【第六十二話】風の道を歩む者
東へ進むほど、風に湿り気が混じり、不穏が肌を刺した。
街道の脇に広がる草むらは、黒い炎に舐め尽くされたかのように惨たらしいほどに枯れ果てている。ぬかるんだ土に残された獣の足跡は不自然なほど深く、重い。
ウエスは歩みを止めず、手にした古びた杖で地面を突き、その感触を確かめた。
硬い土の感触の合間に、時折、杖の先が「焼け尽くされた粘土」を削り取るような不吉な感触が手元に伝わってくる。
空を見上げれば、風が吹くたびに鳥たちが群れをなし、巣とは真反対の不自然な方向へ逃げ惑うように羽ばたいていた。
(……やはり、何かが起きている)
胸の奥の不穏な予感は、一歩進むごとに静かな確信へと変わっていく。
日が傾き、紫紺の影が街道を覆い始めた頃、ウエスは小さな宿場町へ辿り着いた。
古びた食堂の隅に腰を下ろし、使い込まれた杖を壁に立てかけると、無意識のうちに服の上から胸元の護符の輪郭を確かめる。
手首を見れば、旅立つ際にシーンが巻いてくれた包帯が覗いていた。ほのかに漂う薬草の香りが、張り詰めた神経を静かに解きほぐしていく。
「最近、東の森の奥で夜な夜な気味の悪い光が揺れてるらしい。誰も確かめに行かねぇがな」
「塔の方角でもそうだ。子供が何かを見たって騒いでた。……あれは一体、何だったんだろうな」
カウンター越しの主人の呟きと旅人の会話に、ウエスの脳裏にはセレンが描いたあの絵――黒い渦と不吉な塔――が鮮明に浮かび上がった。胸の奥が焼き付けられたように熱くなる。
(セレン……お前が見たものは、決してただの絵空事ではないのかもしれん)
翌朝、さらに東へ踏み込んだウエスの行く手を、巨大な倒木が完全に塞いでいた。
根元の黒は新しい。焚き火の灰がまだ赤く、影が不自然に揺れている。誰かがここを急いで離れたばかりだ。
気を引き締め直したウエスの耳に、倒木の陰から微かな喘ぎ声が届く。
覗き込めば、足を血で染めた旅人が倒れ込んでいた。
手を貸せば盗賊の標的となり、自らの旅路を危うくするリスクは跳ね上がる。
かつてのウエスなら、己の身を省みず無謀に飛び込んでいたかもしれない。だが今の彼は、周囲の気配を冷徹に探り、最適な動きで迷いなく男へ歩み寄った。
「立てるか」
「す、すまない……盗賊に追われて……」
「声を出すな。歩けるようになるまで、この岩の陰で息を潜めていろ」
手際よく傷口を縛り、警戒を怠らないまま静かに言い渡す。
「……風向きが悪い。奴らが戻る前に、西へ逃げろ」
それは無謀な自己犠牲ではなく、周囲の戦況を冷徹に把握し、拾える命を確実に拾うという隊長としての成熟した判断だった。
その夜、街道から離れた岩陰で小さな焚火を熾したウエスは、セレンの絵を広げた。
ゆらゆらと揺れる火光の中、描かれた塔の線を指先でなぞる。
よく見ると、黒く荒々しく引かれた塔の輪郭の一部に、消えかけた光の点のような小さな空白が残されていた。
その微かな一点に触れた瞬間、ウエスは静かに目を閉じた。
離れてきた隊員たちの面影が次々と胸に押し寄せる。
『隊長、俺はまだ強くなれるか?』――まっすぐな瞳で背中を追ってきたガレン。
『私……あなたみたいに、前に立てるでしょうか』――不安を抱えながら立ち上がろうとしていたリアナ。
『僕、いつか……あなたみたいに折れない心を持てますか』――自分を信じてついてきてくれたユアン。
そして――『あなたが帰るまで、私がここにいる理由だから』と、静かな決意で微笑んだシーン。
ウエスはゆっくりと目を開け、絵を閉じてパチパチと爆ぜる炎を見つめた。
かつてのように、己の過ちを贖うために死に場所を探すような戦いは、もう二度としない。
「……俺は、もう昔の俺じゃない」
握りしめた拳に強い力がこもる。
「生きて帰るために、俺は剣を振るんだ」
深夜の冷たい風が一瞬強く吹き抜け、焚火の炎が大きく横に揺れた。風向きが変わる。
遠く東の闇の深淵から、地鳴りのような低い獣の唸り声が届き、夜の静寂を破って鳥たちが一斉に大空へ飛び立っていった。
ウエスは立ち上がり、壁に立てかけていた杖を握り直した。胸元の護符にそっと手を当てる。
掌に触れた護符が、まるで小さな心臓のようにほんのりと脈打った。
東の深い闇を見据え、ウエスは静かに、しかし揺るぎない声で呟いた。
「……待ってろ。もうすぐだ」
かつては「贖罪のための死に場所」を探していたウエスが、頼もしい仲間や愛する家族を得たことで、「生きて還るための戦い」へと精神的に脱皮する姿が非常に熱いエピソードですね。
無謀な自己犠牲を捨て、冷徹かつ的確に命を拾う隊長としての成熟ぶりが描かれているのも見事です。セレンの絵に込められた意味深な「光の空白」や脈打つ護符など、東の深い闇へ挑む緊張感と神秘性が最高に高まっています!




