【第八十話】 深淵の番人
「行くぞ!」
ウエスの声を合図に、前衛の三人が同時に踏み込んだ。
ウエスの極限まで無駄を削ぎ落とした斬撃。
ドレイクの間合いを詰める重厚な盾打ち。
ユアンの目にも留まらぬ鋭い槍の突き。
三方向からの完璧な連動。
白刃が、盾が、穂先が、確かに黒霧狼の身体を切り裂き、叩き潰し、貫いた――はずだった。
だが。
手応えがない。
斬った部分が煙のように霧散する。
叩いた部分が揺らめき、霧へと変わる。
突いた部分が何事もなかったかのように穿たれる。
そして、形を保ったままゆらりと揺れていた。
ユアンが槍を構え直したまま、戦慄する。
「……効いてない……!?」
ドレイクも盾を深く構え、歯を食いしばる。
「物理が通らんのか……!」
その時だった。
ゆらめく黒霧狼の胸部の奥深くで――チリッ、と小さな黒い光が点滅した。
前線で刃を交えていたウエスだけが、その一瞬を見逃さなかった。
(今の光……黒霧が“戻る場所”がある)
散り散りになったはずの黒霧が、その光へ吸い込まれるように一斉に集まり、瞬く間に狼の形が再構築されていく。
ウエスは確信する。
(核……あれが中心だ)
「なら、これでどうだッ!!」
ガレンが宙を舞い、大剣から激しい炎撃を叩き込む。
極高熱の刃が黒霧狼の前脚を焼き飛ばした。
しかし――。
じゅううっ、という怪異な音と共に、残った炎の残滓が黒霧の奥へと吸い込まれるように沈んでいく。
「……炎が沈む……!?」
ガレンが目を見開く。
「風よ!」
リアナが杖を掲げ、圧縮した風刃を撃ち出した。
風刃は鮮やかに狼の胴体を切り裂く。
だが、飛散した黒霧は空散することなく、周囲の霧に吸い寄せられるように元へと戻っていく。
「散ったのに……戻ってる……!?」
「逃がしません!」
ミレイユが杖を突き立てた。
地面が隆起し、巨大な岩脈が黒霧狼の胴体を押し潰す。
だが、土魔法を構成していた魔力が、黒霧に奪われるように消えていく。
次の瞬間、ミレイユの抱える魔導計測器が狂ったように赤く点滅した。
ピピピピピッ!
「……魔力を……吸っています……!」
ミレイユの悲鳴に近い声が響いた。
「攻撃の魔力を奪って、自分の形を維持してる……!」
ガレンが顔を歪める。
「じゃあ、どれだけ斬っても、燃やしても……!」
「意味がありません! 黒霧がある限り、何度でも形を作り直せます!」
全員の顔に、愕然とした色が広がった。
ガレンが再び炎を叩き込む。
リアナが風を放つ。
ミレイユが土魔法を叩きつける。
だが、結果は同じだった。
放った攻撃の魔力はすべて黒霧へと吸収され、異形の糧となり、瞬時に再構築される。
攻めれば攻めるほど、相手を強固にしているに等しい。
ドレイクの大盾にはさらに激しい亀裂が走り、
槍を突き続けたユアンの呼吸は荒くなり、
魔法を連発したリアナの魔力は底を突きかけていた。
疲弊していく第九隊に対し、黒霧狼は傷一つ負っていない。
(……このままじゃ全滅する)
ウエスの脳裏に冷たい現実が突きつけられた。
「隊長! 押し切れねぇ!」
ガレンが叫ぶ。
「このままじゃ保たん!」
ドレイクが盾で衝撃を耐えながら叫ぶ。
「撤退を……!」
リアナの膝が揺れていた。
ウエスは一秒の猶予も置かず、言い放った。
「撤退する」
全員が一瞬、目を見開く。
「全員で帰るぞ」
ウエスの声には一切の迷いがなかった。
「ここは勝つ場所じゃない。情報を持ち帰る」
「全員、下がりながら出口へ!!」
ウエスの指示に従い、六人が一斉に後退を開始する。
しかし、黒霧狼がそれを許さぬように地を蹴った。
圧倒的な速度。殿を務めるウエスとユアンへ影が迫る。
殿の足止めとして、リアナが咄嗟に振り返り、杖を振りかざした。
「押し戻されて……ッ!」
風を起こす。
だが――リアナの魔力は、すでにほぼ枯渇していた。
放たれたのは、魔法と呼ぶにはあまりに拙い、魔力の乗っていないただの「突風」だった。
(ダメ……っ!)
リアナが絶望に目を瞑りかける。
だが。
その魔力の乗っていないただの風が黒霧狼に直撃した瞬間。
黒霧狼は――風を吸収しなかった。
ただ風圧に押されて揺らぎ、狼の表面を覆っていた黒霧が、フッと大きく飛散した。
ダメージはない。
しかし、魔力を吸収して受け止める動作が起こらなかったことで、黒霧狼の体勢が大きく崩れた。
リアナが目を見開く。
「……魔力が乗ってないと……吸われない……?」
ミレイユもその光景に息を呑んだ。
「……そういう、こと……!?」
ほんの一瞬生じた、確実な隙。
「走れ!!」
ウエスの叫びと共に、第九隊は死力を尽くして大空洞の境界線へと飛び込んだ。
ゼェ、ゼェと荒い息が暗闇に響く。
第九隊が通路へ滑り込み、振り返ると――
追撃してくると思われた黒霧狼が、大空洞と通路の「境界線」でピタリと動きを止めていた。
赤い瞳が、境界線の向こうから六人をじっと見下ろしている。
一歩も、そこから踏み出してこようとしない。
「追ってこない……?」
ガレンが息を整えながら大剣を構え直す。
「……縄張りか」
ドレイクが低く呟いた。
ウエスは揺らめく黒色の獣を見つめ、静かに首を振る。
「いや……守っているのか」
その言葉に応じるように。
大空洞のさらに奥、漆黒の深淵から重厚な音が響いた。
ドクン。
地下全体を震わせる、巨大な脈動。
すると、あれほど苛烈だった黒霧狼がゆっくりと身を低くし、奥の深淵に向かって恭しく頭を垂れた。
まるで、その奥に『何か』がいることを知っているかのように。
ウエスは無言のまま、その光景を脳裏に刻み込んだ。
「一旦戻るぞ。……手掛かりは掴んだ」
第九隊は、深淵の番人に背を向け、暗闇の通路を走り出した。




