【第七話】 夜の共鳴石 ― 妻の祈りと、夫の弱さ
駐屯地に戻った夜。
昼間の喧騒が嘘のように、森の夜は静寂と、刺すような冷気に包まれていた。
パチパチと爆ぜる焚き火のそばから離れた暗がりに、ガレンは一人でいた。
大剣を膝に置き、砥石を当てる手元が、時折いら立ったように強く擦れる。その横顔は険しく、昼間の「何もできなかった自分」への憤りと、ウエスへの複雑な対抗心でギラついたままだ。
若さゆえの、あまりにも不器用で、未熟なプライド。
ウエスはそんなガレンの様子を遠目に見届けると、若者たちの邪魔にならないよう、さらに静かなテントの影へと移動した。
懐から取り出したのは、小さな青い「共鳴石」だ。
ウエスが微々たる魔力を通すと、石が淡く、波打つように揺れ、やがてその中から、この世で最も愛おしい女性の声が優しく響いた。
『……ウエス? 今日も無事だった?』
妻、シーンの声だった。その穏やかな響きに触れた瞬間、ウエスが日中張り詰めさせていた防衛本能が、すっとほどけていく。
「……ああ。実戦があった」
ウエスは声を潜め、共鳴石を握りしめた。
「かつての技は通用した。ホブゴブリンの奇襲を、最小の魔力でいなしてみせた。だが……身体がついてこなかった。たった一撃で膝が折れかけ、残党の不意打ちに反応すらできなかった。ドレイクが割り込んでくれなければ、今頃どうなっていたか……」
ウエスは自嘲気味に息を吐き、ぽつりと弱音を漏らした。
かつて「英雄」と呼ばれ、誰よりも先頭に立って世界を救った男。その彼が、己の決定的な衰えと、部下に命を救われた不甲斐なさを認めるのは、血を吐くよりも苦しいことだった。
少しの沈黙が流れた。
共鳴石の向こうのシーンは、夫の傷ついた自尊心をすべて包み込むように、深く、柔らかく微笑む気配を見せた。
『いいじゃない、それで』
「……シーン?」
『あなたが無事で、今こうして私に弱音を吐いてくれている。私はそのことだけで十分よ。それに、ドレイクさんや部下の方たちがあなたを助けてくれた。だったら、私はその方たちに心から感謝するわ。あなたが一人で抱えきれなかったものを、分け合ってくれる人たちが、今のあなたの傍にいるのだから』
語りかける彼女の声は、どこまでも温かい灯火のようだった。
『一人で戦っていると思わないで、ウエス。私はいつでも、ここであなたの無事を祈っているから』
ウエスはゆっくりと目を閉じた。
冷え切った駐屯地の片隅で、彼の胸の奥に、言葉にできない静かで温かい熱が灯っていく。英雄としての栄光ではなく、ただ一人の人間として生きて帰るための、泥臭い活力が。
「……ああ。ありがとう、シーン。いつも救われるよ」
交信を終え、冷たくなった共鳴石を大切に懐に収める。
ふと顔を上げると、少し離れた焚き火の陰に、ドレイクが立っていた。いつからそこにいたのか、彼は腕を組んで黙って壁に寄りかかっている。
「……聞いていたのか」
「まさか。そこまで野暮じゃないさ」
ドレイクは肩をすくめ、小さく笑った。
「ただ、あのお坊ちゃんがな。あんたのテントの周りをウロウロして、話しかけたそうに剣をいじり回してた。結局、そのまま寝床に引っ込んじまったがね」
「ガレンが?」
「ああ。悔しくて死にそうなんだろ。死にかけて、オッサンに助けられて、そのオッサンが自分より早く限界を迎えて……頭の中が整理できてない。だが、あいつはあんたの背中を見てる。必死にな」
ドレイクはそう言い残すと、短く手を振って自分のテントへと戻っていった。
ウエスは一人、静かにパチパチと燃える焚き火を見つめた。
身体の節々は今も悲鳴を上げている。明日からは、今日以上の過酷な肉体鍛錬が待っているだろう。
だが、ウエスの口元には、フッと不敵な笑みが浮かんでいた。
(まだ終わらん。俺も、あの生意気な若造どもも――ここからだ)
かつて世界を救った英雄の瞳に、再び静かな、そして熱い炎が灯っていた。




