すべてを吹き飛ばし、核を守り抜こうとする最後の自爆的防衛行動。

大空洞の空気が震え、死を孕んだ濃密な黒霧が津波となって第九隊に襲いかかる。


「させない……!」


リアナが一歩前に出た。

杖を両手で握り締め、下から上へ大きく振り抜く。

魔力ではない。彼女自身の決意と、仲間を信じる心が引き起こした、巨大な上昇気流。


ゴォォォォッ!!


放たれた風の壁が、襲い来る黒霧の津波を真正面から受け止め、強引に上空へと押し返した。

黒霧が天井に叩きつけられ、雨のように四散する。


「核、露出しました!」


ミレイユの叫びが響き渡った。


むき出しになった赤い結晶。黒霧狼の命そのもの。


「行くぞ!!」


ガレンの大剣が、残った霧の残滓を完全に薙ぎ払う。


「刺す!!」


ユアンの槍が、赤い結晶の中心に深く突き刺さり、ピキリと亀裂を走らせる。


「押し込む!!」


ドレイクが盾で獣の巨体を抑え込み、逃げ道を完全に塞ぐ。


「全員、合わせろ!!」


ウエスが地を蹴った。

魔力を失い、ただ剣を振るうことしかできなかった日々。その泥臭い反復のすべてが、この一撃に込められていた。

一切の魔力を帯びていない、純粋にして究極の物理の刃。


閃光。


ウエスの剣が、ユアンの槍が作った亀裂に吸い込まれ、赤い「核」を真っ二つに両断した。


パァァァンッ……!!


硬質なガラスが砕け散るような高い音が、空洞に響き渡る。

砕けた赤い光の破片が宙を舞い、それと同時に、あれほど強大だった黒霧狼の巨体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


サラサラと、ただの黒い灰となって岩盤に降り注ぎ、やがて空気中に溶けるように静かに消滅していく。


「……やった……」


ユアンが槍を下ろし、荒い息をつきながら呟く。

ガレンもドレイクも、全身の筋肉を震わせながら、安堵の息を吐き出した。リアナは足から力が抜け、その場にへたり込む。


「全員、よくやった。怪我は――」


ウエスが皆を労おうと振り返った、その瞬間だった。


ドクン。


大気を揺るがすような、重厚で巨大な脈動。


消滅した黒霧狼からではない。

それは、黒霧狼が守るように立っていた、深淵のさらに奥――漆黒の暗闇から響いてきた。


冷たい汗が、再び全員の背中を伝う。

先ほど退けた黒霧狼の存在さえ霞むような、底知れない狂気と圧迫感。


ウエスは剣を下ろさず、そのまま深淵の奥を強く見据えた。


「……まだ終わりじゃない」


誰に言うでもなく、低い声が漏れる。


「あれは……何かを守っていた」


ドクン。


応えるように、再び深い地下から地鳴りのような脈動が響く。


「なら、その先に何かがある」


何が潜んでいるのかは分からない。だが、自分たちが掴みかけた手応えと真実を、あの暗闇の先にある。

第九隊は誰も言葉を返さなかった。ただ、覚悟を込めて静かに武器を握り直す。


張り詰めた静寂の中、彼らは黒霧狼が退いたその先へ、一歩ずつ足を踏み進めていった。

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