【第五十六話】烈火の胎動と疾風への兆し
ミレイユが王都へ向けて旅立ってから、一日が過ぎた。
外周の森は、前日よりもさらに深く“沈み込んで”いた。
魔物の気配は異常なほど薄い。それなのに、森の奥深くからは息苦しいほどの重い魔力がジワジワと滲み出し、辺り一帯の空気を泥のように重くしていた。
ガレンは落ち着かない様子で、拠点の焚き火の周りを苛立たしげに歩き回っていた。
(胸の奥で火が暴れてる……落ち着けねぇ)
彼の内にある烈火は、不気味な静けさに逆らうように、行き場のない熱を持て余して燃えている。
「……何か来る。なのに何も出てこねぇ。森が息してねぇみたいだ」
「風は静かだよ、ガレン。焦っても読めないよ」
切り株に腰掛けたリアナが、澄んだ瞳でガレンを見つめていた。その声音は、凪いだ湖面のように穏やかだった。
「ガレン、少し訓練しよ。風の流れを読む練習」
「……あ? 俺は風使いじゃねぇよ。そんな小細工――」
「でも、あなたの足音は風に逆らってる。だから力が逃げてるの」
リアナの真っ直ぐな言葉に、ガレンは言葉を詰まらせた。
少しの沈黙の後、彼は頭をガシッと掻きむしり、「……わかったよ」と渋々木剣を手に取った。
訓練が始まると、ガレンの苛立ちは動きに如実に表れた。
大地を削るような力任せの踏み込み。だが、彼が打ち込もうとするたび、リアナの周囲に纏われた微かなソヨ風がガレンの重心をフワリとずらす。
まるで暖簾に腕押しだ。ガレンは何度もバランスを崩し、無様に体勢を立て直す羽目になった。
遠くでは、薪割りを手伝っていたドレイクが手を止め、静かにその様子を見守っている。
「なんだよこれ……。俺の動きが全部読まれてるみたいじゃねぇか」
「読めるよ。ガレンの動きは“強い”けど“直線”だから」
荒い息を吐くガレンに、リアナは木剣を下ろして静かに告げた。
「ガレンは強い。でも、強さは刃物だよ。風に逆らうと、自分も仲間も傷つける」
その言葉は、鋭くガレンの胸を突いた。
(……力は守るために使え。刃にするな)
かつてドレイクに言われた言葉と、リアナの言葉が重なる。
ガレンは足元の土を見つめ、木剣を握る手の力を少しだけ緩めた。
「……俺は、また焦ってたのか」
「うん。でも、焦るのは悪いことじゃないよ。守りたい気持ちが強いからだよね」
リアナがふわりと微笑む。
その瞬間、リアナの周囲を撫でていたソヨ風が、ひと筋だけ鋭い音を混ぜた。
相手を癒し、受け流すだけの風ではない。道を示す、“導く風”への兆しだった。
「もう一回。今度は、私の風を邪魔しないで動いてみて」
リアナが風を弱く流す。
ガレンは深く息を吸い込み、強引に大地を蹴るのをやめた。自分を押しとどめ、リアナの風の流れに身を委ねるように、そっと一歩を踏み出す。
足音が軽くなった。
肩から無駄な力が抜け、剣の軌道から荒々しさが消える。
行き場を失って暴走していた烈火が、静かな確信と共に燃え上がり始めた瞬間だった。
「……今の一歩、すごく良かったよ」
「……風って、こんなに違うのか」
ガレンは自身の手を見つめ、静かに呟いた。
ドレイクは薪に斧を振り下ろしながら、ポツリと一言だけこぼした。
「……風が変わったな。昔、隊長が初めて“風を掴んだ”時と同じだ」
同じ頃、王都。
ウエスの自宅では、朝の柔らかな光の中でリハビリが行われていた。
シーンの丁寧な治療魔法が、ウエスの魔力回路に走る刺すような痛みを和らげていく。
ウエスは杖をつきながら、ゆっくりと部屋の中を歩いていた。
胸元の共鳴石の光が、昨日よりわずかに強い。彼の呼吸に合わせるように、確かな明滅を繰り返している。
「今日は……歩幅が昨日より広いよ」
シーンが嬉しそうに目を細めた。
「……ああ。少しずつだが、戻ってきてる気がする」
ウエスは僅かに口角を上げた。だが、その穏やかな時間は、唐突な訪問者によって破られた。
「ウエス殿、申し訳ありません。至急のご報告が」
息を切らして駆け込んできたのは、魔力観測局の研究者だった。
「封印区画の揺らぎが昨日より強くなっています。それに……黒霧の反応も微弱に出始めました」
「……ヴァルグか」
ウエスの声が一段低くなり、その瞳に冷たい炎が宿る。
王都の地下深くで、かつての因縁が再び胎動を始めていた。
「ウエス……戻らないで。まだ身体が……」
不安げに袖を掴むシーンに、ウエスは静かに、しかし断固として首を振った。
「戻る。あいつらが、辺境の森で戦ってるんだ。俺が行かない理由はない」
「……でも」
シーンはウエスの手を取り、その真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「あなたは一人じゃない。私がいる。第九隊がいる。あなたを支える人が、今はたくさんいるのよ」
その温かい言葉に、ウエスの強ばっていた肩からふっと力が抜ける。
彼はシーンの手を優しく握り返し、静かに頷いた。
王都へ続く街道。
ガタガタと揺れる馬車の中で、ミレイユは眉をひそめて窓の外を睨んでいた。
(おかしい……。辺境の森からはもう随分離れたはずなのに)
空気の底に、あの森で感じたものと同じ魔力の濁りが薄くへばりついている。
彼女は手元の地図を広げ、地脈の流れを指でなぞった。
「……地脈の乱れが、王都側にも伸びてる?」
「いやぁ、昨日からどうも風が冷たいんですよ。夏だってのに、妙ですよねぇ」
御者の何気ない言葉に、ミレイユの背筋を冷たいものが駆け上がった。
馬車が休憩のために立ち寄った小さな村。そこで彼女は、街道脇の土の一部が、あの森のように“黒ずんで”いるのを見つけた。
ミレイユは無意識に指先で土を揉み、その感触の違いに眉を寄せた。
(『穴が、光が、道を作った』……)
ユアンが倒した野盗が最後に遺した狂言。それがただの戯言ではなく、何か具体的な現象を指しているのだとしたら。
「……急がないと。これは森だけの問題じゃない」
ミレイユは黒ずんだ土を小さな硝子瓶に採取し、馬車へと駆け戻った。
彼女の頭脳の中で、点と点が繋がり、ひとつの恐ろしい仮説へと向かう“知の胎動”が始まっていた。
荒ぶる力を制御し、静かな覚醒への一歩を踏み出したガレン。
癒すだけのソヨ風から、仲間を導く疾風への兆しを見せたリアナ。
王都で着実に回復への階段を上り、決意を新たにするウエス。
そして、道中で世界の裏側を侵食する異変の形を掴みかけたミレイユ。
辺境の森と王都の封印区画。
遠く離れた二つの場所で、見えない悪意が静かに脈動を強めていく中、彼らの内なる烈火と疾風もまた、同時に動き出そうとしていた。
――遠い森の奥で、誰かが息を潜めるような気配がした。




