【第八話】 不調の兆しと、若き眼差し
あのホブゴブリンとの命懸けの激闘、そして傷ついた自尊心をシーンにそっと救われた夜から、数日が経過していた。
鬱蒼とした森の奥、木漏れ日すら届かない暗がりに潜んでいた小鬼の残党討伐は、もはや今の彼らにとって敵ではなかった。一瞬で片が付いたと言っていい。
「ハッ!」
鋭い呼気とともに、ガレンの放つ火の剣筋が宙を裂いた。
あの日、ウエスが身をもって示した、無駄を極限まで削ぎ落とした一撃。
それを狂おしいほどに目に焼き付けた彼の剣は、力任せに鉄塊を振り回していた頃よりも確実に鋭さを増し、軌道の無駄が美しく削ぎ落とされていた。
その直後、リアナの生み出した極薄の追い風がガレンの背を絶妙なタイミングで押し、その突進速度を何倍にも跳ね上げる。
さらに後方からは、見習いのユアンが、まだ震える手を必死に抑え込みながらも、怯えに逃げ出すことなく前に出て、仕留め損ねた敵を確実に処理していた。
「……あの日から数日しか経っていないというのに、全員の動きが目に見えて変わりましたね。驚きました」
静観していた魔法参謀のミレイユが、信じられないものを見るように眼鏡のブリッジを押し上げる。
「ふん、少しは隊らしくなってきたな」
古参のドレイクが、深く刻まれた顎の皺を満足そうに撫でた。
ウエスもまた、若者たちの確かな歩みに、無言で深く頷いた。
若手たちの成長スピードは目覚ましい。
あの日、自分の未熟さに打ちのめされたガレンは、その痛烈な悔しさをすべて剣への執念へとぶつけるように、連日夜遅くまで泥と汗にまみれて猛訓練を続けていた。
ウエスが彼らに授けた「風の制御」の教えは、この冷酷で過酷な辺境の地で、確実に彼らの血肉として染み込み始めている。
だが、ウエスは全員が帰還の途につく背中を見届けながら、己の胸の奥深くに生じた、微かな違和感を拭えずにいた。
(……脈が、少し早いな)
古傷が痛むわけではない。息が上がっているわけでもない。
ただ、あのホブゴブリン戦で、すでに半ば焼き切れていた魔力回路に強引にかけた異常な負荷が、日を置いてもまだ澱のように体内に抜けていかない。
骨の芯、神経の奥底にべったりとまとわりつくような、ずっしりとした重さが、数日前からずっと消えてくれない。
(……この程度の乱れなら、昔の俺なら気づきもしなかったはずだ)
(だが、気にするほどじゃない。いつも通り、じきに馴染むはずだ)
ウエスはそう己に言い聞かせ、周囲の誰にもその不調を悟られないよう、いつもの泰然とした歩調で駐屯地への道を歩んだ。
――しかし、駐屯地の門をくぐり、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ、その瞬間だった。
西日に照らされた視界がふっと歪み、地面が不自然に二重にブレた。
(……っと)
ほんの一瞬、大地を踏みしめる感覚が足裏から消え、膝がわずかに沈む。
ドレイクやミレイユでさえ見落とすほどの、極めて微細な揺らぎ。
だが――ガレンの目だけは、その一瞬を捉えていた。
ただし、今のガレンには「団長が弱っている」と明確に気づいた自覚すらない。
ただ、本能が勝手に反応しただけだった。
(……ん?)
胸の奥が、ほんの一瞬だけ冷たくなる。
だがガレンは、まるでその感覚を叩き潰すように眉をひそめ、すぐに視線をそらした。
(いや、違う。気のせいだ。あの人が揺れるわけねぇ)
ウエスは呼吸を整え、表情を完璧に殺したまま淡々と告げる。
「問題ない。少し足元が滑った。少し疲れただけだ」
その平然とした言い訳に、ガレンの胸がチリッと痛がゆくざらついた。
(疲れただけ? 団長が? ……はっ、そんなの、俺が知るかよ)
そこに「心配」という殊勝な感情は存在しない。
ただ、絶対に崩れないと信じていた存在が、理解できない揺らぎを見せたことへの、若者特有の防衛反応に近い苛立ちが胸の内に広がっていく。
ガレンは大剣を肩に乱暴に担ぎ上げ、砂利を踏み荒らすような足取りで進み出た。
ウエスと視線を合わせることすら拒むように、突き放すような声を吐き捨てる。
「……勝手にしろよ。団長なんだろ? なら、いちいち言い訳すんなよ」
歩き去るガレンの背中は酷く強張り、肩はいかつく怒っていた。
それはまるで、“俺は何も見ていない、気づいてなんかいない”と必死に自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
ウエスはその不器用で、トゲだらけの背中を静かに見送りながら、若き戦士が今なぜそれほどまでに苛立っているのか、その理由を正確に理解できずにいた。
(……少し、休むか)
これ以上の邪推を避けるためにも、そして己の体に忍び寄る「狂い」を静めるためにも。
ウエスは誰の目にも触れないよう、静かに、深く息を吐き出した。
◇
その瞬間。
呼べど叫べど決して届かぬ、途方もない距離を隔てた王都の自宅で、シーンはふっと編み物をしていた手を止めた。
窓から差し込む西日は柔らかく暖かで、部屋の中には何一つ変わらない、穏やかで平和な時間が流れている。
なのに――胸の奥が、冷たい氷水を一滴落とされたように、突如として激しくざわつき始めた。
ドク、と心臓が不自然に波打つ。
指先がわずかに震え、これまで丁寧に編み進めていた白銀の毛糸が、膝の上へと力なく転がり落ちた。
「……ウエス……?」
どれほど耳を澄ませても、外の馬車の音以外、物理的な音は何一つ聞こえない。
けれど、彼女の魂と生命に深く刻み込まれた、あのウエスの「魔力の音」が、今、確かにほんのわずかだけ歪んで響いた。
それはまるで、厚いガラスに、目に見えないほどの微細なひびが入り、きしむような冷たい揺らぎだった。
シーンはそっと首元の共鳴石に指先を触れさせた。
ひんやりとした冷たい石が、まるで縋るように指先に吸い付き、胸の不吉なざわつきは波紋のようにじわじわと広がっていく。
ただの気のせいかもしれない。
私が心配しすぎているだけ。
そう自分に言い聞かそうとしても、この胸を締め付けるような嫌な震えは、どうしても消えてはくれなかった。
シーンは静かに、そっと目を閉じた。
そして、ゆっくりと深く息を吸い込む。
(どうか……あなたが無事でありますように)
その祈りを込めるように、彼女は冷たい石を、胸元でぎゅっと静かに握りしめ続けた。




