【第七十一話】 森の底が呼ぶ声
71話から書くけど【第三部】辺境の謎編が始まります。
異変が起こり始めた辺境で世界の運命を左右するような戦いが始まります。
陽の光は、とうに届かなくなっていた。
第九辺境騎士団の面々は、鬱蒼と生い茂る辺境の森の奥深く――かつて「迷宮」と呼ばれ始めた領域へと足を踏み入れていた。
先頭を歩くガレンが、ふと足を止める。
分厚いブーツの底を通して、彼は土の感触を確かめるように幾度か地面を踏みしめた。
「……ガレン、どうかしたか?」
後方から声をかけたドレイクに、ガレンは眉間に皺を寄せて足元を指差した。
「おかしい。地面が……いや、土の下がだ。微かにだが、脈打ってるような気がする」
「脈打つ、だと?」
「あぁ。生き物の腹の上を歩いてるみたいで、どうにも気持ちが悪い」
ガレンの言葉に、部隊の中央で周囲を警戒していたリアナも小さく頷いた。
「風も、変です。いつもなら森の隙間を縫って流れるはずなのに……まるで、この先の『奥』を避けているみたい。風そのものが、あっちに行くのを怖がっているような……」
彼女の指先をすり抜ける微風は、たしかに不自然なほど弱く、そして冷たかった。
手元の古びた地図と、魔力波形を測る小型の計器を交互に見比べていたミレイユが、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「二人の感覚は間違ってないわね。この計器の反応……地脈の流れが、明らかにおかしいわ」
「おかしいって、どういう風にだ?」
ユアンの問いに、ミレイユは地図のさらに奥、赤く印をつけた地点をペン先で叩いた。
「『ルヴァールの裂目』よ。以前の調査データと比べると、地脈そのものが不自然に沈み込んでいるの。まるで、巨大なすり鉢の底に向かって、森全体の魔力が吸い込まれているような……」
ユアンは無意識に、自身の槍の柄を強く握りしめた。
彼の肌もまた、粟立っていた。以前、この森の異常に触れた時と同じ感覚。いや、それよりもずっと強い。
――来い。
そんな声なき声に「呼ばれている」ような、抗いがたい引力。
隊員たちがそれぞれに魔力的な異常を感じ取る中、最後尾を歩くウエスは静かに森の深淵を見据えていた。
彼の内にある魔力回路は、とうの昔に焼き切れている。ガレンのように地面の魔力的な脈動を感じることも、リアナのように風の微細な魔力を読むこともできない。
だが、魔力を失ったからこそ、剥き出しになった別の感覚があった。
――ドクン。
耳の奥で、いや、魂の底で、その『音』が響いた。
かつて、大戦の果てにヴァルグと対峙し、己の魔力回路が崩壊したあの瞬間に聞いたものと同じ、おぞましい脈動の音。
ウエスは目を細め、音の出所を探るように森の最奥へと視線を向ける。
(……間違いない。ただの森の異常じゃない。あの時と……繋がっている)
「隊長」
ガレンの声に、ウエスはわずかに肩の力を抜いて前を向いた。
振り返った部下たちの顔には、緊張はあるが、かつてのような恐怖や焦りはなかった。ガレンの瞳は冷静に次の一手を問い、リアナは仲間を守る風をいつでも呼べるよう備え、ユアンは自身の恐怖を飼い慣らすように前を見据え、ドレイクが大盾を構えて全体を庇っている。ミレイユもまた、知の探求者として確かな光を宿していた。
「……進もう」
ウエスの短く、静かな声が森に落ちる。
「焦る必要はない。だが、退く理由もない。俺たちの足で、確かめに行くぞ」
ウエスの言葉に、第九隊の面々は無言で頷き、再び歩みを進めた。
ウエスが先頭に立って引っ張るのではない。皆がそれぞれの役割を果たし、同じ歩幅で進んでいく。
それが今の、第九隊の形だった。
* * *
その日の夜。
警戒を厳重にした野営地で、隊員たちが交代で短い眠りにつく中、ウエスは少し離れた倒木に腰を下ろしていた。
見張りの時間はまだ先だが、彼の意識は冴えきっていた。
懐から、微かに温かい光を放つ石を取り出す。
――共鳴石。
『……ウエス?』
石の向こうから、柔らかく、けれど芯のある声が響いた。
その声を聞いた瞬間、ウエスの強張っていた肩から、ふっと力が抜ける。王都からどれだけ離れていても、この声はいつも彼の心の一番柔らかな場所へ届く。
「ああ。……起こしたか、シーン」
『ううん。セレンがさっきまで、今日覚えた剣の型を見せてくれていて。やっと眠ったところ』
石越しに伝わる微かな寝息に、ウエスの口元に自然と笑みが浮かぶ。
「そうか。あいつ、まだ木剣を振ってるのか」
『ええ。あなたに教わった通りにね。「お父さんが帰ってきたら、びっくりさせるんだ」って、張り切ってるわ』
ウエスは夜の森を見上げた。
黒い枝葉の隙間から、見慣れた星がいくつか見えた。
「……森の奥へ進んでいる。昔、俺が魔力を失った時と同じ『音』がした」
淡々と事実を告げるウエスに、石の向こうのシーンは少しだけ沈黙し、やがて静かに応えた。
『怖い?』
ウエスは目を伏せ、そして、小さくかぶりを振った。
「いや」
魔力を失った直後は、自分には何もないと思っていた。あの得体の知れない悪意に再び触れることが、恐ろしくなかったと言えば嘘になる。
だが、今は違う。
「昔なら、どうやって自分一人で背負うかばかり考えていた。……でも、今は一人じゃない」
ウエスは視線を野営地の焚き火へ向けた。
そこには、微かな火影に照らされながら休む第九隊の仲間たちがいる。
「あいつらがいる。それに……王都には、君とセレンがいる。俺には、帰る場所があるからな」
英雄として世界を救うためではない。
このかけがえのない繋がりと、帰るべき場所を守るために、自分はここにいるのだ。
『……ええ』
シーンの声が、ふわりと微笑んだのがわかった。
『私たちはここにいるわ。あなたの帰る場所は、私たちが守っているから。だから……気をつけて進んで』
「ああ。必ず、戻る」
共鳴石の光がゆっくりと収まり、再び夜の静寂が降りてきた。
ウエスは石を大切に懐へしまい、立ち上がる。
その瞳に、迷いは一切なかった。
――ドクン。
その時、森の遥か奥深くで、意思を持ったかのように色濃い黒霧が脈打った。
それはまるで、近づいてくる彼らを誘い込むような、不気味な歓迎の合図だった。




