【第八十三話】 黒霧狼・再戦
深淵の底、肌を刺すような冷気と重圧が支配する大空洞。
第九隊の六人が再び足を踏み入れると、昨日の惨劇の舞台となった広大な岩石地帯の只中に、黒色の獣は静かに佇んでいた。
ゆらりと揺れる黒霧の巨体。その奥で不気味に赤く光る双眸が、六人を真っ直ぐに見据えている。
まるで、彼らが再び死地へ戻ってくることを知っていたかのような、底知れない静けさだった。
昨日の圧倒的な恐怖は、誰の心からも消えてはいない。だが、震えを押し殺して武器を構える全員の目には、理に裏打ちされた確かな覚悟が宿っていた。
「作戦通りに行く。魔力は使うな。“風”と“物理”で突破する」
ウエスの低く鋭い号令が、凍てついた空気を切り裂く。
全員が力強く頷いた。
「おおおおおっ!」
先陣を切ったのはガレンだった。炎を纏わない、ただの重鉄と化した大剣を力任せに振り下ろす。
刃が黒霧の表面を捉え、ズバァン!と重い音を立てて霧を散らした。だが、そこまでだった。いつもなら炎の爆発力が刃をさらに押し込み、敵の体勢を崩すところだが、純粋な筋力だけのスイングでは、黒霧の分厚い抵抗を裂ききれない。
「くそっ……! 魔力なしじゃ、押し切れねぇ!」
ガレンが歯噛みし、強引に体勢を立て直す。
直後、黒霧狼が無音で跳躍し、前衛に向けて強烈な質量を伴う霧の衝撃波を放った。
「ぐっ……!」
ドレイクが大盾を斜めに構え、その衝撃を真正面から受け止める。
魔法障壁という見えないクッションを失った盾は、強烈な運動エネルギーをダイレクトにドレイクの腕へと伝えた。岩のように硬い彼の筋肉が悲鳴を上げ、強化したばかりの盾の表面から、ミシミシと不吉な軋み音が響く。
「このままじゃ……持たん!」
ドレイクが顔を歪めながら叫ぶ。
その横から、ユアンが滑り込むように長槍を突き出した。
魔力を持たない彼の刺突は、黒霧に吸収されることなく、スッと滑らかに獣の胴体を貫く。
「いける……!」
だが、その希望は一瞬で打ち砕かれた。貫かれた端から黒霧が猛烈な勢いで逆流し、槍の軌道を塞ぐように再構築されてしまうのだ。手応えはあるのに、致命傷には程遠い。
「刺さるけど……止められない……!」
ユアンが槍を引き抜きながら後退する。
「リアナ!」
ウエスの声に、リアナが木杖を強く握り直した。
(魔力を削ぎ落とす……ただの空気の対流だけを起こす……!)
彼女は必死に自身の魔力回路を抑え込み、純粋な風圧だけを前方に放った。
フワァッ、と黒霧狼の表面の霧が風に煽られて僅かに散る。だが、魔力による破壊力を持たないその風は、戦局を動かすような決定的な突風にはなり得なかった。
「怖い……魔力を乗せない風なんて……頼りなさすぎる……!」
リアナの額に冷たい汗が浮かぶ。致命的な隙だらけの自分に、足が震えた。
「駄目です……!」
後方で魔導記録を開いていたミレイユが、焦燥に駆えた声を上げる。
「核が……動いている……!?」
黒霧狼の胸の奥で赤く脈動していた本体である「核」。それが固定されておらず、霧で構成された体の中を、攻撃を避けるように不規則に移動し始めていたのだ。
第九隊が「魔力を使わない」という戦術に出たことを悟ったのか、黒霧狼の動きが変わった。
ヴゥン……という低い耳鳴りのような音と共に、黒霧狼の身体が一気に膨張する。昨日とは比にならないほどの重密な圧力を持った霧の波が、全方位へ向けて爆発的に広がった。
「ぐあああっ!」
ガレンが大剣を盾にするも、凄まじい物理적圧力に押し負け、ブーツを岩盤に擦りながら後退する。
ドレイクの盾にさらに鋭い亀裂が走り、リアナはたまらず後ろへよろけた。ユアンは足元の霧に足を取られて膝をつき、ミレイユは衝撃でバランスを崩し、大切な計測器を取り落としそうになる。
「落ち着け! まだ崩れるな!」
ウエスの叱咤が飛ぶ。
だが、全員の心に重苦しい現実が突きつけられていていた。
――理論は正しい。魔力を使わなければ吸収されない。
だが、相手は深淵を生き抜いてきた未知の化け物だ。「魔力を使わずに戦う」という縛りを抱えたまま、この圧倒的な暴力の差を覆すことは、実戦においてはあまりにも困難だった。
黒霧がさらに濃さを増し、前衛を飲み込もうと迫る。
その広がりの中で、霧が引き伸ばされた一瞬、獣の右肩付近に赤い「核」が無防備に露出した。
(あそこ……!)
