【第八十二話】 再戦への道筋
安全圏と判断した中層の崩落跡まで戻り、第九隊はその場に崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……っ」
リアナが冷たい岩壁に背を預け、必死に荒い息を整えようとしている。だが、その指先は小刻みに震え、固く握っていたはずの木杖がカタリと音を立てて手から滑り落ちた。拾い上げようとするものの、力が入らない。
ミレイユが膝に顔をうずめたまま、こめかみを強く押さえていた。視界がグニャリと揺れ、頭の奥を直接重器で殴られたような激しい頭痛が引かない。
魔力を直接根こそぎ吸い上げられたことによる疲労は、単なる肉体の限界とはまるで違っていた。内側から生命力を直接削り取られたような、冷たく不快な脱力感と寒気が全身を支配している。
ガレン也また、大剣を地面に突き立てたまま腕を激しく痺れさせていた。持ち前の腕力で持ち上げようとしても、指先の感覚が麻痺し、柄を握り込む力が湧いてこない。
ドレイクは呼吸こそ静かだったが、大盾を支え続けた両腕の筋肉が岩のように固まり、動かすたびに筋肉が千切れそうな音を立てて軋んでいた。
ウエスとユアンも足腰には極限の疲労が溜まっていたが、二人は比較的早く立ち上がることができた。魔力による疲労がないというただそれだけの違いが、いま二人の行動力を分けている。
ウエスは無言で水筒の栓を抜き、リアナとミレイユの口元へ優しく運んだ。
全身を蝕む不快な消耗感に耐えながらも、誰の目からも戦意の火は消えていなかった。
「……さて。整理しよう」
全員の呼吸がどうにか落ち着いたのを見計らい、ウエスが低い声で切り出した。
岩盤の上に広げられた粗末な地図と、ミレイユが震える手で開いた魔導記録。
それを囲むように、六人が身を寄せる。
「昨日のあれ……どう呼ぶ?」
ミレイユが、掠れた声で羊皮紙を見つめながら呟いた。
「魔獣とは言い切れません。黒い霧を纏い、こちらの魔力を吸い取って糧にする狼型の存在……」
「なら、ひとまず『黒霧狼』でいいんじゃないか」
ウエスがそう言うと、ガレンが痺れる腕を組んで重々しく頷いた。
「黒霧狼……か」
「今後はそう呼びましょう。少なくとも、あれをただの魔獣として扱うのは危険です」
ミレイユが羽ペンを取り、記録の最上部にその名を力強く書き込む。
――黒霧狼。
第九隊は、あの異形を正式にそう呼ぶことに決めた。
「もう一度、奴の立ち振る舞いを振り返る」
ウエスが指先で地図の一点を突いた。
「黒霧狼の身体は実体を持たない黒霧だ。こちらの攻撃が届いた瞬間、散った霧がまるで時間を巻き戻すように、猛烈な勢いで中心へと逆流して形を再構築していた。その再構築の瞬間、奴の胸の奥でチリチリと光っていた『核』……あれが本体だ」
「ああ……思い出すだけでも気味が悪い」
ガレンが渋い顔で唾を吐く。
「燃やしても斬っても、俺たちの攻撃から吸い取った魔力で赤い瞳をいっそう妖しく輝かせてやがった。吸えば吸うほど勢いを増すなんざ、反則だろ」
「だが、無敵じゃない」
ウエスの静かな言葉に、全員の視線が集まる。
「俺たちの撃ち込んだ魔法や魔力属性の攻撃は、すべて核に吸収されて糧になった。だが、最後……撤退の際にリアナが放った風を覚えているか?」
リアナが自分の手元を見つめ、戸惑いがちに頷く。
「はい……あの時はもう魔力が完全に尽きていて……ただの気圧の塊みたいな、惨めな突風しか起こせませんでした」
「だが、黒霧狼はその風を吸収しなかった」
ウエスが力強く言葉を継ぐ。
「吸収するどころか、魔力の乗っていないただの風圧に押されて体勢を大きく崩し、表面の黒霧が飛散した。……そこだ」
「つまり……魔力が乗っているから吸収される」
ミレイユの瞳に知的な光が戻り始める。
「逆に,魔力を完全に遮断した純粋な物理現象としての破壊力なら、奴は吸収できずにダイレクトに霧を吹き飛ばされる……!?」
そこから、第九隊の戦術は劇的な再構築を迎えていく。
しかし、それは彼らにとって長年培ってきた戦闘スタイルを捨てる葛藤でもあった。
ガレンは大剣に誇りである灼熱の炎を纏わせることを禁じられた。己の筋力だけで重鉄の塊を叩きつける泥臭い戦いへの変更。
