【第七十八話】 地下湖の水中戦
地下湖が揺れた。
静まり返っていた水面が大きく盛り上がり、黒い波が岸へと押し寄せる。
ガレンは大剣を抜いた。
「来るぞ」
次の瞬間。
轟音と共に湖が爆ぜた。
巨大な水柱が天井近くまで吹き上がる。
その中心から姿を現したのは、長い胴体を持つ水棲の異形だった。
蛇のような身体。
魚のような頭部。
黒い鱗が青白い光を反射し、その隙間を舐めるように水流が循環している。尾が僅かに揺れるだけで、湖全体が共鳴するように波打った。
その周囲には、濃密な魔力が渦巻いている。
魔物が咆哮した。
空気が震える。
いや、違う。膨大な魔力そのものが空間を揺らしているのだ。
リアナが思わず眉をしかめる。
「この圧力……!」
その瞬間だった。
魔物の周囲に幾重もの魔法陣が浮かび上がる。
湖面が裂けた。
数十。いや、百は超える水槍が出現した。
「下がれ!!」
ドレイクが前へ出る。
大盾を構える。
その直後だった。
百を超える水槍の群れが、一斉に殺到した。
ドドドドドドドドドッ!!
爆発にも似た衝撃が連続する。
一発ごとに盾が震え、軋む。
二発。
三発。
四発。
押される。岩盤が削れ、ドレイクの足が後ろへ滑る。
それでも踏み止まる。
後ろには仲間がいる。
そして何より、自分はもう守られるだけの存在ではない。隊長に鍛えられた日々は、決して無駄ではなかった。
「まだだァ!!」
さらに水槍が降り注ぐ。
その時、盾の表面に小さな亀裂が走った。
ドレイクの瞳が僅かに揺れる。だが、決して一歩も退かなかった。
その横をガレンが駆け抜ける。
「燃えろっ!」
炎の斬撃が湖面へ走る。
しかし――
ジュウウウウッ!!
激しい蒸発音と共に、炎は虚しく泡へと変わった。
届かない。火力が完全に殺されている。
水中は完全に敵の領域だった。
「くそっ……!」
リアナも風刃を放つ。
だが、風は水中に吸われるように拡散し、威力を失った。まるで湖そのものが攻撃を呑み込んでいるようだった。
すると、魔物が巨大な尾を振るう。
湖面が隆起した。
津波だ。
圧倒的な質量の壁が、真っ直ぐ四人を呑み込もうと迫る。
「伏せて!!」
リアナが咄嗟に暴風を放つ。
風と水が正面衝突した。
轟音。飛沫。白い霧。
視界が奪われ、四人の身体が吹き飛ばされそうになる。
不利だった。圧倒的に。
だが、その中で。
ミレイユだけが魔物を見ていなかった。
視線は湖へ向いている。
魔導計測器の数値。湖を流れる魔力。魔物へ集まる光。
何かがおかしい。
すると突然、計測器がけたたましい警告音を鳴らした。
ピピピピピッ!
限界を突破して跳ね上がる数値に、ミレイユは「ひっ」と息を呑んで硬直した。
「……?」
ミレイユは目を見開いた。
湖全体を流れる魔力が見えた。
いや、流れているのではない。吸われているのだ。
まるで湖そのものが巨大な血管となり、魔物へ生命を送り込んでいるかのように。
「そういうことですか……!」
ミレイユの声が響く。
「ガレンさん!」
全員が振り向く。
「魔物は湖から魔力を吸収しています! 傷の再生も強化も、全部それです!」
確かに、今まで付けたはずの傷が瞬時に塞がっていた。
「湖と繋がっている限り、勝てません!」
ガレンが歯を食いしばる。
普通に戦えば削り負ける。
なら、勝ち方を変えるしかない。
「引きずり出すぞ」
リアナが湖を見た。
荒れ狂う水面。普通の風では意味がない。
切るのではなく。
押す。押し潰す。湖そのものを力で抑え込む。
「私が水面を割ります」
ドレイクが振り向く。
「できるのか?」
リアナは答えない。額を冷たい汗が流れる。
失敗すれば終わる。誰かが死ぬ。そんな予感が胸をよぎる。
それでも。
(隊長なら、迷わない)
リアナは深く息を吸った。
「私が、道を作ります」
ガレンが不敵に笑う。
「十分だ」
魔物が再び突進してくる。
湖面が裂け、巨大な顎が迫る。
ほんの一瞬。
時が止まったかのような静寂が落ちた。
その瞬間、リアナの魔力が爆発した。
「今ですッ!!」
轟風。
地下湖そのものが悲鳴を上げた。
極限まで圧縮された暴風が、湖面へと叩きつけられる。
