【第六十五話】包囲戦の前夜
東の森に澱んでいた重い空気から抜け出し、駐屯地へ帰還した第九隊の面々は、わずかに肺を満たす風の軽さを感じていた。
しかし、誰一人の顔にも安堵はない。表情は鋭く引き締まったまま、彼らはすぐさま作戦用の簡易テントへと集結した。
卓上に広げられた辺境の地図を前に、ガレンが静かに口を開く。
「状況を整理する。まずはリアナ」
促されたリアナが、少し目を伏せて風の記憶をたどった。
「風が言ってた。拠点には少なくとも十数人以上の気配があったわ。でも……森の奥へ消えたあの男のような『重い気配』は、拠点の中には残っていなかった」
「足跡は転送酔いの特徴と完全に一致していました」と、ユアンが手元のメモに視線を落としながら続く。
「歩幅の乱れから見て、複数人が短距離転送を繰り返している可能性が高いです」
腕を組んだドレイクが、卓上の地図を指差した。
「拠点は斜面に沿って建てられている。正面からの入り口は狭いが、裏手はそのまま森の奥へ抜けられる構造だ。逃げ道を塞ぐ必要がある」
最後にミレイユが、解析具から書き出した波長データを卓上に並べた。
「あのペンダント、一見するとただの薄汚れた安物に見えるわ。でも、台座に刻まれた紋様と石の脈動は、明らかに古代魔導文明の空間魔術具よ。断言はできないけど、現代の技術じゃまず作れない」
ミレイユは眼鏡の位置を押し上げ、確信を込めて言った。
「そして、空間が歪むたびに魔力がひどく濁っていた。あれは、使い手が魔力制御の基礎すら知らない素人だからよ」
ユアンが眉をひそめる。
「じゃあ……あの遺物を完全に使いこなせる人間は、あの拠点には限られているということですか?」
「ええ」ミレイユが静かに頷いた。
「だからこそ――あの場で最も得体の知れなかった“本当に危険な術者”は、あの拠点にはいなかった可能性が高いわ」
ミレイユの言う「危険な術者」という言葉に、隊員たちはあの赤い目の男の影を思い出す。彼らはそれがかつての仲間であるカイルだとは知る由もない。ただ、あの男の気配が、森の異変と同じ“嫌な揺らぎ”を纏っていることだけは、全員が肌で感じていた。何者かは分からない。ただ、あの場にいた誰よりも“触れてはいけないもの”だと、本能が告げていた。
ガレンが全員の報告を聞き終え、地図を強く指で叩いた。
「……敵の数は想定より多い。だが、物資の出入りが少ないのは、あのペンダントで補っているからだろう。厄介だが、やれる」
その声には、かつてのような突っ走る勢いはなかった。仲間の言葉を一つひとつ拾い上げ、危険と勝機を秤にかける――その姿に、第九隊の誰もが自然と背筋を伸ばした。
「あいつが戻ってくる前に、拠点を叩く。逃がさずに制圧するぞ」
ガレンの言葉に、全員の視線が集中する。
「リアナ、索敵を頼む。風で拠点の周囲を完全に監視してくれ。風の流れが不自然に乱れたら、誰かが転送を使おうとした合図になる」
「わかったわ。風の檻を張る」
「ユアンは相手の動きを読め。予備動作は見抜けそうか?」
「転送術者は、ペンダントを発動する前に何らかの予備動作が必要なはずです。そこに隙ができるなら――絶対に見逃しません」
「ミレイユ、転送を封じることはできるか?」
「ペンダントの魔力波長は記録したわ。発動の瞬間にこっちから干渉して魔力を乱せば、転送は失敗する。私が封鎖する」
「ドレイクさんは、俺たちと一緒に突入を。若手の背中をお願いします」
「包囲。監視。封鎖。突入。……それでいい」
ドレイクが深く頷き、太い声で応えた。
ガレンは静かに息を吸い込み、卓上の地図から全員の顔へと視線を移した。
「よし。隊長が帰ってくる前に、辺境の憂いを絶つ。――これは、俺たち第九隊の戦いだ」
その言葉に、誰もが深く頷いた。
夜明け前。
藍色の薄暗い空の下で、駐屯地は静寂に包まれていた。東の森は、夜明け前だというのに、まるで獲物を待つ迷宮の入口のように、じっと口を閉ざしている。だが、その静けさの底には、研ぎ澄まされた刃のような緊張感が満ちていた。
リアナは目を閉じ、これから向かう森の風を感じながら深く深呼吸を繰り返した。
ユアンは手にした槍の柄を何度も握り直し、最適な重心の位置を指の腹に覚え込ませる。
ドレイクは使い込まれた盾の留め具を無言で点検し、ミレイユは魔力封鎖具の微細なノイズ調整に余念がない。
それぞれの準備を終えた隊員たちを、ガレンが静かに見渡した。
ふと、リアナが目を開き、東の空を見上げた。
「……やっぱり、あの拠点には“重い気配”はないわ。でも、風が言ってる」
彼女は胸元を小さく握りしめた。
「“遠くで、何かが動いてる”って」
その正体が、あの赤い目の男なのか、それとも近づきつつあるウエスの足音なのか、今の彼らにはわからない。
だが、迷っている暇はなかった。
ガレンが短く、鋭く告げる。
「行くぞ。戻ってくる前に、俺たちの仕事を終わらせる」
まだ夜の帳が抜けきらない東の森へ向けて、第九隊は静かに歩みを進めた。
自らの足で立ち、自らの判断で決断を下した彼らの背中は、夜明け前の闇の中でも確かに誇り高く見えた。




