【第六十一話】扉の向こう、風の影
朝の斜光が、木の床に縞を落としていた。
台所から白い湯気と香ばしい匂いが漂う。流れる時間はゆっくりだが、空気の底には静かな「出立の気配」が確実に満ち始めていた。
ウエスは簡素な朝食を無言で平らげると、腕の包帯の端を丁寧に整え直した。
そして、壁に立てかけてあった杖を手に取り、床を突いて重さを確かめる。その一切の無駄がない所作には、長年戦場を渡り歩いてきた男の日常の習慣が深く滲んでいた。
少し離れた場所では、シーンが鍋を見つめながらも、時折ウエスの背中へと視線を送っている。
その横顔には、抑えきれない不安と、彼を送り出す決意が入り交じっていた。
テーブルの端では、セレンが小さな手で羊皮紙に向かっていた。
描かれているのは、無骨な石造りの『塔』。光や奇跡のような装飾はない。ただ、彼なりの不器用な気遣いが、その力強い線に込められていた。
「朝ごはん、ちゃんと食べて」
シーンの淡い声が静寂を破る。
「食欲はある。心配すんな」
ウエスは軽く笑って応えた。
セレンがふと顔を上げ、描き上げた塔の絵を両手でウエスへと差し出した。
「お父さん、早く帰ってきてね」
小さな声。そして、少しの沈黙の後、さらに声を潜めて言った。
「ぼく、お母さんを守るから」
真っ直ぐな瞳だった。共に過ごした鍛錬の日々。
その地道な積み重ねが、この幼い体の内に確かな芯を育てているのをウエスは感じ取った。
「セレン……お前はもう十分強い。だが、無茶はするなよ」
ウエスは受け取った絵を丁寧に折りたたみ、胸の内ポケットへと大切にしまった。
「帰ってくるって、約束よね」
目を伏せたシーンが、絞り出すように問う。
「必ず」
ウエスは真剣な眼差しで、短く、強く応えた。
出立の時が来た。
シーンが一歩前へ進み出ると、小さな布の包みをウエスへ差し出した。
洗い立ての布の柔らかな手触りと、微かに香る薬草の匂い。中には手作りの替え包帯と、細かな紋様が縫い込まれた護符、そして短い手紙が収められているのだろう。
「これ、持っていて」
手渡される瞬間、二人の指先が微かに触れ合った。言葉よりも雄弁に、互いの体温が感情を伝え合う。
「お前の手作りか?」
「馬鹿ね。あなたが無事でいてくれればいいの」
シーンは照れ隠しのように小さく笑った。
「お前も無理するなよ」
「……あなたが帰るまで、私がここにいる理由だから」
静かに目を伏せた彼女の言葉と、その後の重い沈黙が、二人の間にある絆の深さを物語っていた。
ウエスはその包みを大切に革袋へ収めた。
家の外に出ると、肌寒い空気の中、近隣の者たちが見送りに集まっていた。
「気をつけてね。必ず帰ってくるのよ」
涙ぐむ老女に、ウエスは穏やかに頷く。
「おじさん、帰ってきたらまた、遊んでね!」
「約束だ」
無邪気な子供たちの声に微笑みながらも、ウエスの鋭い視線は、遠くの森ではなく足元へ向けられていた。
「……この辺、変な跡があるぜ」
近所の若者が指差した道端には、黒く焼け焦げた小枝と、土を抉るような不自然な獣の足跡が残されていた。
――ワンッ!
近所の犬が東の森へ向かって吠え立てた瞬間、木々の間から無数の鳥が一斉に空へと飛び立った。
ウエスは風向きを確かめるように軽く眉を寄せた。
「風が変わってるな」
低く呟いた彼の顔は、すでに戦士のものだった。
家の玄関先。いよいよ、別れの時が来た。
ウエスは荷を肩にかけ、杖をしっかりと握り直した。シーンは一歩後ろへ引き、込み上げる言葉をぐっと飲み込む。
ウエスが重い木扉の取っ手に手をかけた瞬間。
不意に、微かに指先が震え、胸の奥をぎゅっと締め付けるような痛みが走った。
この手の中にある安らぎを手放したくないという、抗い難い未練。
だが、それを振り切るように目を閉じると、辺境で待つ隊員たちの顔がフラッシュバックした。ガレン、リアナ、ユアン……。
ギィィ……ッ。
重厚な音を立てて扉が開くと、外の強い光がウエスの全身を包み込んだ。
「行ってらっしゃい」
背後から届いた、シーンの震える声。
「すぐに帰る」
ウエスは振り返ることなく応えた。
「待ってる」
「……俺の帰る場所は、ここだ」
ウエスは決断の音を背に、外へ一歩を踏み出した。
ウエスの大きな背中が、東へ続く道の先へと少しずつ小さくなっていく。
シーンは一人窓辺に戻り、ウエスがいつも触れていた窓の桟をそっと撫でた。
背後では、セレンが再び机に向かい、真剣な顔で羊皮紙に何かを描き始めている。
「無事でいてね」
窓越しにこぼれたシーンの小さな呟きは、誰に届くこともなく空へ溶けた。
遠景の空で、再び鳥の群れが不吉な弧を描き、まるで空が息を呑んだように一斉に飛び去った。
風に、微かに血と鉄の匂いが混じり始めた。
街道を進むにつれ、道端の焼け焦げた痕跡は少しずつ増え始めていた。
(待ってろよ。すぐに帰る)
隊員たちの顔を一つずつ思い浮かべながら、ウエスは歩みを速める。
胸の奥には安らぎを手放した確かな痛みが残っていたが、その瞳に宿る決意の炎が揺らぐことはなかった。