足元の岩盤が悲鳴を上げてひび割れた。
巨大な水面が沈む。波が潰れる。
だが、割れない。
「っ……!」
リアナの膝が震えた。
体内の魔力が、内側から焼かれるような激痛を伴って削り取られていく。
風が一瞬途切れ、終わりかける。
それでも歯を食いしばり、さらに押し込む。
さらに。
さらに。
そして――パキン。
巨大な氷が砕けるような音が響いた。
湖面に亀裂が走る。
一本。二本。三本。
次の瞬間、水が左右に割れ、巨大な裂け目が生まれた。
湖底が露出する。
その時間は、わずか数秒。
だが、十分だった。
ガレンが駆ける。
踏み込む。
一瞬の静寂の中、ガレンは宙へと跳んだ。
躍り出た瞬間、脳裏を一つの背中がよぎった。
泥にまみれ、血を流し、それでも誰より前を歩き続けた背中。
ずっと追い続けてきたあの日々が、胸の奥を熱くする。
ガレンは笑った。
もう、一切の迷いはなかった。
「見てろよ、隊長」
炎が剣へ集まる。
赤。蒼。そして白。
極限まで圧縮された超高熱が生まれる。
剣身が、まるで太陽そのもののように眩く輝いた。
「うおおおおおおおおおっ!!」
振り下ろした。
白い炎が、露出した湖底へと突き刺さる。
一瞬。
世界からすべての音が消え去った。
そして――世界が白く染まった。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
超高熱が周囲の水壁と衝突する。
膨大な水が、瞬時にして蒸発した。水蒸気爆発だった。
地下湖全体が激しく震える。
天井が揺れ、岩盤が悲鳴を上げて軋む。
強烈な爆風が、空間のすべてを吹き飛ばした。
音が消えた。
ガレンの耳には、甲高い耳鳴りしか届かない。
キィィィィン……。
ただ、圧倒的な静寂だけがそこにあった。
白い蒸気が分厚い壁のように広がり、視界が完全に奪われる。
何も見えない。
何も聞こえない。
やがて、足元の地面だけがズズン、と重く震えた。
その濃密な蒸気の向こう。
何かが、凄まじい勢いで陸地へ吹き飛んでくる気配があった。
蒸気の壁を突き破り、魔物が姿を現す。
巨体が陸地へと叩きつけられた。水から切り離され、悶え苦しんでいる。
「ドレイク!!」
「任せろ!!」
ドレイクが突進する。大盾を構え、巨体へと激突した。
轟音。
身体中の骨が悲鳴を上げる。盾の亀裂がさらに広がる。
それでも。
止めた。完全に。
普段の冷静さを投げ捨て、ミレイユが悲痛なまでの叫び声を上げた。
「今です!」
魔導計測器が光る。魔力の流れが一点へ収束している。
胸部。中心。核。
「胸の中央です!!」
リアナの風が魔物の巨体を縛り上げる。
一秒。
その一秒で、十分だった。
ガレンが走る。
仲間が作った道。仲間が繋いだ好機。
ならば、自分は全力で応えるだけだ。
「終わりだァァァァァ!!」
白き炎の大剣が振り抜かれる。
閃光。一閃。
魔力核が、乾いた音を立てて砕け散った。
魔物の絶叫が地下湖へ響き渡り――そして、ゆっくりと崩れ落ちた。
静寂。
荒れ狂っていた地下湖が、少しずつ元の静けさを取り戻していく。
誰もすぐには動けなかった。
肩で息をする。汗が落ちる。疲労で膝が震える。
それでも、四人は生きていた。
勝ったのだ。
隊長抜きで。第九隊の力だけで。
その時だった。
湖底が淡い光を放った。
青白い術式が浮かび上がる。
水が引いた湖底に姿を現したのは、巨大な石門だった。
長い年月を水に削られた痕跡。石門の表面には、激しい水流によって無数の深い溝が刻み込まれている。
欠けた古代文字。半ば失われた紋様。
だが、その欠損部分を満たすように青い光が走り、中心の術式だけは確かに脈打っていた。
まるで、迷宮の鼓動と同期するように。
ミレイユが息を呑む。
「この術式……」
震える声が漏れる。
「『穴』……『光』……『道』……同系統です」
ガレンたちが石門を見上げる。
その光は、どこか遠くへ導くように細く続いていた。
ミレイユが低く呟き、そして確信を帯びた視線を向けた。
「もしかしたら……これは、隊長たちへ続く道かもしれません」
石門が眩く輝いた。
地下湖の闇を切り裂くように、一筋の光がその先へと伸びていった。




