【第七十五話】迷宮の底へ
階段を降りきった先は、昨日まで探索していた迷宮とは明らかに異なっていた。
肌にねっとりとまとわりつく湿気。暗く湿った岩肌の壁面には、まるで体内の血管のように太く黒い筋が浮き出し、一定の周期で不気味に明滅し、脈動している。
索敵のため、リアナが指先から微かな風を放った。
しかし、放たれた気流は壁の一部を嫌悪するように歪み、不自然な軌道を描いて散ってしまう。
「……風が、道を嫌がっています。昨日と形が違う……」
その横で、ミレイユが激しく針の跳ねる魔力計器を凝視し、険しい声を上げた。
「地脈の流れが曲がっている……。自然な流れじゃないわ。迷宮そのものが……形を変えている」
ガレンがブーツの底で地面を小突く。
「道が……動いてる。あらかじめ作っておいた地図は、もう使えねぇな」
かつての第九隊であれば、この未知の異常事態を前に隊全体が動揺していたはずだ。
だが、今の彼らに焦りはなかった。
リアナが風で空間の歪みを読み、ミレイユが地脈の異常を計測し、ガレンが足元の地形変化を確認する。ユアンは研ぎ澄ませた感覚で奥を睨み、ドレイクが大盾を構えて死角を潰す。
誰も慌てることなく、それぞれが自らの役割を淡々とこなしていた。
ユアンは一人、前方の不自然に歪んだ暗闇をじっと見つめていた。
(――来い)
頭蓋の裏側で弾けるような声。以前よりもはっきりと、その輪郭を帯びてきている。
一方、隊列の後方で警戒するウエスには、魔力がないため地脈の視覚的な異常は見えない。
だが――。
――ドクン。
足裏から内臓を直接揺さぶるような重低音が響いた。
先ほどの広間で、石碑を前にした時に聞いた音よりも明らかに距離が近い。
(……あの時と同じだ。だが……もっと近い)
ウエスは静かに目を細めた。この先にいるのは、あのヴァルグに関係するものなのか。それとも、迷宮の底に潜む全く別の『何か』なのか。
その時、前方の壁がグチャリと蠢いた。
岩肌の中から、引きずり出されるように獣型の魔物が這い出してくる。だが、以前の魔獣とは明らかに異なっていた。四肢が半分ドロドロに溶けており、身体の左半分が壁に埋まったまま、壁の脈動と完全に同期して動いている。
「来るぞ!」
ガレンが前に出る。それと同時に、第九隊の流れるような連携が始まった。
「はあっ!」
リアナが鋭い風の刃を叩き込む。気流が壁の脈動を強引に乱すと、同期していた魔獣の動きがピタリと止まった。
「今! 地脈の谷間よ!」
ミレイユの叫びに合わせ、ドレイクが大盾を地面に叩きつけて魔獣の進路を完全に限定する。
生まれた一本の射線を、ユアンの槍がリアナの風の軌道に乗って一直線に貫いた。
体勢を崩した魔獣の頭上から、ガレンの大剣が容赦なく振り下ろされ、異形は断末魔すら上げずに泥となって崩れ落ちた。
戦闘時間はごくわずか。
ウエスはその間、腰の剣に手を添えたまま、一度も刃を抜くことはなかった。
彼が弱くなったからではない。いまの第九隊には、彼が直接介入するまでもなく、異常な環境下での戦闘を自ら完結させるだけの確かな強さがあった。
崩れ落ちた魔獣の死骸から、黒霧の残滓が薄っすらと立ち上る。
リアナがそれを浄化しようと、手のひらから風を放った。
その瞬間だった。
黒霧が風に触れた途端、気流が押し流すどころか、霧が風にまとわりつき、一瞬だけ風の勢いがフッと落ちたのだ。
「……え?」
リアナが戸惑う隣で、ミレイユが計器を覗き込む。
「待って……魔力値が……」
表示された数字が明らかに下がっている。ミレイユは信じられないものを見る目で、薄れゆく黒霧を見つめた。
「消えたんじゃない……吸われた?」
その事実を咀嚼する暇もなく、ゴゴゴ……と背後から重い岩の軋み音が響いた。
振り返ると、今しがた通ってきたばかりの後方の通路が、まるで巨大な筋肉が収縮するようにゆっくりと塞がっていくところだった。
「……迷宮が、私たちを閉じ込めようとしてる……」
リアナが息を呑む。
「道が変わるだけじゃねぇ。迷宮そのものが敵だ」
ガレンが忌々しげに吐き捨てた。ここはただの地下空間ではない。明確な殺意を持った『敵の体内』なのだ。
ミレイユが再び計器に視線を落とし、顔を青ざめさせる。
「地脈の沈下が……加速してるわ」
彼女は少し考え込み、やがて戦慄交じりに呟いた。
「迷宮が物理的に『落ちてる』んじゃなくて……空間の歪みが極限に達して、『向こう側』に繋がってる……?」
ユアンが、微かに震える手で槍を握り直し、奥を見据える。
「呼ばれてる……もっと奥だ……」
退路は断たれた。だが、第九隊の足が止まることはない。
ウエスが前を向き、短く、確かな声で告げる。
「行くぞ。迷宮がどう変わろうと、俺たちの足で進む」
さらに奥へ踏み込むと、空気そのものが劇的に変質した。
魔力濃度が異常なレベルへと跳ね上がったのだ。リアナが展開していた風の魔法が制御を失って霧散し、ミレイユの計器は不快なノイズを吐き出し始める。
「くっ……魔力が濃すぎる……。魔術師は足を取られるぞ」
強靭な肉体を持つガレンですら、体内の魔力線が周囲の過剰な魔力と反発し合い、身体に重い負荷を感じて顔を歪めた。
しかし――。
その圧倒的な魔力の暴風と、魔力を奪う黒霧の残滓の中を、ユアンは平然と歩いている。
そして最後尾のウエスもまた、呼吸一つ乱すことなく歩みを進めていた。
ミレイユが荒い息を吐きながら、二人の背中を見て気づく。
「……魔力非依存の二人は、影響が少ない……?」
ウエスはそれに答えることなく、ただ静かに深淵の奥を見つめていた。
(……この奥は、魔力に頼る者ほど危険だ)
冷たい風が吹き抜け、黒霧の残滓が揺らめく。
そして――。
――ドクン。
ウエスだけが、それを強く感じ取った。
つい先ほど、沈下域の入り口で聞いた時よりも近い。あの黒霧の森で異変を感じた時よりも近い。
そして、あの規格外の化け物・ヴァルグと対峙した時よりも――圧倒的に、近い。
(……近い)
ウエスの目が、剣呑な光を帯びる。
(迷宮の底に……何かがいる)
それでも、誰一人として足を止める者はいない。
迷宮はまるで生き物のように蠢き、道を変え、出口を消し、侵入者を試すように黒霧で魔力を奪い取る。
だが――第九隊は、もう迷宮に追われるだけの存在ではなかった。
彼らは、自分たちの足で前へ進んでいた。




