【第六十話】命令と葛藤
重厚な石造りの執務室。高い天井に、羽根ペンが羊皮紙を擦る乾いた音だけが響いている。窓から差し込む午前の光は薄く、室内に落ちる陰影はどこまでも濃い。小さく揺れる暖炉の火が、壁に掛けられた古い地図をぼんやりと照らし出していた。
「ウエスティンを、辺境へ戻せ」
書類に署名する手を止めず、宰相は淡々と告げた。その指先には、かつての戦いで刻まれた古い傷跡が白く残っている。半ば開かれた机の引き出しには、赤黒い印が無数に打たれた辺境の地図が覗いていた。
「……まだ完全には回復していません。傷も癒えきっておらず、今送り返すのは――」
対面に立つ騎士団長が、わずかに眉間に皺を寄せて声を絞り出す。立ち位置を変えない彼の視線だけが、一瞬、窓の外を行き交う巡回兵の列へと向けられた。
「だからだ」
静かに、しかし絶対の確信を持った声で宰相が言葉を遮る。
「あの男は辺境の異変を知りすぎている。王都で余計なことを調べ始める前に、元いた場所へ戻しておくのが互いのためだ。かつて辺境の闇が王都に及ぼした爪痕、その二の舞は避けねばならん」
言葉の端には、国を背負う者としての途方もない経験と、隠しきれない疲労が滲んでいた。これは悪意ではない。王都の安寧を守るための、冷徹なまでの合理だ。
「承ります。だが、隊の士気は――」
「士気は、指導者の帰還でまた立て直せる。今は秩序を優先する」
視線を上げることなく言い切った宰相に、騎士団長は小さく息を吐き、深く頭を下げた。
──
王都の喧騒から遠く離れた、小さな家。簡素だが手入れの行き届いた木の床に、夕方に近い柔らかな光が差し込んでいる。窓辺に置かれた小さな植木。外から微かに聞こえる子供たちの笑い声。ここでは、流れる時間そのものがゆっくりと優しかった。
ウエスは持ち帰った命令書を机に置いた。だが、その紙片を取り上げることはせず、無骨な指先が紙の縁をなぞるように迷っている。
「ここにいると、戦場の音が遠くなるんだ」
心の中で呟いた言葉を打ち消すように、ウエスは窓の外の空を追った。脳裏に差し込むのは、土に塗れた隊員たちの顔と、救えなかった命の断片だ。
「……本当に戻るの?」
ことり、と。机に置かれた茶碗がかすかな音を立てた。差し出されたシーンの手は、わずかに震えている。彼女の表情には、ウエスの身を案じる不安と、行かせたくないという抑えきれない弱さが混ざり合っている。
沈黙が降りる。布の擦れる音だけが、茜色に染まる室内に響く。
「戻りたい」
静かに、しかし確かな声でウエスは応えた。命令書には触れず、空に向けていた視線をやがてシーンの震える手元へと落とす。
「……正直、今の暮らしは、悪くない」
ふっと、ウエスの口元に儚い笑みが浮かんだ。英雄と呼ばれた男が覗かせた、人間としての無防備な弱さ。
「お前と静かに話せる時間も、もう少しここにいたいと思う」
その言葉に、シーンは弾かれたように顔を上げた。彼女の手が、無意識にウエスの袖へと伸びる。包帯の巻かれた痛々しい腕。しかし、その指先は布に触れる寸前で止まり、切なく宙を彷徨ってからゆっくりと引き戻された。
「でも……まだ杖が必要なのよ」
縋りつきたい気持ちを必死に押し殺し、彼女は絞り出すように言った。
ウエスは小さく息を吸い、窓の外を見据えながら軽く拳を握り込む。安らぎを手放す痛みが一瞬だけその横顔をよぎる。だが、再びこちらを向いた時の彼の瞳には、確かな熱が灯っていた。
「分かってる。あいつらはもう、俺がいなくても戦える。だからこそ、今度は俺があいつらのところへ戻る番だ」
静かだが、揺るぎない決意。その強さに触れ、シーンは一度だけ深く目を伏せた。
「……帰ってきてね」
顔を上げた彼女の唇には、静かで穏やかな微笑みが浮かんでいた。声は震えている。それでも、その瞳の奥には彼を信じて送り出す確かな強さがあった。
「あなたの帰る場所は、ここにあるから」
夕陽が茜色の光を差し込み、室内の輪郭を温かく縁取る。遠くで、夕刻を告げる鐘の音が一度だけ鳴り響いた。
ウエスは窓辺に立ち、東の空を見つめていた。窓の桟に残る指紋が、二人が共有した穏やかな時間の温度を物語っている。胸の内で、辺境に残してきた者たちの顔が次々と浮かび上がる。
「待ってろよ、ガレン。リアナ。ユアン。ドレイク。ミレイユ」
一人ひとりの名前を噛み締めるように低く呼ぶ。彼らの顔を思い浮かべるたび、胸の奥で燻っていた炎が大きく燃え上がっていくのを感じた。
「今度は、俺が帰る番だ」
確かな決意を込めたその声に応えるように、窓の外で風向きがふっと変わった。遠く東の森の木々がざわめき、不自然なほど一斉に鳥の群れが空へと飛び立っていく。
戦いの気配が、風に乗って王都へとにじり寄っていた。




