【第八十一話】 忍び寄る不穏たち
王都の第一治療院は、ここ数日、異様な喧騒と疲労に包まれていた。
「シーンさん! 第四区画に急患です!」
「すぐ行きます!」
血相を変えて駆け込んできた若い治療師の声に、シーンは額の汗を拭う間もなく駆け出した。
ベッドに運び込まれていたのは、王都の警備を担う若い兵士だった。
意識はなく、顔面は土気色。呼吸は浅く、今にも消え入りそうだった。
シーンはすぐに手をかざし、診断の魔法を展開する。
だが。
「……外傷は、ありません。毒や病の兆候も……」
シーンの言葉に、周囲の治療師たちが重苦しい顔を見合わせた。
「またか……」
年配の治療師が、忌々しげに舌打ちをする。
兵士の身体には、剣で斬られた傷も、打撲の痕すらなかった。
ただ一つ明らかな異常は、彼の体内から『魔力』が完全に枯渇していることだった。
魔力は生命力と密接に結びついている。限界を超えて魔法を行使すれば、最悪の場合、死に至る。
しかし、運び込まれてくる兵士たちは皆、大規模な魔法を使った形跡など一切なかった。ただ通常の巡回任務に就いていただけだと言う。
「今日だけで四人目だぞ……。原因不明の魔力枯渇なんて、異常すぎる」
「午前中に運び込まれた二番隊の者は、先ほど息を引き取ったそうだ……」
治療師たちの間に、拭いようのない不安が広がっていく。
外傷がない以上、治療魔法もポーションも効果が薄い。失われた魔力が自然に回復するのを祈りながら、生命維持の処置を施すことしかできなかった。
その重苦しい空気を断ち切るように、治療院の院長が足早に姿を現した。
「お前たち、少し静かにしろ」
院長の声は低く、どこか周囲を警戒しているようだった。
「院長、この魔力枯渇の症状ですが、王都のどこかで何か魔力的な事件が――」
「その件については、これ以上の詮索を禁ずる」
ピシャリと撥ね退けられた言葉に、シーンは僅かに目を細めた。
院長は周囲の治療師たちを牽制するように見回し、声を潜める。
「宰相府からの通達だ。この原因不明の症状について、外部へ漏らすことは固く禁じられている。破れば、王都の治安を乱す者として処分されるぞ」
(……宰相府からの、通達?)
シーンの胸中に、強い違和感が渦巻いた。
早すぎるのだ。
これほど奇妙な症状の患者が連続して出始めたのは、ほんの昨日からのことだ。治療院側ですら全容を掴みかねているのに、なぜ宰相府は即座に事態を把握し、まるで『あらかじめ知っていた』かのように箝口令を敷けるのか。
混乱する現場をよそに、上層部だけが妙に冷静に立ち回っている。
それが、シーンにはどうしようもなく不気味に思えた。
小休憩を取るため、シーンは治療院の裏庭に出た。
冷たい風が頬を撫でる。
ふと、石畳の隅に視線が引き寄せられた。
建物の影の淀んだ場所に、薄く、本当に微かにだが、黒色の靄のようなものが漂っている。
(……何かしら、あれ)
しゃがみ込み、じっと見つめる。
ただの影ではない。意思を持っているかのように、ゆらゆらと形を変えながら、石畳を這うようにゆっくりと広がっている。
数日前までは、こんなものは確実になかった。
嫌な予感がして、シーンは胸元を無意識に強く握りしめた。
服の下にある、ウエスと自分を繋ぐ『共鳴石』。
いつもなら、そこに意識を向ければ、ウエスの確かな存在感や温もりが伝わってくる。
だが――。
(繋がりが……薄い)
目を閉じても、ウエスの気配がひどく遠い。
深い水底に沈んでしまったかのように、輪郭が掴めないのだ。
時折、チリッ、とノイズのような微かな反応が石から伝わってくる。だがそれが、ウエスが何かを伝えようとしているのか、それとも共鳴石そのものに異常な干渉が起きているのか、今のシーンには判然としなかった。
直接的な危険を感じるわけではない。
ただ、すべてが不確かなまま、霧の中に迷い込んでしまったような感覚。
(何かがおかしい……)
迷宮の最深部に向かっているウエスたち。
魔力を失い倒れる兵士たち。
宰相府の不自然な動き。
そして、足元を這い寄り始めた薄黒い靄。
バラバラだった事象が、見えない地下水脈で不気味に繋がっているような悪寒。
シーンは顔を上げ、どんよりと曇り始めた王都の空を見上げた。
(王都でも、何かが始まっている……)
静かな、だが確実な異変の足音が、すぐそこまで迫っていた。




