【第五十九話】 帰る場所があるということ
──コン、コン。
静寂を切る控えめなノック。シーンは顔を上げた。
こんな夜更けに誰だろう。
奥のベッドでは、セレンが規則正しい寝息を立てている。彼女を起こさないよう、シーンは足音を忍ばせて扉を開けた。
そこには、長旅の汚れもそのままに、旅装のミレイユが立っていた。
「ただいま戻りました、シーンさん。隊長の具合はどうですか?」
挨拶もそこそこに、ミレイユは切羽詰まった声で尋ねた。強張った顔を見て、シーンは自然に目を細める。
「おかえり、ミレイ。……さあ、入って。セレンが寝ているから、少し静かにね」
その一言に、張り詰めていた糸がふっと緩む。
「ただいま……シーンさん」
自分を「おかえり」と迎え入れ、気遣ってくれる人がいる。ここが“帰る場所”なのだと、彼女は改めて実感した。
中へ入ったミレイユの頬に、シーンの手がそっと触れる。
「顔が疲れてる。ご飯、食べた?」
「……まだです」
「じゃあ座って。まずは食べてから話しましょう」
有無を言わさない優しい気遣いに、ミレイユは素直に頷いた。扉の前での生真面目さは消え、シーンの前では不思議と妹のような顔になる。
温かいスープを一口すするのを見届けてから、シーンは声を落として問いかけた。
「王都はどうだった? 大変だったでしょう」
ミレイユはスプーンを止め、スープの湯気の向こうへ視線を落とす。
「……昔、魔法学院で研究職を目指していた頃を思い出しました」
ぽつりとこぼれた言葉に、微かな影が揺れる。
「座学では優秀だと言われていたのに、実技が駄目で……。結局、私には王都で居場所を作れなかったんです」
自嘲気味なその視線を、シーンは優しく、力強い眼差しで受け止めた。
「でも、今は違うでしょう?」
顔を上げたミレイユに、シーンは微笑む。
「ミレイは、ここで必要とされてる」
「……はい」
ミレイユは少しだけ照れたように笑った。
「辺境に来て初めて、自分の知識が役に立つって思えましたから」
「ミレイユ……戻ったのか」
奥の部屋から、ウエスが姿を現した。
右手には杖を握っているが、以前のように体重を預けきってはいない。自らの足で床を踏みしめ、背筋を伸ばして歩み寄ってくる。
(……確実に、良くなっている)
その確かな回復の兆しが、ミレイユの胸を熱くした。
「……はい。隊長に伝えたいことがあって」
ミレイユは立ち上がり、机の上に王都周辺の地図と『魔力音譜』を広げた。セレンを起こさないよう声は抑えつつも、口調には熱が帯びる。
「森の黒土と封印区画の揺らぎは、同じ旋律で揺れています。地脈が引かれているんです。つまり……森も王都も、同じ根で揺れている」
淀みなく語るミレイユを、シーンは静かに見守る。ウエスは地図を見つめ、真剣な面持ちで聞き入っていた。杖をつく手に力がこもり、瞳の奥にかつての“隊長としての静火”が灯り始めているのを、二人は感じ取っていた。
説明を終えたミレイユの傍らで、シーンがそっとウエスの袖を掴む。
「ウエス……まだ身体が……」
「大丈夫だ。お前がいるから、 insecureにはならない」
その光景に、ミレイユの胸の奥が温かくなる。
「……シーンさんは、やっぱりすごいですね」
「ミレイもよ」
シーンはウエスの袖から手を離し、ミレイユに向き直った。
「あなたの言葉があるから、ウエスは前に進めるの」
「……この情報は、すぐに辺境にも伝えないと」
ミレイユは地図を畳み、決意を込めて言った。
「向こうの状況を直接確認したい」
「行くのか」
「はい。私は“ここ”で必要とされているから」
シーンはミレイユの手を両手で包み込んだ。
「気をつけてね、ミレイ。帰ってくる場所は、ここだから」
「……はい。必ず戻ります」
扉へ向かう背中に、ウエスが声をかけた。
「ミレイユ」
立ち止まった彼女に、ウエスは杖を握る手に力を込め、自らの足で一歩踏み出して告げる。
「お前が行くなら、俺も戻る。第九隊は、誰一人欠けてはならない」
心の内に燻っていた静火が、完全な炎として蘇った瞬間だった。
ミレイユは振り返り、真っ直ぐな微笑みを浮かべた。
「――隊長が戻ってくるなら、私も迷わず動けます」
バタン、と静かに扉が閉まる。
部屋には、セレンの穏やかな寝息と、確かな希望の余韻だけが残された。
外へ踏み出したミレイユの足取りは軽い。
姉のような人と、必ず戻ると誓ってくれた隊長が待つ家へ。自分もまた任務を完遂し、必ず帰ると決めたから。




