【第五十五話】一人きりの戦い
泥を蹴り立てる重い足音が、夜の静寂を暴力的に引き裂いた。
「あ……頭が……うるさい……っ! 森が……喋って……る……!」
飛び出してきた野盗の踏み込みは、正気を失っているとは思えないほど獣のように鋭かった。
夜気を裂いて、無造作に振り上げられた刃がユアンへ迫る。
ガァンッ!
ユアンは咄嗟に槍の柄で受け止めた。だが、打ち込まれた衝撃に両腕がビリッと痺れる。
「ぐっ……!」
受け流しきれなかった刃の先端が、ユアンの肩口を浅く切り裂いた。
熱い痛みが走る。後退しようとした足が、生温かく濡れた腐葉土に深く沈み込み、体勢が大きく崩れた。
荒い呼吸を繰り返すユアンの目の前で、野盗の首筋に浮き出た黒い血管が、ドクン、ドクンと嫌な脈動を打っている。
それは先ほどユアンが胸の奥で感じた、あの森の“底”の拍動と完全に同調していた。
「ぁああっ! 黙れ、黙れぇっ!」
野盗は耳を塞ぐように頭を抱え、虚空を睨みつけた。
「土の奥から……誰かが……笑ってる……!」
焦点の合わない、瞳孔の開ききった目でわめき散らしている。
恐怖よりも先に、強烈な直感がユアンの背筋を貫いた。
(……こいつは、ただの敵じゃない)
この男の狂気には、明らかにあの森の“何か”が関わっている。だが、怯んで背を向ければ確実に殺される。
ユアンは痛む肩を庇いながら、泥の中で槍を構え直した。
野盗が大上段から刃を振り下ろしてくる。
ユアンはウエスから叩き込まれた『重い踏み込みからの迎撃』を試みた。腰を深く落とし、大地を掴み、相手の力を真正面から弾き返す隊長の剣撃。
――だが、踏み込んだ足が泥に滑った。
「くそっ……!」
大人の体重と、狂乱による火事場の馬鹿力。
それを今のユアンの細い体格で、しかもこの最悪の足場で正面から受け止めることなど不可能だった。
強引に槍の軌道を弾かれ、ユアンは無様に泥の上へ転がった。手の中で槍の柄が震えている。
(この足場じゃ無理だ……。俺の体じゃ、隊長の踏み込みは再現できない……っ!)
刃が、ユアンの脳天めがけて振り下ろされる。
泥だらけの視界の中で、ユアンは深く息を吸い込んだ。
頭の中から、力で対抗しようとする隊長の幻影を捨てる。
泥に沈んだ足を無理に踏み込まず、風の流れに身を合わせるように、ふっと半歩だけ後ろへ体重を“ずらした”。
ブンッ!
野盗の刃が空を切り、前のめりになった敵の体勢が大きく崩れる。
その瞬間、ユアンは手首の返しだけで槍を操った。ウエスの重い一撃ではない。自身の身軽さを活かした、鋭く、軽い連続の突き。
「isComposite……俺の戦い方で行く!」
一撃目。鋭い突きが野盗の肩口を浅くえぐり、体勢をさらに崩させる。
二撃目。下から跳ね上げるような軌道で、野盗の手から刃を弾き飛ばした。
そして三撃目。がら空きになった胸の中心へ、角度を変えた軽いステップと共に槍先を深く突き込んだ。
「が、はっ……」
くぐもった血の音と共に、野盗が泥の上に崩れ落ちた。
荒い息を吐きながら、ユアンは槍を引き抜く。
泥に倒れ伏した野盗の首筋から、黒い脈動がゆっくりと引いていく。
その瞳に、死の間際、一瞬だけ人間の恐れが戻ったように見えた。
「……穴が……光が……道を……作った……」
泥の中で震える声が、血泡と共に漏れる。
「触れたら……戻れねぇ……戻れねぇんだよ……っ」
そのまま、男は事切れた。
「穴? 光? 道……?」
意味は全く分からない。だが、それがただの狂言ではないことだけは、男の顔に張り付いた絶望の色が物語っていた。
集落の拠点へ戻ると、パチパチと爆ぜる焚き火の前でガレンが待っていた。
肩から血を流し、泥だらけになって帰還したユアンの姿を見るなり、ガレンが顔色を変えて立ち上がる。
「馬鹿野郎! なんで助けを呼ばねぇんだ!」
身内を案じる、熱の込もった一喝だった。
「異常があればすぐに報告しろって教わっただろうが! お前一人の命じゃねぇんだぞ!」
「すみません……。でも、一瞬の隙もなくて、自分でやるしかなくて……」
ガレンはガシッと頭を掻きむしって大きなため息をついた。
「……お前が帰和ってこなかったらと思うと、心臓が冷えたんだよ」
ポツリとこぼした不器用な本音のあと、ガレンはユアンの泥に汚れた槍を見て、少しだけ口角を上げる。
「……まぁ、生き残って帰ってきたんだ。ウエス隊長がいねぇ中、最後まで自分一人でやりきったのは大したもんだ。よくやった」
それは、頼れる兄貴分からの確かな承認だった。
ガレンは背後を振り返る。
「ミレイユ! こいつの肩を頼む!」
「ちょっと、私明日の準備で忙しいんだけど……って、あんたその血どうしたのよ!」
テントから顔を出したミレイユが目を丸くし、慌てて包帯と薬草の小瓶をひったくるように抱えて駆け寄ってくる。
「ユアンの風、少し変わったよ。迷いが減った風になってる」
焚き火の向こうからリアナが微笑んだ。傍らに座るドレイクも、言葉は発さず、ただ深く一度だけ頷いた。
ミレイユはユアンの肩を手当てしながら、ふと彼の服に付着した野盗の黒い返り血に一瞬だけ鋭い視線を走らせた。
「……この色、やっぱり森の土と同じ……」
小さく呟いたその横顔には、王都で真実を突き止めようとする研究者としての強い執念が滲んでいた。
手荒くも手際の良い手当を受けながら、ユアンは自分の両手を見た。
そこには、背伸びした模倣ではない、自分自身で掴み取った確かな勝利の感覚が残っていた。
翌朝。
ミレイユは王都へ向かうための荷物をまとめ終えていた。
見送る彼らの頬を、森の奥から這うような冷たい風が一筋だけ撫でていく。
「……森が沈んでる。ゆっくり……確実に」
リアナのつぶやきに、ガレンが前を見据えたまま応える。
「ミレイユが戻るまで、俺たちで守るぞ」
ユアンは無言で、自身の体の一部のように馴染み始めた槍の柄を握り直した。
野盗が最後に残した言葉。そして、森の奥で確実に脈打つ何か。
見えない脅威は静かに迫っている。
それでも、自分の足で立つことを覚えた第九隊の最年少は、もう決して迷わなかった。




