【第六十三話】知らせ
辺境駐屯地の早朝。夜明けの冷たい霧がまだ色濃く残る訓練場には、若き隊員たちが打ち合う木剣の乾いた音と、鋭い呼気だけが響いていた。
そこへ、突如として蹄の音が静寂を切り裂いた。
駐屯地の門をくぐり抜けてきたのは、一騎の早馬だった。馬は白い泡を吹き、騎乗する伝令の胸は激しく上下している。その手には、王家の赤い封蝋が押された書状が固く握られていた。
馬から転げ落ちるように降り立った伝令が、大きく息を吸い込み、声を張り上げる。
「王都より急報! ウエスティン隊長、こちらへ向かっていると――!」
その瞬間、訓練場の全ての音がピタリと止んだ。
振り下ろされようとしていた木剣が空中で静止し、張り詰めていた空気の密度が一気に変わる。
「隊長が戻るって……マジかよ!」
沈黙を破ったのは、ガレンの叫びにも似た歓声だった。木剣を握りしめたまま天を仰ぎ、その瞳に一瞬にして熱い火が灯る。彼は感情の赴くまま、すぐさま仲間の輪へと駆け出した。
一方、リアナは弾かれたように風の匂いを嗅ぐ仕草を見せ、その手をぎゅっと胸元に当てた。
「でも、どうして今なの……?」
彼女の唇から、小さな囁きがこぼれ落ちる。かつて自分の力不足で守りきれなかった記憶が短いフラッシュのように脳裏をよぎり、期待の裏側に冷たい不安が混じり合っていた。
喧騒の端で、ユアンは静かに目を細めた。手元の備忘録に素早く視線を落とし、頭の中で即座に戦力配分を計算し始める。
(隊長が来れば、戦術を変えられる。俺、もっと役に立てるようになるかな)
ペンを走らせるような仕草で、彼は自分にできる具体的な準備をシミュレートしていた。
浮き足立つ若手たちを、太く落ち着いた声が制した。
「全員、装備点検。隊長が来る前に形を整える」
古参のドレイクだ。彼は過去のウエスの凄絶な姿を知る者としての重みを漂わせながら、静かな覚悟を込めた視線で場を引き締めた。
同じ頃、少し離れた解析室では、ミレイユが報告書の束を手に立ち尽くしていた。
「……戻ってくるのね」
胸の奥で、張り詰めていた何かが静かにほどけるような感覚がした。
科学者としての冷静な仮面の裏で、その声は微かに震えていた。彼女は眼鏡の奥に滲んだ涙を隠すように短く目を閉じ、そしてすぐに、いつもの鋭い眼差しを取り戻した。
空気が再び変わったのは、伝令が息を整え、追加の報告を口にした時だった。
「道中の警戒を厳とせよとのことだ。王都周辺で黒霧狼の痕跡が増えている。さらに、東の街道で不自然な焼け跡が連続して見つかっているらしい」
歓喜に沸いていた隊員たちの顔が引き締まる。それは、ただの帰還の知らせではない。明確な危機の接近を告げる警鐘だった。ガレンは剣の柄を握り直して怒りを滲ませ、リアナは森の奥へ恐れを抱くように身震いをした。
ドレイクが伝令から書状を受け取り、文面に目を通す。
「『辺境の秩序維持のため』……書かれているのはそれだけか」
その横から書状を覗き込んだミレイユが、皮肉げに鼻を鳴らした。
「宰相が表向きの理由しか示さないのは、裏がある証拠よ。王都は、何かを隠している」
政治の匂い。その言葉に、隊の間に微かな動揺が走る。
「理由なんてどうだっていい! 隊長が戻るならそれでいいだろ!」
ガレンが吠えるように言い切ったが、その声の端には、見えない王都の思惑に対するわずかな揺らぎが混じっていた。
「動け!」
ドレイクの号令が飛ぶ。
「隊長が来るまでに、俺たちが守るべきものを守る。準備はいいか」
即座に再編成と準備が始まった。
ガレンは剣の手入れを念入りに行いながら、ユアンを相手に基本動作の確認を叩き込む。リアナは目を閉じ、森から漂う微かな気配の変化を察知する訓練を反復した。ミレイユは解析室へ戻り、机いっぱいに資料を広げて魔力の異常波長を追い直す。
そしてドレイクは指揮所に籠り、地図を広げてウエスの到着経路と合流地点を想定し、防衛の配置を固めていった。
夕刻。
血のように赤い夕日が、辺境の森を不気味に照らし出していた。
上空では、黒い鳥の群れがまるで何かに怯えるように不吉な弧を描いて飛び去っていく。東から生温かい強風が吹き抜け、木々がざわざわと身を捩るように鳴った。
訓練を終えた隊員たちは、誰からともなく東へ続く街道を見つめていた。期待と緊張が入り交じった、重い沈黙が広がる。
(風が告げている。あの人が近づいている)
ドレイクは胸の中で独白し、東の空を睨みつけた。
だが、伝令が去り際に残した言葉が、彼らの胸の奥に小さな不安の種として根を張っていた。
『宰相は詳細を伏せている。王都の意図は不明だ』
再会の時は近い。しかしそれは、両手を挙げて歓迎できるような単純なものでは済まない。東から吹く不穏な風が、それをはっきりと告げていた。