「炎を吐けない大剣なんて、ただの重い鉄くずだ……だが、あいつの頭をぶち割れるなら喜んで鉄くずを振り回してやる」
葛藤を押し殺し、ガレンは不敵に笑ってみせた。
ドレイク也また、長年己の命を守ってきた魔法障壁の展開を封じられる。
「盾の強度と、この腕の肉壁だけで受け止めろってことか。……まあいい。魔法に頼る前から、俺はこの盾一枚で死線を越えてきた」
己の肉体だけが頼りという不安を、覚悟の深さで押し潰す。
リアナは、魔法による刃ではなく、純粋な空気の対流だけを起こすという極めて繊細なコントロールを要求された。
「魔力を削ぎ落とした風なんて、頼りなさすぎて怖い……でも、絶対に隊長たちの隙を作ってみせます」
ミレイユは後方からの攻撃魔法を一切禁じられ、観測と純粋な物理罠の展開に徹することを決めた。自分の魔法が味方の足を引っ張りかねない焦りを、正確な情報支援という役割へ昇華させる。
そして、ユアンが自分の長槍を見つめ、ぽつりと呟いた。
「魔力素養がない僕の突きは……最初からあいつに吸収されなかった」
かつては落ちこぼれとして、魔力を持たないことを心のどこかで引け目に感じていた。だが今、この異質な絶望の空間において、その「欠損」こそが黒霧狼の法則を突き破る最大の武器になる。ユアンの瞳に、静かな自負が宿った。
ウエスは自身の両手を見つめた。
「俺も同じだ。……俺は最初から、あいつの影響を受けにくかった」
かつて「元英雄」と呼ばれ、膨大な魔力を失ったあの日の絶望が脳裏をよぎる。
すべてを失い、暗闇の中でただ愚直に剣を振り続けるしかなかった泥臭い日々。
だが、どうだ。
かつて自分を絶望の淵に突き落としたその「魔力の喪失」が、いま迷宮の深淵で仲間を護るための最強の盾として機能している。
人生の皮肉に、ウエスは口元をかすかに綻ばせた。
(無駄なことなんて、何一つなかった)
「あいつを撃破することだけを考える必要はない」
ウエスは全員の顔を真っ直ぐに見据えた。
「黒霧狼は境界線から一歩も出てこなかった。奴の奥には、守っている『何か』がある。俺たちの目的は、それを調べることだ。突破し、生き残る」
明確なロジックと、敗北から導き出した確かな勝機。
第九隊の面々の顔から疲弊の影が消え、研ぎ澄まされた集中力が戻っていく。
それから彼らは、入念な再充填に入った。
ガレンは大剣の刃こぼれを丁寧に砥石で均し、ドレイクは亀裂の入った大盾に予備の鋼板を打ち付けて補強していく。リアナとミレイユは毛布にくるまり、体力を回復させるために深い眠りについた。
夜。
見張りに立つウエスは、胸元の服越しに『共鳴石』をきつく握りしめた。
(……シーン)
静かに意識を集中させる。
だが、返ってくるのは温かな彼女の波動ではなく、不気味なノイズだけだった。
遠くで誰かがかすかにすすり泣いているような、冷たく途切れ途切れの不快な震え。共鳴石そのものが、まるで凍てつく氷のように冷たく、歪んだ周期で小さく脈動している。
単に距離が離れているからではない。
王都の側でも、何か恐ろしい異変が静かに蠢いているのではないか――そんな冷や汗の出るような予感が背筋を駆け抜ける。
(待っていてくれ、シーン)
ウエスは冷たい石を固く握りしめ、暗闇の奥を見据えた。
この迷宮の底に潜む狂気を暴き、必ず彼女の元へ生きて帰る。その決意が胸の奥で不滅の火となった。
翌朝。
装備を完全に整えた六人が、大空洞の手前で足を止めていた。
深淵の奥から、湿った鉄と泥が混ざり合ったような、特有の不快な黒霧の匂いが吹き抜けてくる。
一歩先は、肌を刺すような重密な空気圧が支配する死線。
遠く地下深くから、地鳴りのような重厚な鼓動が響いていた。
ドクン。
黒色の獣が、暗闇の中で刃を研いで待っている。
ウエスは静かに腰の剣の柄に手をかけた。
「準備はいいか?」
短く、一切の揺らぎがない隊長の問いかけ。
ガレンが大剣を構え直し、ドレイクが強固になった盾を突き立て、リアナが鋭い視線を向け、ミレイユが計測器を抱え込み、ユアンが槍の穂先を鋭く向けた。
「はい!」
覚悟を束ねた力強い返答とともに、第九隊は再び、深淵の番人が待つ大空洞へと足を踏み入れた。




