【第七十二話】迷宮の入口
夜明けを迎えても、森に差し込む光はひどく頼りなかった。
薄闇の中、野営を解いた第九隊の前に広がっていたのは、昨日とはまるで違う景色だった。
見覚えのある獣道は、巨大な木の根がねじれ絡み合い、行く手を塞ぐように壁を作っている。平坦だったはずの地面には深い裂け目が走り、その縁には青白く発光する奇妙な苔がびっしりと張り付いていた。
森そのものが、生きた巨大な臓器のように形を変えている。
「……昨日の夜は、こんな裂け目はなかったわ」
ミレイユが魔力波形を測る計器を見つめながら、低い声で言った。針が不規則に小刻みに震えている。
ガレンはブーツの底で地面を踏みしめ、微かに顔をしかめた。
「脈動が強くなってる。土の下で、何かが蠢いてるような感触だ」
「風も、ひどく淀んでいます。……あそこから」
リアナが指差した先――ねじれた根の壁の向こう側は、ひときわ暗く、淀んだ冷気が這い出していた。
ウエスは剣の柄に軽く手を添え、その暗がりを見据えた。
「進むぞ。……一歩ずつだ」
短い指示に、隊員たちは無言で頷き、それぞれの武器を構えて異常な森の奥へと足を踏み入れた。
隊列は自然と決まっていた。
リアナが微風を放って安全な経路を探り、ミレイユが地脈の歪みを計器で追う。ユアンが槍の石突で足元の不自然な振動を確かめ、ガレンとドレイクが前衛を固める。
最後尾を歩くウエスの出番は、なかった。
それは、第九隊が完全に機能している証でもあった。
静寂が破られたのは、青光りする苔の絨毯を踏み越えようとした時だった。
――ガサァッ!
腐葉土を吹き飛ばし、地中から三つの影が飛び出してきた。
狼のようなシルエット。だが、その四肢はうごめく太い根のような触手で構成され、表皮は硬そうな苔と泥に覆われている。
「来るぞ!」
ドレイクが即座に大盾を構え、壁を作った。
同時に、ガレンが姿勢を低くする。彼は敵を見るのではなく、足元の地面に神経を集中させていた。
(右から、一番重い脈動――)
ドレイクの大盾に、最も大きな影が激突する。
重い衝撃音が響いた直後、ガレンはドレイクの盾の僅かな隙間をすり抜け、滑り込むように前へ出た。地面の振動から敵の重心のブレを読み切り、的確に前脚の根を斬り飛ばす。
体勢を崩した獣の首を、ガレンの刃が容赦なく薙ぎ払った。
残る二体が、側面から回り込もうとする。
だが、その視界は突如として巻き起こった旋風に遮られた。
「ユアン!」
リアナの短い声。
枯れ葉と土煙を巻き込んだ風が敵の動きを鈍らせた一瞬の隙を、ユアンの槍が貫いた。
かつての彼なら、力任せに突いていただろう。だが今のユアンの突きは、リアナの風の軌道に沿うように、しなやかで静かだった。
風に誘導されるように放たれた一撃は、正確に一体の胸を穿つ。
さらに最後の一体が、死角からユアンに飛びかかろうとした瞬間――。
「そこ、踏まないで!」
ミレイユの声と共に、敵の足元の土が不自然に隆起し、小さな魔力光が弾けた。ミレイユが地脈の歪みから見つけ出した魔力溜まりのトラップを、即席の反位相装置で意図的に暴発させたのだ。
足場を失い、魔力の乱れに一瞬動きを止めた獣の眉間を、ユアンの引き戻した槍の石突が深々と砕いた。
戦闘は、わずか十数秒で終わった。
誰も息を切らしていない。誰も焦っていない。
ウエスは剣を抜くことすらなく、その光景を静かに見つめていた。
だが、森の異常はこれで終わりではなかった。
――ヒュゥゥゥ……。
倒れた獣の死骸から、黒い霧のようなものが立ち昇り、周囲の空間を歪ませた。
それに触れた瞬間、ユアンの肩がびくっと跳ねる。
彼の網膜に、ありもしない光景がフラッシュバックした。圧倒的な絶望。血の匂い。かつて自分たちを蹂躙した、あの赤い目の男の幻影。
「う、あ……」
ガレンがまた、目を見開き、剣を握る手を微かに震わせていた。迷宮化に呼応した黒霧の残滓が、彼らの過去の記憶と恐怖に直接干渉している。
「……息を吐け」
静かな、だが腹の底に響く声が落ちた。
ウエスだった。
魔力を持たないウエスには、記憶の干渉は一切通じていない。その揺るぎない眼差しが、恐怖に囚われかけた仲間たちの意識を現実に引き戻す。
「幻だ。お前たちの足元を見ろ」
ウエスの声に、ユアンは荒い息を吐き出し、槍を強く握り直した。
「……俺は、もう……折れない!」
自らに言い聞かせるようなユアンの叫びに応えるように、リアナが両手を翳した。
「吹き飛べ……!」
清冽な風が、まとわりつく黒霧の残滓を鮮やかに散らしていく。
幻影が晴れた直後、地響きと共に森の奥から『それ』が現れた。
先ほどの獣の三倍はあろうかという巨体。無数の根と黒い影を綯い交ぜにしたような、不浄の塊。
だが、今の第九隊に動揺はなかった。
「ドレイク、止めるぞ!」
「応!」
ガレンの指示に、ドレイクが大盾を地面に突き立てて城壁となる。
ミレイユが計器の波形を読み上げ、敵の魔力が薄い箇所を伝達する。そこにリアナの風が刃となって叩き込まれ、巨体の装甲を削ぎ落とす。
剥き出しになった影の核へ、ユアンの槍が一直線に突き刺さった。
敵が苦悶に身をよじり、大盾を退けたドレイクの横から――ガレンが跳んだ。
空中で体を捻り、全体重と遠心力を乗せた渾身の一撃が、獣の核を真っ二つに両断する。
断末魔の叫びと共に、巨体が崩れ落ち、黒い泥となって霧散した。
静寂が戻る。
互いの無事を確認し合う隊員たちの顔には、確かな自信が宿っていた。
ズズズズズ……。
その時、巨大な獣が倒れた衝撃が引き金となったのか、前方のねじれた木の根が大きく崩落を始めた。
土煙が晴れた後、そこにあったのは自然の産物ではなかった。
むき出しになったのは、綺麗に切り出された石の階段。
深く、暗い地下へと続く、人工的な『入口』だった。
ミレイユの計器の針が、今までで一番激しく跳ね回る。
「……ウエス隊長。これ、波形が……王都の地下にあった記録と……」
その言葉を遮るように、階段の遥か奥底から、低い鼓動が響き渡った。
――ドクン。
そして。
『……あ……あ…………』
冷たい風に乗って、幾千もの人の声が重なり合ったような、呪詛めいた囁きが漏れ出してくる。
ウエスは無言のまま、ゆっくりと剣の柄を握り締めた。
ただの森の異常ではない。
底知れぬ悪意の深淵が、口を開けて彼らを待っていた。