リアナが反射的に杖を向ける。
だが、魔力を抑え込まなければならないという強迫観念が、彼女の行動を縛っていた。
(魔力を乗ちゃ駄目。弱く……弱くしなきゃ……)
生み出されたのは、そよ風にも満たない微弱な空気の揺らぎ。
(こんな風じゃ、何も守れない……!)
リアナが絶望しかけたその時、彼女の脳裏にある感覚がよぎった。
(……風は……魔力じゃない……)
そうだ。魔法とは、魔力を自然現象に変換する技術だ。
だが「風」そのものは、ただ空気が移動する物理現象に過ぎない。魔力で威力を高めようとするから吸収される。必要なのは「威力」ではなく、霧という流体を物理的に「押し流す」ことだ。
リアナの杖の先から放たれた、本当に微弱な、だが淀みのない純粋な空気の波。
それが黒霧狼の右肩にぶつかった瞬間――。
サァッ……!
まるで分厚いカーテンがめくれるように、黒霧狼の霧が“ほんの少しだけ”綺麗に押し流された。
「今の……! 霧が散った!」
ミレイユが目を見開いて叫ぶ。
「リアナ、今のだ! その風を使え!」
ウエスが間髪入れずに声を張り上げた。
「でも……弱すぎて……!」
リアナは戸惑う。魔導士としての常識が、あんな破壊力のない風では意味がないと告げている。
「弱いからいいんだ! 魔力が乗ってないから効く!」
ウエスの確信に満ちたその言葉に、リアナの目にハッと光が宿った。
魔力という「重り」がないからこそ、風は純粋な物理現象としてあの異質に干渉できる。
「行きます……!」
リアナが杖を両手で握り締め、腹の底から息を吐き出した。
魔力を完全に遮断し、ただ周囲の空気を大きく押し出すことだけに集中した突風が放たれる。
ゴォォォッ!
風の波が黒霧狼の正面に激突した。魔力を持たないただの強風は、獣の巨体を吹き飛ばすには至らない。だが、表面を覆う黒い霧を大きく剥ぎ取り、その奥で妖しく脈動する「核」への一直線の道を見事に切り開いた。
「今だ!!」
ガレンが咆哮とともに地を蹴る。炎のない大剣が、開かれた霧のトンネルを一直線に突き進む。
その横を縫うように、ユアンの長槍が銀色の閃光となって核のド真ん中へと吸い込まれていく。
あと一メートル。あと数十センチ。
だが――。
黒霧狼は深淵の番人だ。生存本能が、彼らの想定を凌駕した。
核に刃が届く直前、弾け飛んでいたはずの黒い霧が、物理法則を無視した異常な速度で内側へ収縮した。開かれた穴が、瞬きする間もなく黒い壁となって再構築される。
ガチンッ!!
ユアンの槍先が、分厚い霧の圧に阻まれて弾かれた。
「届かない……!」
ガレンの渾身の斬撃も、霧の奔流に受け流され、空しく岩盤を叩き割る。
「あと一歩なのに……!」
「核が……隠れた……!」
ミレイユが絶望的な声を上げる。
黒霧狼が低い咆哮を上げ、再び濃密な闇を纏ってゆっくりと身構えた。
その姿は、小手先の戦術などでは決して揺るがない圧倒的な絶対者の威容だった。
ウエスは自身の剣の柄を強く握り締め、黒い壁を睨みつけた。
「まだだ……まだ足りない……!」
ギリッと奥歯を噛み締める音が、冷たい大空洞に空しく響いた。




