【第七十四話】 穴・光・道
迷宮中層・地脈の沈下域。
どこまでも続くかと思われた長い螺旋階段を降りきった第九隊を待っていたのは、すべてを飲み込むような漆黒の闇と、耳鳴りがするほどの圧倒的な静寂だった。
ランタンの灯りとリアナが灯す魔力光が、冷たい石畳を頼りなく照らし出す。足元には、ねっとりとした薄い霧が這うように漂い、ブーツが動くたびに白く渦を巻いた。
広間に出た瞬間、隊員たちの足取りが自然と重くなる。
壁面には、自然の侵食や魔物の爪痕では到底説明がつかない“円形の削り跡”が無数に刻まれていた。まるで、見えない巨大な球体によって、空間ごと抉り取られたかのような異様な光景だ。
リアナが警戒を露わにし、索敵のために微かな風の魔力を放つ。だが、淡い緑色を帯びた気流は真っ直ぐには進まず、壁の一部をひどく嫌悪するように、不自然な軌道を描いて逸れていった。
「……ここ、風の流れが歪みます。まるで、そこに“触れてはいけないもの”があるみたいに」
自身の腕を抱きかかえ、身震いするリアナ。その報告を受け、ミレイユは手元の魔力計器と壁の削り跡を交互に見比べ、険しい眉を寄せた。
「この削り跡の形状……古代魔導文明の“空間術式”の干渉痕に似ているわ。でも、完全な術式じゃない。構造が破綻しているというか……空間そのものが“落ちている”?」
ガレンが愛用の大剣を背に負い直すと、湿った土を重いブーツで何度も踏みしめ、低い唸り声を漏らした。
「ミレイユの言う通りかもしれねぇ。地面の脈動が……ここだけ極端に薄い。薄氷の上を歩いているような、底が抜けてるみてぇな嫌な感触だ」
その場に立った瞬間から、ユアンは内側からせり上がってくるような悪寒と戦っていた。
(――来い)
頭の中に直接響くような、名状しがたい声。
迷宮に足を踏み入れた時から感じていた『呼ばれる感覚』が、ここではっきりと強さを増している。胃の腑がねじ切られるような感覚に、ユアンは無意識に脂汗を滲ませた。
一方、ウエスは魔力を持たない身体で、ユアンとはまったく別のものを感知していた。
耳から入る音ではない。大地を伝い、ブーツの底から這い上がり、腹の底を直接揺さぶるような鈍い“音”。
(……まただ。あの時と同じ……いや、もっと近い)
第九隊が陣形を崩さぬまま歩みを進めると、広間の最奥、霧が晴れた先に一つの異形が姿を現した。
それは、半壊した巨大な黒い石碑だった。
周囲の空気ごと凍りつかせるような威圧感を放つその表面には、風化しつつもはっきりと、古代の文字が刻み込まれている。
かつてミレイユが王都の封印区画で解読した古文書と、全く同じ三つの語。
穴
光
道
文字の羅列を見たミレイユが、思わず息を呑む。
「……これ、王都の封印区画にあった記述と同じ。でも、こっちは後世の写本じゃない。“原型”に近いわ……」
まるで吸い寄せられるように、無意識に石碑へ手を伸ばしかけたユアンは、ハッとして動きを止めた。鼓動が、警鐘を鳴らすように激しく脈打っている。
「……これ、前にも……野盗が死ぬ間際に言ってた言葉だ……“穴が……光が……道を……作った……”」
あの凄惨な最期を思い出したのか、ユアンの声は微かに震えていた。
リアナが不安げにユアンの顔を覗き込む。
「ユアン……大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
ユアンはゆっくりとかぶりを振り、石碑の奥に広がる底知れぬ暗闇を睨みつけた。
「わからない。でも……呼ばれてる。あの奥に、何かがある。俺を……いや、誰かを求めてるんだ」
ウエスは威圧感を放つ石碑から一度も目を逸らさず、思考を言語化した。
「――“穴”は地脈の裂け目を指す。“光”はそこから溢れ出した高濃度の魔力。そして“道”は……」
そこまで口にして、ウエスは隣のミレイユへ視線を向けた。彼女は激しく跳ねる計器の針から顔を上げ、即座に彼の意図を引き継ぐ。
「ええ。ここまで地脈が落ち込んでいるなら、空間そのものが繋がっている可能性があるわ」
ミレイユは石碑の文字をなぞるように虚空を指差した。
「古代文明は、地脈のエネルギーを利用して離れた空間を繋ぐ技術を持っていた。この石碑の言葉はただの記録や答えじゃない。どこかへ至るための『入口』の証明。でも……それが今、制御を失って暴走している」
ガレンが鋭い眼光で、石碑のさらに奥、松明の光すら届かない深淵を見据えた。
「つまり……この迷宮の底は崩れ落ちてるんじゃなくて、どこか別の場所と『繋がってる』ってことか?」
「……おそらくね。何かが、向こう側で動いてる」
ミレイユがそう断言した直後だった。
――ドクン。
ウエスの内側で、ひときわ重い音が響いた。
森の奥で遭遇したあの異常事態の時よりも、ずっと近い。まるで、迷宮の底そのものが生きて呼吸しているかのような、暴力的な脈動。ウエスは無意識のうちに、腰の剣の柄を力強く握りしめていた。
(――間違いない。これは、ヴァルグの脈動と同じだ。だが……あの時よりも、ずっと弱い。まるで……分厚い壁の向こう側から、遠く響いているような……)
「隊長……今、聞こえましたか?」
ユアンの切迫した問いかけに、ウエスは短く頷いた。
「ああ。だが、まだ答えには至らない。これはただの兆しだ」
広間の奥深く、漆黒の闇の中から、死者の吐息のような極寒の風が吹き抜けてきた。
風は黒い石碑を撫で、纏わりつく霧の残滓を不気味に揺らす。リアナが、己を鼓舞するように杖を握り直し、尋ねた。
「……この先には、一体何があるんでしょうか」
ウエスは迷いなく、揺るぎない声で答える。
「まだわからない。だが――“道”は、向こうへ続いている」
未知なる恐怖を振り払うように、第九隊は再び重い歩みを進める。
答えは出ない。だが、世界の深淵へと近づくにつれ、その意味は確かな重みを持って彼らに迫っていた。




