【第七十九話】 黒色の獣
ウエスとユアンは、崩落を抜けてさらに迷宮の深部へと足を進めていた。
周囲を漂う黒霧は、明らかに濃度を増している。
肌にまとわりつくような、ねっとりとした重圧。
だが、意外なことに二人への影響は軽微だった。
ユアンは元々、魔力素養がほとんどない。
黒霧が干渉して魔力回路を狂わせようにも、その対象そのものが彼には存在しなかった。
一方のウエスも、魔力を失っている身だ。
胸の奥で共鳴石が僅かな疼きを見せるだけで、黒霧による直接的な精神の摩耗は感じていない。
むしろ強くなっているのは、足元からダイレクトに伝わる脈動だった。
ドクン。
ドクン。
まるで迷宮そのものが心臓を持ち、鼓動しているかのような錯覚。
二人はその音に導かれるように、薄暗い通路を奥へ奥へと進んでいった。
やがて、通路が開けた。
たどり着いたのは、天井が見えないほど巨大な大空洞だった。
中央には、崩れかけた巨大な石の祭壇。
黒霧に埋もれ、長い時を忘れられた古代遺跡の成れの果て。
その祭壇の中心で、異変が起きた。
漂っていた黒霧が、一点に集まり始める。
渦を巻く。
圧縮される。
そして――形を持った。
狼。
しかし、それは生物ではなかった。
四つ足の獣の形を保ちながらも、その輪郭は絶えず揺らぎ続けている。身体の半分は黒い霧のまま、実体を結んでいない。
ただ、その頭部に浮かぶ赤い瞳だけが、異様なまでに鮮明だった。
ウエスが静かに剣を抜く。
「ユアン、下がってろ」
「了解」
次の瞬間、狼が動いた。
先に仕掛けたのは、背後に回っていたユアンだった。
鋭く繰り出された槍の刺突が、狼の頭部を正確に貫く。
だが。
刃が触れた瞬間、狼の頭部が霧へと散った。
(やったか?)
終わりだと思った直後。
再び同じ場所に霧が集まり、何事もなかったかのように頭部が現れる。
「は?」
ユアンが思わず眉をひそめた。
今度はウエスの番だった。
踏み込み、鋭い剣閃を放つ。
刃が狼の胴体を斜めに斬り裂いた。
手応えは、確かにある。
だが、大きく開いた傷口から黒霧が溢れ出し、一瞬で傷を縫い合わせてしまった。
血は流れない。
狼は痛みすら感じていないように、微動だにしない。
「隊長……」
ユアンの緊迫した声。
ウエスは剣を下段に構え直したまま、狼から決して目を離さなかった。
「違うな」
「何がだ?」
「あれは、魔獣じゃない」
その言葉が、ユアンの背筋に冷たい違和感を走らせた。
その意味を考える暇はなかった。
狼の姿が、かき消えるように視界から消失する。
(まずい)
ウエスの直感が警鐘を鳴らす。
背後。
だが、反応が僅かに遅れた。
連戦に次ぐ連戦。これまでの無理が蓄積した肉体の疲労。そして共鳴石の不可視の負荷。
ほんの一瞬。
ウエスの動きが、致命的に鈍った。
黒霧の狼が、背後から音もなく飛びかかる。
その鋭い爪が、無防備なウエスの背中を切り裂こうとした。
その瞬間。
「隊長!!」
ユアンが飛び出した。
ガキィィィン!!
硬質な金属音が空洞に響き渡る。
ユアンが横に構えた槍の柄と、狼の爪が激突し、激しい火花が散った。
衝撃で、ユアンの細い身体が数歩後退する。
両腕が痺れ、槍を取り落としそうになる。
呼吸が乱れる。
だが、決して退かなかった。
狼と隊長の間に、しっかりと立ちはだかる。
ウエスが目を見開いた。
これまで、ずっと逆だった。
危険な時は、いつもウエスが前に出て、ユアンはその後ろにいた。
守るのはいつも隊長。
守られるのはいつも自分。
それでも。
ユアンは痺れる腕を庇いながら、少しだけ笑った。
「たまには守らせてください、隊長。」
ウエス、ユアン。
そして黒霧の狼。
三者の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。
狼は、たった一体。
だが、その存在感は明らかに異常だった。
何度斬っても霧となる身体。
倒せる気がしない。倒し方が、分からない。
その時だった。
「隊長ーーー!!」
暗闇を突き破り、ガレンの叫びが空洞に響き渡った。
重い足音が爆音となって迫る。
直後、荒れ狂う風が黒霧を払い裂いた。
躍り出たドレイクが、激しい衝撃音と共に大盾を地へと突き立てる。
「追いついたぞ!」
「隊長、無事ですか!?」
リアナの風が空間を駆け巡り、ミレイユが抱えた魔導計測器が赤く点滅しながら激しく警告音を鳴らす。
四人の荒い息遣いと、確かな熱量が空洞の冷気を一瞬で塗り替えた。
死線を潜り抜けてきた仲間たちの登場に、ユアンは胸を撫で下ろし、小さく息を吐き出す。
「助かった……」
ユアンの肩から力が抜けたのを見て、ウエスは僅かに口角を上げた。
「いや」
その背中を、ポンと叩く。
「よく時間を稼いでくれた」
ユアンは少し照れ臭そうに顔を逸らし、すぐに槍を構え直した。
ガレンが大剣を担ぎ直し、ドレイクが盾を構え、リアナが杖を握り、ミレイユが計測器を握りしめる。
ウエスとユアンの横へ一気に滑り込み、六人の影が横一列に並んだ。
対する黒霧の狼は、増えた獲物を前にしても一歩も退こうとしない。
ミレイユが、計測器の異常な数値に顔を強ばらせた。
「……異常です。数値の波形がおかしい。これ、魔物に見えません」
ウエスが剣を構え直し、静かに頷く。
「ああ。俺もそう思う」
黒霧の狼の赤い瞳が、ゆっくりと輝きを増していく。
不気味な静寂の中、異形は六人をただじっと見据えていた。




