【第六十四話】森の暗部と蒼き残滓
東の森は、奇妙なほど静まり返っていた。
木々の間を抜ける風は鉛のように重く、肌に張り付くような嫌な湿り気を帯びている。普段なら絶え間なく聞こえるはずの獣の鳴き声も、羽虫の羽音すらもしない。足を踏み出すたび、腐葉土が沈む。それは柔らかい土の感触ではなく、“下に空洞がある”ような、嫌な沈み込みだった。
森そのものが、まるでゆっくりと別の何かに作り変えられているかのような――迷宮化の前兆。
「……風が、濁ってる」
最後尾を歩くリアナが、胸元をきつく握りしめながら呟いた。
その前を歩くユアンもまた、自身の胸の奥で微かな脈動が警鐘を鳴らすのを感じていた。彼は不意に足を止め、ぬかるんだ地面にしゃがみ込む。
「どうした、ユアン」
先頭を歩いていたガレンが、警戒を解かずに振り返った。
「足跡です。ここを数人が通っている。でも……」
ユアンは泥に刻まれた跡を指先でなぞり、眉をひそめた。
「歩幅が乱れすぎている。重心が右に左にズレていて、途中で泥の上を滑ったように踏み込んでいる跡もある。怪我をしているわけじゃない。まるで……ひどく酔っ払って、平衡感覚を失った直後のような歩き方だ」
その言葉に、ミレイユが手のひらを地面にかざした。彼女の指先にある小さな解析具が、微かなノイズ音を立てる。
「……空間が歪んだ痕跡があるわね。転送術の残留魔力よ。しかも複数人分」
ミレイユは顔を上げ、メガネの奥の瞳を鋭く細めた。
「空間を無理やり繋げば、肉体には必ずタイムラグと強い負荷がかかる。急激な三半規管の狂い――いわゆる『転送酔い』ね。ユアンの推測通りよ」
リアナが目を閉じ、風の流れに意識を澄ませた。
「この足跡の先に……人の気配がする。でも、動きが一定じゃない。ひどく落ち着きがないわ」
「行くぞ。音を消せ」
ガレンの低い声に、隊員たちは無言で頷き、森のさらに奥へと足を踏み込んだ。
木々の隙間から見えたのは、森の斜面にへばりつくように建てられた粗末な木造の拠点だった。
だが、その外観に反して見張りは極端に少なく、周囲は異様な静けさに包まれていた。
「突っ込むな。まず見る」
それはかつてウエスが何度も口にした言葉だった。逸る気持ちを抑え、ガレンは静かに息を整えた。かつてのように力任せに飛び出すような真似は、今の彼はしない。
茂みに身を潜め、拠点の様子を窺う。
見張りの数は少ないが、出入りする人影は明らかに想定される野盗の規模を超えていた。だが、物資を運び込んでいる荷馬車や荷運びの姿は見当たらない。
「あれを見て」
ミレイユが声を潜めて指差した。
拠点から出てきた数人の屈強な男たち。彼らの首元には、薄汚れた身なりには到底不釣り合いな、精巧なペンダントが下げられていた。銀色の台座に古代文字が刻まれ、中央に埋め込まれた石が、脈打つように淡い蒼光を放っている。
蒼光が脈打つたび、空気の奥で、かすかな“音”が震えた。
その蒼光が強くなった瞬間、男たちの姿が空間の揺らぎと共にブレたかと思うと、一瞬にしてその場から掻き消えた。
「……間違いない。転送用のアイテムよ」
ミレイユが忌々しそうに呟く。
「あれだけの規模の転送陣を構築するんじゃなく、遺物を使ってピンポイントで跳んでいる。残留魔力がひどく濁っているのは、使い手が魔力制御もできない素人だからだわ」
「つまり、あいつらはあのペンダントで物資や人員を転移させてるってことか」
ガレンがギリッと奥歯を鳴らす。
「野盗の分際で、どこからあんな物を……」
その時だった。
拠点の最奥、光の届かない薄暗い小屋の入り口に、一人の男の影が立っていた。
野盗たちはその男を酷く恐れているのか、誰も近づこうとしない。男の目は赤く濁り、その足元には、陽光を嫌うように蠢く黒い霧の残滓が微かに揺らいでいた。
男は、ペンダントを持った野盗たちを監視するように見下ろしている。
そしてふと、男の赤い瞳が、第九隊が潜む茂みの方角へと向けられた。
男が茂みの方を見た瞬間、風が一度だけ止まり、森が息を潜めた。
距離があり、ガレンたちにその姿ははっきりとは見えない。ただ、「底知れぬ悪意」のようなものだけが肌を撫でた。
男はしばらく茂みを見つめていたが、やがて興味を失ったように背を向け、森のさらに奥の闇へと消えていった。
第九隊の面々は、その男の正体にまでは気づいていない。だが、森に巣食うのがただの野盗ではなく、背後に得体の知れない強大な悪意が潜んでいることだけは、全員が肌で感じ取っていた。
「……戻る」
ガレンが静かに、しかし断固たる声で言った。
「情報が集まった。一度駐屯地へ戻り、作戦を練り直す」
リアナが張り詰めていた風の索敵を収める。
ユアンが無言で槍の柄を握り直し、決意を込める。
ドレイクがガレンの的確な判断に、深く静かに頷いた。
ミレイユは手元の解析具で、あのペンダントが放つ独特の魔力波長を正確に記録した。
「ここは、ウエス隊長なしで俺たちで潰す」
ガレンの力強い宣言と共に、第九隊は音もなく立ち上がり、来た道を戻り始めた。
森の異変、謎の転位ペンダント、そして背後に潜む黒い影。
辺境を呑み込もうとする悪意の全貌が、少しずつ形を成し始めていた。




