【第六十七話】追撃
転送の光柱が弾け飛んだ後も、森の空気はまだ蒼く揺れていた。
空間の裂け目の名残が、視界の端で淡く瞬き続けている。
「急ぐぞ。転送酔いが出ているはずだ。追いつける」
ガレンの低く鋭い声が、冷気に満ちた森の空気を引き裂いた。
リアナが目を閉じ、大気の中にわずかに残る不自然な風の歪みを拾い上げる。ミレイユは解析具のダイヤルを小刻みに弾き、空間に焼き付いた魔力の波長を追跡していた。ユアンが周囲の地形から最短の逃走ルートを割り出し、ドレイクが分厚い大盾を構えて、前衛として森の不気味な圧迫感を真っ向から受け止めている。
だが、進むにつれて森の様子が明らかに変わり始めていた。
風は一定の方向へ流れず、どこへ向かっても不気味な渦を巻く。足を踏み下ろすたびに、分厚い腐葉土がまるで底を抜かれたように沈み込んだ。森全体が、自らの形を別の何かへ組み替えようとしている――迷宮化の前兆だった。
「……ありました」
急斜面を降りた先で、ユアンが短く声を上げ、地面に屈み込んだ。
腐葉土にくっきりと残された足跡。だが、その歩幅は絶望的なほどに乱れ、右足だけが抉るように深く沈み込んでいる。
「……酔ってます。転送直後の典型的な乱れです。走れない。歩いてる……いや、ふらついてる」
足跡の周囲には、制御しきれなかった魔力の揺れが薄氷のようにへばりついていた。
「波長も濁ってるわ。発動の負荷が大きかったみたいね」
解析具の針を見つめながら、ミレイユが冷静に分析する。
「風も言ってる……“弱ってる”って」
リアナも同意するように頷いた。
「追いつける。行くぞ」
ガレンが先頭に立ち、さらに森の奥へ踏み込んだ。
しかし、追撃の速度を上げる第九隊を阻むように、森の異常は急激に牙を剥き始めた。
視界の端で、巨木と巨木の間隔が不自然に狭まり、確かなはずの獣道が陽炎のように揺らぐ。頭上の枝葉が幾重にも重なり合い、太陽の光を完全に遮断しようとしていた。
「……風が迷ってる。森が……形を変えようとしてる」
リアナが不安げに周囲を見渡す。
「迷宮化の前兆が強まってるわ。このまま進むと、地形そのものが変わるかもしれない」
ミレイユが警告を発した。
「術者もこの異常に巻き込まれてるはずです。逃げ場は……狭い」
ユアンの槍の穂先が、かすかに揺れる。
「なら、なおさら急ぐぞ」
ガレンは歩みを緩めることなく、ただ前だけを見据えて森の最奥へと刃を向けた。
その時だった。
不意に、風が止まった。
第九隊の足が一瞬だけ鈍る。空気が鉛のように重くのしかかり、踏みしめた腐葉土が底抜けに沈み込んだような悪寒が走る。
そして――遥か遠く、夜の闇が沈殿する森の深淵で、低い唸り声のような振動と共に、濃密な『黒霧』が脈動するように震えた。
ガレンや第九隊のメンバーは、その異常な気圧の変化を森の迷宮化の一部としか捉えていない。だが、その異質で圧倒的な冷たさは、かつてガレンが相対した“あの男”の影を、確かにそこへ落としていた。
「……風が嫌がってる。でも、何の気配かは分からない」
リアナが自身の腕を抱きしめ、身震いする。
「魔力の濁りが強い……でも、術者のものじゃないわ」
ミレイユが解析具を叩くが、針は乱高下するばかりだ。
「……森の脈動と混ざってます。判別できません」
ユアンが油断なく周囲を警戒した。
ガレンは一瞬だけ、森の最深部へと鋭い視線を向けた。だが、すぐに意識を目の前の任務へと引き戻す。
「気にするな。今は術者だ」
再び駆け出した彼らの前に、やがて視界が開けた場所が現れた。
巨木の太い根元で、一人の男が幹にすがりつき、胃の奥をえぐられるような痙攣に身を折っていた。
荒い呼吸。額に浮かぶ脂汗。その胸元では、銀色のペンダントが弱々しい蒼光を点滅させている。
「……再転送する気だ。でも、波長が安定してない……!」
ミレイユが解析具を構える。
「風が乱れてる……発動寸前!」
「ガレンさん、今なら――!」
男が背後の気配に気づき、血走った目で第九隊を振り返った。
「行くぞ! 絶対に逃がすな!」
「ヒッ……!」
男は悲鳴のような声を上げ、震える手でペンダントを高く掲げた。
強引な魔力の注入。ペンダントから蒼い光が細い筋となって垂直に立ち上がる。
木の幹も、腐葉土も、男の恐怖に引きつった顔も、すべてが蒼光に塗り替えられていく。風が周囲の空気を吸い込むように逆流し、地面がぐらりと沈んだ。
「波長が跳ねた……発動する!」
「リアナ、風で乱せ! ユアン、右から回れ!」
ガレンの指示と同時、リアナの両手から放たれた強烈な突風が光の柱を物理的に歪ませる。
その隙を突き、ユアンが地を這うような低さで男の右側へ回り込んだ。退路へはドレイクが巨躯を滑り込ませ、大盾で完全に空間を塞ぐ。
「来るな……来るな……ッ!」
男が涙声で叫びながら、無理やり転送を強行しようとした瞬間――
「今! 波長の結合が破断した!」
ミレイユの鋭い声が響いた。
リアナの風が男の足元を掬い、体勢を大きく崩させる。
そこへ、ユアンの槍が下から跳ね上がり、ペンダントを握る男の手首を的確に弾き飛ばした。
ドレイクの大盾が背後へ逃れようとする男を弾き返し――
がら空きになった胸元へ、踏み込んだガレンの刃が冷徹に突き込まれた。
「ガァッ……!」
短い悲鳴。
手から離れたペンダントが宙を舞い、腐葉土の上に転がり落ちると同時に、吹き荒れていた蒼光がふっと霧散した。
「……転送波長、完全に消失。もう発動できないわ」
ミレイユが安堵の息を吐き、解析具を降ろす。
「風も落ち着いた……終わったわ」
リアナも肩の力を抜いた。
刃を突きつけたまま、ガレンが短く告げる。
「よし。――第九隊、任務完了だ」
森の空気が、わずかに軽くなった気がした。
しかし――
冷たい黒霧が、森の深淵で静かに立ち上る気配だけが――
第九隊の誰にも気づかれることなく、確かにそこにあった。




